
薩摩藩、幕府、天皇に嫌われた長州藩
長州藩に並んで力を持つ藩として薩摩藩がありましたが、薩摩藩は公武合体の思想を持っており、そのため長州藩は相容れない存在でした。また、長州藩の思想である尊王攘夷は天皇中心の政治を目指しており、日本を統治していた幕府にとっては目障りな思想です。
このため薩摩藩は異なる思想を持つ長州藩を嫌い、また天皇中心の政治を望んでいるという点で幕府も長州藩を嫌っていました。要するに公武合体派と尊王攘夷派の争いですが、ここで強かったのは過激なまでの思想を掲げる長州藩で、同時にその過激な思想が命取りにもなってしまいます。
と言うのも、当時天皇だった孝明天皇は攘夷派のため、本来なら長州藩を味方するはずなのですが、長州藩のあまりに過激な思想による暴走はさすがに支持できなったのです。攘夷のために戦争するつもりのない孝明天皇にとって、例え同じ攘夷の思想を掲げていても過激すぎる長州藩は排除すべき存在でしかありませんでした。
長州藩を京都から追放させた八月十八日の政変
暴走する長州藩を止めるべく行われたのが1863年の八月十八日の政変でした。攘夷親征計画(天皇自ら兵を率いて攘夷を実行させるための計画)のクーデターを企む長州藩に対して孝明天皇・薩摩藩らもクーデターによってこれを阻止する……つまり、八月十八日の政変とはカウンタークーデターです。
そして八月十八日の政変によるカウンタークーデターは見事成功、長州藩とそれに味方していた公家達は京都からの追放処分を受けました。この結果に長州藩は薩摩藩を強く恨んだとされており、京都追放された後も再び京都で政局に復帰することを諦めなかったのです。
しかし京都での政局復帰は実質難しく、なぜなら薩摩藩を中心とした公武合体派が既に京都を抑えていたからですね。そのため、長州藩の内部でも「武力行使で京都進軍を目指す意見」と「慎重に動くべきとする意見」に分かれまずが、これは後者の意見を支持する者が多かったとされています。

過激な尊王攘夷派だった長州藩は公武合体派の薩摩藩や日本と統治する幕府からはもちろん、同じ攘夷派の孝明天皇にすら嫌われた。そこでクーデターを起こす計画を練るも逆にクーデターで返されてこれも失敗、ついには京都から追放されてしまったのだ。
池田屋事件に激怒、京都への進軍を決意した長州藩
政局復帰への方法として京都への進軍を提案する意見が少なかったのは、追放された上に京都で戦いを起こせば長州藩が朝敵とみなされてしまうことを怖れたからでしょう。このため長州藩の内部では慎重に動くべきという意見が多数を占めてしましたが、その状況を一変させたのが1864年の池田屋事件です。
八月十八日の政変で京都を追放された一部の攘夷派は、実は京都に潜伏しており、公武合体派の有力人物の幽閉・殺害のための挙兵を密かに企てていました。また、尊王攘夷を思想としている彼らは京都に火を放ち、天皇を長州藩に迎えることまで計画していたのです。
そんな不穏な動きを見せる京都に潜む攘夷派、これを発見して襲撃したのが新選組でした。計画を練るため宿で密会する有力な攘夷派を一斉に襲撃して殺害、これが池田屋事件であり、事件を知った長州藩は激怒、出兵して京都に進軍することを決意したのです。
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禁門の変に敗北、朝敵とみなされた長州藩
京都に進軍した長州藩は「八月十八日の政変で藩主に罪がないこと」、「京都を追放された尊王攘夷派の公家を復帰させること」など朝廷に訴えようとしますが、朝廷はこれを拒否、長州藩に退去命令を下します。一方、長州藩はそんな朝廷の命令を拒否、これで完全に交渉は決裂しました。
退去しようとしない長州藩に対して京都を抑える会津藩が攻撃、こうして京都御所にて戦い……すなわち禁門の変が起こったのです。この戦いで優勢となったのは長州藩で、会津藩を襲撃しつつ門を突破して京都御所内まで侵入していきます。
しかし、不利な状況の中で会津藩に援軍が到着、その援軍こそ西郷隆盛率いる薩摩藩でした。武力に長けた薩摩藩が戦いに加わってことで形勢は逆転、次々を主力を倒された長州藩は敗北、また京都御所に向けて発砲したことで長州藩は朝敵とみなされてしまいました。
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