

この戦いでは長州藩が敗北するが、実は戦った相手とは後に長州藩と同盟を結んだ薩摩藩であり、なぜ長州藩と薩摩藩は争ったのだろうか。その点も含め、今回禁門の変について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から禁門の変をわかりやすくまとめた。
禁門の変とは
1864年、京都御所にて長州藩と薩摩藩を中心とする幕府の勢力が武力衝突、京都市中の3万戸ほどが焼かれるほどの大きな戦いになります。これが禁門の変であり、この戦いの戦況は当初長州藩が有利でしたが、西郷隆盛が薩摩藩の兵を率いて参戦するとたちまち形成は逆転、結果長州藩の敗北に終わりました。
さらに、長州藩にとって災いしたのが京都御所が戦場になったことです。御所とは天皇、もしくは特に位の高い貴人の邸宅のことであり、長州藩が御所に向けて発砲したため朝廷の怒りを買い、戦いの後長州藩は朝敵(天皇とその朝廷に敵対する勢力)とみなされてしまいました。
力を持っていた長州藩も朝敵とみなされた事実は致命傷になり、幕府による長州征討を受けてしまい、さらには外国人を攻撃していたことに対する報復も受けてしまいます。まさに国内外から集中砲火を受ける状況となり、そのため長州藩は滅亡の危機にまで陥る結果となりました。
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禁門の変の原因の根本にある2つの政治思想
戦いが起こるからには必ずその原因となるものがあります。禁門の変においてもそれは例外ではありませんが、そのいきさつは少々複雑で話をさかのぼって考えなければなりません。まず、禁門の変が起こった原因の根本にあるのは「公武合体」と「尊王攘夷」の2つの政治思想です。
当時の日本には、「朝廷と幕府が協力した政治」を思想とする公武合体と「天皇中心となって外国人を排除する政治」を思想とする尊王攘夷、2つの政治思想がありました。そして、長州藩は後者……つまり尊王攘夷の思想を掲げていたのです。
しかも長州藩のその思想は暴走するほど強く過激なものであり、そんな長州藩を内心疎ましく思っている大きな存在が3つありました。1つ目に幕府、2つ目に薩摩藩、3つ目に天皇。この状況の中、様々な衝突や問題の果てに起こった事件が禁門の変なのです。
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政治思想の違いは争いの種になる。公武合体の思想を持つ者からすれば尊王攘夷を思想を持つ者は敵であり、また公武合体に関係する者からも嫌われるだろう。この長州藩の現状が、禁門の変が起こった原因になってくるのだ。
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