今日は尊王攘夷について勉強していきます。幕末の歴史を学ぶ中では、たびたび「尊王攘夷」という言葉が登場するでしょう。しかし、言葉の登場の多さの割にはこれについての説明が少ないのが厄介です。

そこで、改めて尊王攘夷の意味をここで覚えておこう。そうすれば幕末の歴史を理解しやすくなり、勉強の効率も良くなるに違いない。今回は尊王攘夷について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から尊王攘夷をわかりやすくまとめた。

尊王攘夷の意味と疑問

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尊王攘夷の意味

まず言葉の意味を解説すると、尊王攘夷とは「天皇を敬って外敵を撃退すること」です。これは暗記せずとも文字から連想できることで、王を尊敬すると書いて「尊王」であり、日本において王とは天皇を示しますね。そして「攘夷」とは外敵を追い払うことで、これは辞書でもそう解説されている言葉です。

最も、あくまでそれは直訳であり、尊王攘夷は政治的思想を意味する言葉になります。そのため「天皇を敬って外敵を撃退する」……すなわち「天皇を中心とした外国人を追い払う政治」と解釈すると分かりやすいでしょう。

つまり、尊王攘夷論や尊王攘夷派というのは「天皇を中心とした外国人を追い払う政治」を支持する考え、支持する者ということになります。尊王攘夷の説明は以上ですが、その意味を知ることで幕末の流れを理解しやすくなりますから、これから一緒にその流れを追っていきましょう。

尊王攘夷の疑問

さて、尊王攘夷の言葉から二つの疑問が生まれます。一つはそこに幕府が含まれていないことで、天皇中心の政治とされていることから幕府が無視されているように思えますね。そして、もう一つはなぜそこまで外国人が嫌われているのかということです。

まず一つ目の疑問についてですが、日本人にとって最も尊敬すべきなのは天皇であることに違いなく、これは幕末においても例外ではありません。しかし、実際に政治の中心になっていたのは幕府ですから、天皇中心の政治というのは明らかに幕府と敵対する考えのように思えます。

次の二つ目の疑問についてですが、日本は長い間鎖国体制をとっていましたから、元々外国に対して友好的ではありませんでした。それが幕末には外国人を追い払うという攻撃的な思想が見られるようになり、つまり尊王攘夷の思想が広まっていったのです。

尊王攘夷と公武合体の違い

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反幕を意味する尊王攘夷の思想

尊王攘夷の思想は天皇中心の政治を意味していることから、イコール反幕の考えになります。それを示すものとして、幕末において頻繁に起こっていた尊王攘夷運動は反幕府運動ですし、尊王攘夷を考えとしている長州藩は幕府から嫌われる存在でした。

また、幕府は尊王攘夷の流れを止めるために過激な弾圧も行っており、それが1858年から1859年にかけて井伊直弼によって行われた安政の大獄です。井伊直弼は幕府の大老でしたから、尊王攘夷派は井伊直弼……つまり幕府にとって敵であるため厳しく弾圧したのでしょう。

最も、その厳しい弾圧がまた世間の反発を招くことになり、そのため井伊直弼は過激な尊王攘夷派によって暗殺されてしまい、これが1860年に起こった桜田門外の変と呼ばれる事件です。尊王攘夷派を厳しく弾圧した安政の大獄は、この井伊直弼の死によって終わりました。

尊王攘夷と対立する公武合体の思想

尊王攘夷と対の思想となるのが公武合体です。公武合体とは「朝廷と幕府が協力して政治を行う」という考え方で、尊王攘夷との大きな違いは幕府の政治への参加の有無ですが、実は公武合体にも外国人を追い払う思想が含まれています。

と言うのも、そもそも朝廷と幕府が協力するのは外国に対抗できる強い日本を作ることを目的としているためで、日本が一丸にならなければ外国を追い払えないと考えたのです。そして、この公武合体を支持していたのが薩摩藩でした。

薩摩藩は幕末において長州藩と同盟を結んでおり、これが1866年の薩長同盟です。公武合体の考えの薩摩藩と尊王攘夷の考えの長州藩、思想の違いからお互いの藩は犬猿の仲であり、これをうまく取りまとめて関係修復に努めて活躍したのが坂本竜馬でした。

攘夷の思想と現実

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攘夷の思想を生んだ黒船来航

日本は長い間鎖国体制を続けていましたが、これに終止符をうつきっかけとなったのが1853年のペリーによる黒船来航です。圧倒的武力を感じさせる艦隊でやってきたペリーは日本に開国を迫り、翌1854年に日米和親条約を結んだことで日本の鎖国体制は終わります。

当時、江戸時代は主君と臣下の違いを説いた朱子学、日本古来の精神を主張した復古主義の国学、これらがある種のブームになっており、その影響で天皇を尊ぶ尊王論が世に広まりつつありました。日本がそんな状況の時にペリーが来航、さらには1858年に日米修好通商条約が結ばれます。

このため外国人を追い払う攘夷論も広まり、しかも当時天皇だった孝明天皇が攘夷派だったことから、尊王論と攘夷論をあわせた尊王攘夷論……つまり尊王攘夷の思想が広まることになったのです。特に、日米修好通商条約は日本に不利益なものであったため、外国人を嫌う尊王攘夷派が増えたのでしょう。

「攘夷は不可能」の現実

尊王攘夷派によって起こった事件は多々あり、例えばヒュースケン暗殺事件東禅寺事件、薩英戦争のきっかけにもなった生麦事件などが挙げられますね。日本は外国人を追い払うために攻撃、こうして数々の事件を起こしますが、やがて攘夷の考えは変わっていきます。

と言うのも、力を持つ薩摩藩や長州藩が外国との戦争に敗れたためで、攘夷は無謀かつ実現不可能だと悟ったのです。また、海外の圧力に対して屈するしかない幕府も頼りなく、そのため幕府よりも天皇中心……と言うよりも幕府を倒して天皇中心の政治をするべきではないかと人々は考えるになりました。

こうして外国の力を認めた尊王攘夷派は尊王攘夷から尊王倒幕へと考えを変えます。そして、幕府の失墜は同時に公武合体派の考えも変えることとなりました。公武合体を思想としていた薩摩藩が倒幕へと考えを変えたのもそれが理由であり、薩長同盟以降、倒幕ムードは加速していったのです。

\次のページで「倒幕が実現した戊辰戦争」を解説!/

倒幕が実現した戊辰戦争

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幕府の終わりと明治政府誕生

倒幕ムードが高まる中、薩摩藩と長州藩は幕府を武力によって倒すことを目指します。倒幕の目的はもちろん尊王論に基づいて天皇中心の政治による日本を実現するためで、朝廷からもその許可(討幕の密勅)が出たことでいよいよ幕府との戦いが目前に迫りました。

しかしここで想定外の出来事が起こり、幕府の将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って政権を天皇へと返上したのです。これによって倒幕せずとも幕府は自ら幕を下ろし、そのため待望の尊王論が実現するかのように思われました。

しかし、確かに形式上は天皇中心の政治ではあるものの、幕府の将軍だった徳川慶喜は依然政治に携わっており、これに反対する者が結集して幕府の廃止と新体制の樹立を宣言したのです。これが1868年に行われた王政復古の大号令で、新政府……すなわち明治政府誕生の瞬間でした。

新政府軍対旧幕府軍による戊辰戦争

しかし、それでも徳川慶喜はその知略を駆使して危機を乗り越えて見せ、この状況を打破するためにはやはり今は亡き幕府の軍勢……つまり旧幕府軍と戦うことが必要と考えられるようになりました。つまり新政府軍と旧幕府軍の戦いであり、これが1868年に起きた戊辰戦争です。

新政府軍はもちろん薩摩藩と長州藩が中心となっており、一年にも渡る戦争の末新政府軍が勝利、これで正真正銘倒幕が果たされ、明治天皇による新たな政治が始まっていきます。天皇中心の政治を思想とした尊王攘夷派にとって、倒幕による明治天皇の政治は待ち望んだ時代にだったでしょう。

尊王攘夷の言葉が頻繁に登場するのは幕末であり、明治政府誕生後はほとんど聞くことはありません。と言うのも、明治政府誕生によって尊王は実現し、また攘夷は果たせないと悟ったわけですから、これ以降尊王攘夷を訴える機会も必要もなくなったのです

\次のページで「明治政府の政治と尊王攘夷のまとめ」を解説!/

明治政府の政治と尊王攘夷のまとめ

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士族を失望させた明治政府の政治

尊王攘夷そのものは実現しなかったにしても、明治政府の明治天皇による政治は尊王の部分においては実現されたと言えるでしょう。では、その政治は尊王攘夷を考える人々にとって満足できるものだったのか?…それは必ずしもそうとは言えなかったようです。

江戸時代、公武合体から倒幕への考えを変えた薩摩藩は新政府軍として旧幕府軍と戦いました。時は進んで1877年、日本国内最後の内戦と呼ばれる西南戦争が勃発しますが、実はこの時明治政府軍と敵対して戦ったのは西郷隆盛率いる薩摩藩の士族達なのです

明治政府による政治政策は廃藩置県など武士にとって不満となるものが多く、そのため各地で暴動が起こるほど治安が乱れていました。我慢の限界に達した薩摩藩の士族達は戊辰戦争の時には支持したはずの明治政府と敵対、ついには戦争が起こるほどの騒ぎになってしまったのです。

尊王攘夷のまとめ

尊王は日本人のほとんどに共通する思想であり、そこにきてペリーの黒船来航によって日本は混乱しました。このため外国人を追い払う攘夷の考えを持つ者が次々と現れるようになります。しかも当時の天皇である孝明天皇もまた外国人を嫌っていました

天皇は日本において最も敬うべき存在で、そんな天皇が攘夷の考えを持っていたため、多くの人は尊王攘夷を唱えるようになったのです。また、頼れるはずの幕府も外国の圧力には対抗できず、ついには天皇の許可なく日本に不利な日米修好通商条約を結んでしまいました。

当然、尊王攘夷派の者達は頼りにならない幕府に不満を持ち、天皇中心で外国人を追い払う尊王攘夷に従う行動を活発化させます。これが尊王攘夷運動ですが、やがては外国の力を実感して攘夷を断念、尊王攘夷の考えは倒幕へと変わっていったのです。

尊王攘夷が分かれば幕末を学びやすくなる

尊王攘夷の意味が分かれば、幕末の勉強を理解しやすくなります。例えば井伊直弼は安政の大獄を行って尊王攘夷派を厳しく取り締まりましたが、尊王攘夷の意味を知ることで井伊直弼の行動が理解できますね。

また、幕府が無勅許で日米修好通商条約に調印したことに対して、攘夷派の孝明天皇が激怒した理由も理解できるでしょう。このため尊王攘夷を学んだ後に改めて幕府を学ぶと、より理解しやすくなって知識になりますよ。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末のキーワード!「尊王攘夷」の意味を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は尊王攘夷について勉強していきます。幕末の歴史を学ぶ中では、たびたび「尊王攘夷」という言葉が登場するでしょう。しかし、言葉の登場の多さの割にはこれについての説明が少ないのが厄介です。

そこで、改めて尊王攘夷の意味をここで覚えておこう。そうすれば幕末の歴史を理解しやすくなり、勉強の効率も良くなるに違いない。今回は尊王攘夷について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から尊王攘夷をわかりやすくまとめた。

尊王攘夷の意味と疑問

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尊王攘夷の意味

まず言葉の意味を解説すると、尊王攘夷とは「天皇を敬って外敵を撃退すること」です。これは暗記せずとも文字から連想できることで、王を尊敬すると書いて「尊王」であり、日本において王とは天皇を示しますね。そして「攘夷」とは外敵を追い払うことで、これは辞書でもそう解説されている言葉です。

最も、あくまでそれは直訳であり、尊王攘夷は政治的思想を意味する言葉になります。そのため「天皇を敬って外敵を撃退する」……すなわち「天皇を中心とした外国人を追い払う政治」と解釈すると分かりやすいでしょう。

つまり、尊王攘夷論や尊王攘夷派というのは「天皇を中心とした外国人を追い払う政治」を支持する考え、支持する者ということになります。尊王攘夷の説明は以上ですが、その意味を知ることで幕末の流れを理解しやすくなりますから、これから一緒にその流れを追っていきましょう。

尊王攘夷の疑問

さて、尊王攘夷の言葉から二つの疑問が生まれます。一つはそこに幕府が含まれていないことで、天皇中心の政治とされていることから幕府が無視されているように思えますね。そして、もう一つはなぜそこまで外国人が嫌われているのかということです。

まず一つ目の疑問についてですが、日本人にとって最も尊敬すべきなのは天皇であることに違いなく、これは幕末においても例外ではありません。しかし、実際に政治の中心になっていたのは幕府ですから、天皇中心の政治というのは明らかに幕府と敵対する考えのように思えます。

次の二つ目の疑問についてですが、日本は長い間鎖国体制をとっていましたから、元々外国に対して友好的ではありませんでした。それが幕末には外国人を追い払うという攻撃的な思想が見られるようになり、つまり尊王攘夷の思想が広まっていったのです。

尊王攘夷と公武合体の違い

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反幕を意味する尊王攘夷の思想

尊王攘夷の思想は天皇中心の政治を意味していることから、イコール反幕の考えになります。それを示すものとして、幕末において頻繁に起こっていた尊王攘夷運動は反幕府運動ですし、尊王攘夷を考えとしている長州藩は幕府から嫌われる存在でした。

また、幕府は尊王攘夷の流れを止めるために過激な弾圧も行っており、それが1858年から1859年にかけて井伊直弼によって行われた安政の大獄です。井伊直弼は幕府の大老でしたから、尊王攘夷派は井伊直弼……つまり幕府にとって敵であるため厳しく弾圧したのでしょう。

最も、その厳しい弾圧がまた世間の反発を招くことになり、そのため井伊直弼は過激な尊王攘夷派によって暗殺されてしまい、これが1860年に起こった桜田門外の変と呼ばれる事件です。尊王攘夷派を厳しく弾圧した安政の大獄は、この井伊直弼の死によって終わりました。

尊王攘夷と対立する公武合体の思想

尊王攘夷と対の思想となるのが公武合体です。公武合体とは「朝廷と幕府が協力して政治を行う」という考え方で、尊王攘夷との大きな違いは幕府の政治への参加の有無ですが、実は公武合体にも外国人を追い払う思想が含まれています。

と言うのも、そもそも朝廷と幕府が協力するのは外国に対抗できる強い日本を作ることを目的としているためで、日本が一丸にならなければ外国を追い払えないと考えたのです。そして、この公武合体を支持していたのが薩摩藩でした。

薩摩藩は幕末において長州藩と同盟を結んでおり、これが1866年の薩長同盟です。公武合体の考えの薩摩藩と尊王攘夷の考えの長州藩、思想の違いからお互いの藩は犬猿の仲であり、これをうまく取りまとめて関係修復に努めて活躍したのが坂本竜馬でした。

攘夷の思想と現実

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攘夷の思想を生んだ黒船来航

日本は長い間鎖国体制を続けていましたが、これに終止符をうつきっかけとなったのが1853年のペリーによる黒船来航です。圧倒的武力を感じさせる艦隊でやってきたペリーは日本に開国を迫り、翌1854年に日米和親条約を結んだことで日本の鎖国体制は終わります。

当時、江戸時代は主君と臣下の違いを説いた朱子学、日本古来の精神を主張した復古主義の国学、これらがある種のブームになっており、その影響で天皇を尊ぶ尊王論が世に広まりつつありました。日本がそんな状況の時にペリーが来航、さらには1858年に日米修好通商条約が結ばれます。

このため外国人を追い払う攘夷論も広まり、しかも当時天皇だった孝明天皇が攘夷派だったことから、尊王論と攘夷論をあわせた尊王攘夷論……つまり尊王攘夷の思想が広まることになったのです。特に、日米修好通商条約は日本に不利益なものであったため、外国人を嫌う尊王攘夷派が増えたのでしょう。

「攘夷は不可能」の現実

尊王攘夷派によって起こった事件は多々あり、例えばヒュースケン暗殺事件東禅寺事件、薩英戦争のきっかけにもなった生麦事件などが挙げられますね。日本は外国人を追い払うために攻撃、こうして数々の事件を起こしますが、やがて攘夷の考えは変わっていきます。

と言うのも、力を持つ薩摩藩や長州藩が外国との戦争に敗れたためで、攘夷は無謀かつ実現不可能だと悟ったのです。また、海外の圧力に対して屈するしかない幕府も頼りなく、そのため幕府よりも天皇中心……と言うよりも幕府を倒して天皇中心の政治をするべきではないかと人々は考えるになりました。

こうして外国の力を認めた尊王攘夷派は尊王攘夷から尊王倒幕へと考えを変えます。そして、幕府の失墜は同時に公武合体派の考えも変えることとなりました。公武合体を思想としていた薩摩藩が倒幕へと考えを変えたのもそれが理由であり、薩長同盟以降、倒幕ムードは加速していったのです。

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