
日ソ共同宣言で北方領土問題はどうなった?交渉の経緯も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

かつて国土地理院は、北方領土を択捉島・国後島・色丹島・歯舞「諸島」と表記していたな。ところが、「歯舞諸島」と「歯舞群島」が混在していたために、教育現場などでは混乱が生じていたようだ。そこで、2008年から歯舞「群島」で統一することになったぞ。「群島」はまとまりをもって群がっている島々、「諸島」は2つ以上の島の集団、という違いがあるらしい。
日本が国際連合への加盟を果たす
1932(昭和7)年に日本が国際連盟脱退を通告し、それ以降の日本は国際社会で孤立化します。しかし、日本は第二次世界大戦に敗れました。そのため、日本は国際社会に復帰しようと、1952(昭和27)年に国際連合への加盟を申請します。しかし、ソ連が拒否権を発動したため、加盟は実現しませんでした。
日ソ共同宣言では、一転してソ連が日本の国際連合加盟を支持するという立場に変わったのです。そのため、日本が国際連合に加盟することを遮るものはなくなりました。1956(昭和31)年の国連総会では、日本の国連加盟にソ連も賛成へ回ったため、ついに日本は国際社会に復帰したのです。
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日ソ間の経済や文化の交流が復活する
日本とソ連との外交関係が回復したことにより、経済や文化でも2国間の交流が復活します。日ソ通商航海条約を締結し、シベリア鉄道やナホトカ港が整備され、シベリアの森林資源などが日本にもたらされるようになりました。ボリショイ・バレエの初来日も、日ソ共同宣言の翌年となる1957(昭和32)年のことです。
特に漁業においては、日ソ漁業条約が締結されました。それに基づき、両国のサケ・マスの漁獲量や操業水域などが毎年取り決められるようになります。漁業権の交渉は日ソ共同宣言に先んじて行われ、漁業交渉が先に決着したため、数ヶ月後の日ソ共同宣言につながったともいえるでしょう。
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北方領土問題は残ったまま
日本が北方領土の四島を日本固有の領土だとする見解は変えていませんが、鳩山内閣がソ連との国交回復を優先させたため、日ソ共同宣言では色丹島と歯舞群島の二島返還を明記することで妥協しました。ところが、日ソ共同宣言から60年以上経過した今も、二島返還は実現していません。
二島返還の前提条件となっている平和条約の締結も、交渉が中断している状態です。ソ連がロシアに変わった今も、北方領土はロシアが実効支配しています。日本人が自由に北方領土の地に立つことはできません。日ソ共同宣言の効力に変わりはありませんが、北方領土問題は今も未解決のままなのです。

1956年に締結された日ソ漁業条約は、1977年に日ソ漁業暫定協定が成立し、その役目を終えたぞ。ソ連が200カイリ漁業水域を設定し、条約の破棄を通告したからだ。1985年になり、日ソ漁業協力協定へ移行したな。しかし、ロシア当局が日本の漁船を拿捕するなど、漁業分野で両国間は必ずしも友好的ではないといえるだろう。
ソ連が崩壊するまでの日ソ間の交渉は?
1960(昭和35)年にソ連が発出した対日覚書で、歯舞群島と色丹島の引渡しは日本の領土から全外国軍隊が撤退してからという、新たな条件を課しました。もちろん日本はその条件に納得しませんでした。日ソ共同宣言の内容を一方的に変更することはできないと反論しています。
その後、ソ連は長い間、北方領土問題は存在しないという態度を崩しませんでした。しかし、1991(平成3)年にゴルバチョフ書記長が来日。海部俊樹首相と日ソ共同声明に署名しました。文書には北方領土四島の名前が具体的に列挙され、日本との間に領土問題が存在することを認めたのです。
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