日ソ共同宣言で北方領土問題はどうなった?交渉の経緯も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説
鳩山一郎が関係回復へ意欲を見せる
1954(昭和29)年、日本民主党が結成され、鳩山一郎が総裁となります。当時は造船疑獄が浮上して、第5次吉田茂内閣は責任が問われていました。そこで、日本民主党は吉田内閣に対して不信任決議案を提出します。吉田はなおも対抗しようと試みましたが、結局は内閣総辞職に追い込まれたのです。
吉田の後に首相となったのが、鳩山でした。首相就任後の記者会見では、鳩山はすでにソ連との交渉に意欲を見せていました。1955(昭和30)年、鳩山の日本民主党は吉田がいた自由党と保守合同を果たして、自由民主党が結成されます。その前後から、鳩山内閣による日ソ間の交渉は進められていました。
こちらの記事もおすすめ
なぜ鳩山一郎は公職追放された?その理由を鳩山一郎の功績とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
交渉を重ねた末に署名が実現する
ソ連との国交回復に向けて、日本は何度もソ連と交渉を重ねました。重光葵や松本俊一といった全権大使を派遣しましたが、思ったような成果が得られませんでした。しかし、1956(昭和31)年にフルシチョフ第一書記長がソ連の西側諸国との共存路線への転換を表明したこともあり、日ソ間の交渉が活発化します。
1956年10月、鳩山首相は河野一郎農林水産大臣らとモスクワを訪問し、フルシチョフ第一書記長との首脳会談に臨みました。その結果、日本の鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言に署名。12月に東京で批准書が交換されて、条約が発効したのです。
日ソ間の戦争状態が完全に終結する
1945(昭和20)年に日本がポツダム宣言を受諾したことで、第二次世界大戦は事実上終結します。しかし、ポツダム宣言にソ連は署名しませんでした。さらに、ソ連はサンフランシスコ講和条約にも参加しなかったため、日本は改めてソ連と条約を締結する必要があったのです。
日ソ共同宣言に日ソ両国が署名したことで、日ソ間の戦争状態は完全に終結しました。日ソの外交関係は、完全に回復したのです。日ソ両国は相互不干渉を確認し、それぞれの自衛権を尊重。ソ連は戦争犯罪で拘留していた日本人を釈放し、日本に帰還させることになりました。
色丹島と歯舞群島の日本への引き渡し
あくまでも北方領土は日本固有の領土であり、海外の領土になったことは1度もないというのが、日本の立場です。しかし、第二次世界大戦前後からソ連が北方領土を実効支配していたのも事実でした。そこで、日本はソ連と北方領土について話し合う必要がありました。
日本とソ連が見出した妥協点は、平和条約締結後にソ連が日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことでした。もちろん、四島同時返還が理想なのは言うまでもありません。しかし、当時の日本はソ連との国交回復を優先させたため、まずは二島を返還する約束を取り付けることにしたのです。
\次のページで「日ソ共同宣言の影響は?」を解説!/