今回は、日ソ共同宣言について学んでいこう。

日ソ共同宣言の締結で日ソ間の国交は回復し、北方領土問題の解決にも前向きになったはずです。ですが、北方領土問題は一向に解決しない。なぜそのようなことになっているのでしょうか。

日ソ共同宣言により北方領土はどうなったかを、交渉の経緯などとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日ソ共同宣言前の日本とソ連の関係は?

image by iStockphoto

まずは、日ソ共同宣言の前は日本とソ連がどのような関係だったのか、おさらいしていきましょう。

ソ連が第二次世界大戦に参戦

1945(昭和20)ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告満州国や北方領土などを占領しましたソ連のスターリン書記長がヤルタ会談に出席して、アメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相と密約を結び、第二次世界大戦に参戦することを決めていたのです

日本としてはソ連による一連の行動を認めていません。当時有効だった日ソ中立条約を無視して日本に対して宣戦布告し、かつ日本のポツダム宣言受諾後に北方領土などを侵攻した、というのがその理由です。しかし、ソ連は法的に問題はなかったとして主張を変えませんでした

サンフランシスコ講和条約にソ連が署名せず

1951(昭和26)日本はサンフランシスコ講和条約に署名して第二次世界大戦を正式に終結させました日本の主権を回復させる代わりとして朝鮮半島の独立承認や台湾・千島列島・南樺太などの権利を放棄しています。ただし、千島列島には北方四島を含まないというのが、日本の言い分です。

サンフランシスコ講和条約を50もの国が批准しましたが会議には中国やインドなどが出席しませんでした。そして、ソ連は会議に参加していましたが条約を締結していません。結果的にサンフランシスコ講和条約は不完全な形となり、日本とソ連の国交は回復しませんでした。

日ソ共同宣言が発効されるまでの経緯は?

image by iStockphoto

第二次世界大戦で外交関係が途絶えた日本とソ連は、どのようにして日ソ共同宣言にこぎ着けたのでしょうか。ここでは、両国による交渉の経緯を見ていきましょう。

\次のページで「鳩山一郎が関係回復へ意欲を見せる」を解説!/

鳩山一郎が関係回復へ意欲を見せる

1954(昭和29)日本民主党が結成され鳩山一郎が総裁となります。当時は造船疑獄が浮上して、第5次吉田茂内閣は責任が問われていました。そこで、日本民主党は吉田内閣に対して不信任決議案を提出します吉田はなおも対抗しようと試みましたが結局は内閣総辞職に追い込まれたのです

吉田の後に首相となったのが鳩山でした首相就任後の記者会見では鳩山はすでにソ連との交渉に意欲を見せていました。1955(昭和30)年、鳩山の日本民主党は吉田がいた自由党と保守合同を果たして、自由民主党が結成されます。その前後から鳩山内閣による日ソ間の交渉は進められていました

交渉を重ねた末に署名が実現する

ソ連との国交回復に向けて日本は何度もソ連と交渉を重ねました重光葵や松本俊一といった全権大使を派遣しましたが思ったような成果が得られませんでした。しかし、1956(昭和31)年にフルシチョフ第一書記長がソ連の西側諸国との共存路線への転換を表明したこともあり、日ソ間の交渉が活発化します。

1956年10月鳩山首相は河野一郎農林水産大臣らとモスクワを訪問しフルシチョフ第一書記長との首脳会談に臨みました。その結果、日本の鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が日ソ共同宣言に署名12月に東京で批准書が交換されて条約が発効したのです

日ソ共同宣言の内容は?

image by iStockphoto

交渉を重ねた末に発効された日ソ共同宣言。その内容は、どのようなものだったのでしょうか。

日ソ間の戦争状態が完全に終結する

1945(昭和20)年に日本がポツダム宣言を受諾したことで、第二次世界大戦は事実上終結します。しかし、ポツダム宣言にソ連は署名しませんでした。さらに、ソ連はサンフランシスコ講和条約にも参加しなかったため日本は改めてソ連と条約を締結する必要があったのです

日ソ共同宣言に日ソ両国が署名したことで日ソ間の戦争状態は完全に終結しました。日ソの外交関係は、完全に回復したのです。日ソ両国は相互不干渉を確認しそれぞれの自衛権を尊重。ソ連は戦争犯罪で拘留していた日本人を釈放し、日本に帰還させることになりました。

色丹島と歯舞群島の日本への引き渡し

あくまでも北方領土は日本固有の領土であり海外の領土になったことは1度もないというのが日本の立場です。しかし、第二次世界大戦前後からソ連が北方領土を実効支配していたのも事実でした。そこで、日本はソ連と北方領土について話し合う必要がありました。

日本とソ連が見出した妥協点は平和条約締結後にソ連が日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡すことでした。もちろん、四島同時返還が理想なのは言うまでもありません。しかし、当時の日本はソ連との国交回復を優先させたためまずは二島を返還する約束を取り付けることにしたのです

\次のページで「日ソ共同宣言の影響は?」を解説!/

日ソ共同宣言の影響は?

image by iStockphoto

日ソ共同宣言が発効したことで、どのような影響が出たのでしょうか。

日本が国際連合への加盟を果たす

1932(昭和7)年に日本が国際連盟脱退を通告し、それ以降の日本は国際社会で孤立化します。しかし、日本は第二次世界大戦に敗れました。そのため、日本は国際社会に復帰しようと1952(昭和27)年に国際連合への加盟を申請します。しかし、ソ連が拒否権を発動したため加盟は実現しませんでした

日ソ共同宣言では一転してソ連が日本の国際連合加盟を支持するという立場に変わったのです。そのため、日本が国際連合に加盟することを遮るものはなくなりました。1956(昭和31)年の国連総会では日本の国連加盟にソ連も賛成へ回ったためついに日本は国際社会に復帰したのです

日ソ間の経済や文化の交流が復活する

日本とソ連との外交関係が回復したことにより経済や文化でも2国間の交流が復活します日ソ通商航海条約を締結しシベリア鉄道やナホトカ港が整備されシベリアの森林資源などが日本にもたらされるようになりました。ボリショイ・バレエの初来日も、日ソ共同宣言の翌年となる1957(昭和32)年のことです。

特に漁業においては日ソ漁業条約が締結されました。それに基づき、両国のサケ・マスの漁獲量や操業水域などが毎年取り決められるようになります。漁業権の交渉は日ソ共同宣言に先んじて行われ、漁業交渉が先に決着したため、数ヶ月後の日ソ共同宣言につながったともいえるでしょう。

北方領土問題は残ったまま

日本が北方領土の四島を日本固有の領土だとする見解は変えていませんが、鳩山内閣がソ連との国交回復を優先させたため、日ソ共同宣言では色丹島と歯舞群島の二島返還を明記することで妥協しました。ところが、日ソ共同宣言から60年以上経過した今も二島返還は実現していません

二島返還の前提条件となっている平和条約の締結も交渉が中断している状態ですソ連がロシアに変わった今も北方領土はロシアが実効支配しています。日本人が自由に北方領土の地に立つことはできません。日ソ共同宣言の効力に変わりはありませんが北方領土問題は今も未解決のままなのです

日ソ共同宣言後の日本とソ連・ロシアとの交渉は?

image by iStockphoto

最後に、日ソ共同宣言後の、日本とソ連・ロシアとの交渉を振り返ってみましょう。

ソ連が崩壊するまでの日ソ間の交渉は?

1960(昭和35)年にソ連が発出した対日覚書で歯舞群島と色丹島の引渡しは日本の領土から全外国軍隊が撤退してからという新たな条件を課しましたもちろん日本はその条件に納得しませんでした。日ソ共同宣言の内容を一方的に変更することはできないと反論しています。

その後、ソ連は長い間、北方領土問題は存在しないという態度を崩しませんでした。しかし、1991(平成3)年にゴルバチョフ書記長が来日海部俊樹首相と日ソ共同声明に署名しました文書には北方領土四島の名前が具体的に列挙され日本との間に領土問題が存在することを認めたのです

\次のページで「エリツィン大統領時代の日露間の交渉は?」を解説!/

エリツィン大統領時代の日露間の交渉は?

1991(平成3)年にソビエト連邦が崩壊すると、北方領土問題の交渉先はロシア連邦に変わります。初代大統領のエリツィンは1993(平成5)年に来日しましたエリツィン大統領は細川護熙首相と会談。その結果、両首脳が東京宣言に署名しました

東京宣言により領土問題とは北方四島の帰属に関する問題であると明確に位置付けています。さらに、四島の帰属の問題を解決してから平和条約を締結しようという日露関係を完全に正常化する手順を明確にしました。その時点では、北方領土問題を解決しようという意志が、日本とロシアの両方で見られたのです。

プーチン大統領時代の日露間の交渉は?

プーチン大統領は就任した年の2000(平成12)年から来日を果たしていますその時に森喜朗首相と会談し日ソ共同宣言は有効だとする発言をしました。その後、プーチン大統領は2016(平成28)年や2019(令和元)年にも来日日本からも小泉純一郎や安倍晋三といった歴代首相がロシアを訪問しています

しかし、2023年現在北方領土問題の交渉は先行きが不透明と言わざるをえません。2020(令和2)年に新型コロナが世界的に流行し、さらにロシアは2022(令和4)年よりウクライナに侵攻を開始しました。そのような状況では、北方領土が棚上げされているといっても過言ではありません

日ソ共同宣言の後も北方領土問題は解決していない

日ソ共同宣言により、第二次世界大戦で断絶していた日本とソ連との国交は回復しました。北方領土については条件付きの二島返還としましたが、国交回復を優先させるために妥協した結果だったので、仕方がなかったといえるでしょう。ところが、北方領土問題はそれから進展していません。元島民が再び北方領土に帰れるようにするためにも、一刻も早く領土問題を解決しなければなりません。

" /> 日ソ共同宣言で北方領土問題はどうなった?交渉の経緯も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説 – Study-Z
現代社会

日ソ共同宣言で北方領土問題はどうなった?交渉の経緯も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、日ソ共同宣言について学んでいこう。

日ソ共同宣言の締結で日ソ間の国交は回復し、北方領土問題の解決にも前向きになったはずです。ですが、北方領土問題は一向に解決しない。なぜそのようなことになっているのでしょうか。

日ソ共同宣言により北方領土はどうなったかを、交渉の経緯などとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日ソ共同宣言前の日本とソ連の関係は?

image by iStockphoto

まずは、日ソ共同宣言の前は日本とソ連がどのような関係だったのか、おさらいしていきましょう。

ソ連が第二次世界大戦に参戦

1945(昭和20)ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告満州国や北方領土などを占領しましたソ連のスターリン書記長がヤルタ会談に出席して、アメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相と密約を結び、第二次世界大戦に参戦することを決めていたのです

日本としてはソ連による一連の行動を認めていません。当時有効だった日ソ中立条約を無視して日本に対して宣戦布告し、かつ日本のポツダム宣言受諾後に北方領土などを侵攻した、というのがその理由です。しかし、ソ連は法的に問題はなかったとして主張を変えませんでした

サンフランシスコ講和条約にソ連が署名せず

1951(昭和26)日本はサンフランシスコ講和条約に署名して第二次世界大戦を正式に終結させました日本の主権を回復させる代わりとして朝鮮半島の独立承認や台湾・千島列島・南樺太などの権利を放棄しています。ただし、千島列島には北方四島を含まないというのが、日本の言い分です。

サンフランシスコ講和条約を50もの国が批准しましたが会議には中国やインドなどが出席しませんでした。そして、ソ連は会議に参加していましたが条約を締結していません。結果的にサンフランシスコ講和条約は不完全な形となり、日本とソ連の国交は回復しませんでした。

日ソ共同宣言が発効されるまでの経緯は?

image by iStockphoto

第二次世界大戦で外交関係が途絶えた日本とソ連は、どのようにして日ソ共同宣言にこぎ着けたのでしょうか。ここでは、両国による交渉の経緯を見ていきましょう。

\次のページで「鳩山一郎が関係回復へ意欲を見せる」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: