今回は、岡崎久彦について学んでいこう。岡崎久彦は保守で現実派の外交評論家として活躍した。そんな彼が、集団的自衛権の閣議決定に関わっているという。いったい何があったのでしょうか。

そのあらましを、岡崎久彦と陸奥宗光の関係などとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

岡崎久彦の生涯はどのようなものだった?

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まずは、岡崎久彦の生涯を簡単に振り返ってみましょう。

初代外務省情報調査局長にしてベストセラー作家

岡崎久彦(おかざきひさひこ)1930(昭和5)年に中国の大連で生まれました。その後、日本の旧制高等学校を経て、東京大学法学部に入学します。しかし、そこからの経歴が並外れているのです。岡崎は大学在学中に外交官試験に合格すると大学を中退して外務省に入省しました

入省後にケンブリッジ大学で修士課程を修了すると、大使館勤務などを歴任して、1984(昭和59)年より初代の情報調査局長に就任。情報部門の重要ポストを務めました。さらに、現役の外交官として数々の著書を出版その内容が認められて数々の賞を受賞しています

晩年は安倍晋三のブレーンに

岡崎久彦は1984(昭和59)年より駐サウジアラビア日本国特命大使1988(昭和63)年からは駐タイ日本国特命大使となりました。外務省の要職を数々務めると、1992(平成4)年に退官。2002(平成14)年に認定特定非営利活動法人岡崎研究所を設立し所長となります

退官後の岡崎は保守で現実派の外交評論家として活動しました晩年は安倍晋三元首相のブレーンとなり集団的自衛権を提言して閣議決定への道を開いたのです。2012(平成24)年秋の叙勲で瑞宝章受章を受章し、2014(平成26)年に死去。享年84でした。

岡崎久彦の代表的な3つの著書は?

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岡崎久彦は数々の著書を残しましたが、ここでは代表的なものを3つ紹介していきます。

1.長坂覚名義で書かれた『隣の国で考えたこと』

『隣の国で考えたこと』は1977(昭和52)年に出版されました。出版当時のペンネームでは「長坂覚」でした。その後、本名の岡崎久彦名義でも出版されています。その内容が高く評価され1978(昭和53)年の日本エッセイストクラブ賞を受賞しました

題名にある「隣の国」とは韓国のことです。その作品を書いた当時の岡崎は、フィリピンやフランスなどの大使館に勤務して、そのキャリアの中にはもちろん韓国も入っていました。この著書では日本と韓国の関係を古代からさかのぼって歴史を振り返っています。悪化と良化を繰り返す日韓関係を改めて考えるには、適した1冊といえるでしょう。

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2.現役外交官による『国家と情報』

1980(昭和55)年に出版された『国家と情報-日本の外交戦略を求めて』もやはり現役外交官としての立場から書かれた著書です出版の翌年である1981(昭和56)年にサントリー学芸賞の社会・風俗部門を受賞しました。受賞当時の岡崎久彦は、駐米日本国大使館公使でした。

作品には作者と思われる15歳の少年が登場しその後外交官となった少年を取り巻く当時の諸外国の様子が描かれています。自叙伝的な作品ではありますが、幻想的なものを書いたわけではありません。日本の外交は何を元にどう展開すべきかを極めて現実的に説こうとしているのです

3.20万部のベストセラー『戦略的思考とは何か』

1983(昭和58)年に出版され20万部を売り上げるベストセラーとなったのが『戦略的思考とは何か』です。当時の岡崎久彦は現実的に外務省の調査企画部長で、その翌年の1984(昭和59)年から外務省の情報調査局長となりました。つまり、その当時の日本の外交を最も熟知した者が書いた著書といえるでしょう

岡崎は『戦略的思考とは何か』で地理と歴史を入り口にして日本が置かれた戦略的環境をつまびらかにしていきます。その上で、平和を望むのであれば国家戦略を軽んじてはならないと憂いているのです。情報分析を重視して、現実的な戦後日本の国家戦略を説いています。

岡崎久彦と陸奥宗光との関係は?

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ところで、岡崎久彦は陸奥宗光と深い関係があります。果たして、どのような関係でしょうか。

祖父のいとこが陸奥宗光

陸奥宗光(むつむねみつ)は、明治時代に活躍した政治家です。日本史の教科書には必ず陸奥宗光についての記述がありますので、具体的に何をしたかは思い出せなくても、名前だけは聞いた覚えがある人は多いでしょう。そんな人物が岡崎久彦と深い関係があるのです

実は岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔は陸奥宗光のいとこにあたります。岡崎邦輔の母親が、陸奥宗光の母親と姉妹なのだそうです。1868(明治元)年の明治維新以降陸奥は新政府に仕えて廃藩置県や地租改正などに尽力しました。しかし、陸奥は1877(明治10)年の西南戦争に加担したとして投獄されたのです

陸奥宗光は不平等条約の改正に尽力した

1883(明治16)年に陸奥宗光が釈放されてからは、ヨーロッパに留学して西洋社会を学びます。その後は、岡崎久彦と同じく外務省に入省駐米公使時代にはメキシコとの間で対等条約を締結させます。さらに、政治の世界に転じると、第1次山縣有朋内閣と第1次松方正義内閣で農商務大臣に就任しました

1892(明治25)年に第2次伊藤博文内閣の外務大臣として入閣日英通商航海条約の締結など次々と不平等条約を撤廃させました。さらに、日清戦争の講和会議では全権委員となり1895(明治28)年調印の下関条約では手腕を発揮します。陸奥宗光の外交手法は、日本の外交史に確かな足跡を残しました。

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岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔とは?

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陸奥宗光のいとこで岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔も、有能な政治家でした。あまり知られていない人物ですが、どのような政治家だったのでしょうか。

異名は「政界の策士」

岡崎久彦の祖父で陸奥宗光のいとこである岡崎邦輔(おかざきくにすけ)政治家として活躍しました。ただし、教科書に乗るような、表舞台で活躍したわけではありません。むしろ、裏方としてグループのリーダーを支える役目を担っていました。そのため、岡崎邦輔に付けられた異名は、「政界の策士」「政界の寝業師」などといったものです。

1891(明治24)年、陸奥宗光の政治活動を支援するために、岡崎邦輔は総選挙に出馬して当選。自由党に参加すると、隈板内閣倒閣や立憲政友会結成に関わります。その後、第一次護憲運動では第3次桂太郎内閣を総辞職に追い込み第二次護憲運動では護憲三派内閣の成立に尽力しました

岡崎邦輔は原敬を支え続けた

岡崎邦輔は当初いとこの陸奥宗光を支えました陸奥の死後はやはり陸奥から目をかけられていた星亨の側近となります1900(明治33)年に成立した第4次伊藤博文内閣では星亨逓信大臣と岡崎邦輔逓信大臣官房長という立場でした。しかし、翌年に星が亡くなり、岡崎邦輔はしばらく政界から離れます。

政界に復帰後は政友倶楽部を経てから立憲政友会に戻り原敬を支え続けました。原も陸奥宗光の庇護を受けていたのです。立憲政友会の幹部となった岡崎邦輔は党の調整役として活躍し「平民宰相」を生む原動力となりました。1936(昭和11)年に亡くなるまで、一貫して「政界の策士」ぶりを発揮していたのです。

岡崎久彦と集団的自衛権との関わりは?

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最後に、岡崎久彦と集団的自衛権との関わりについて見ていくことにしましょう。

\次のページで「安倍内閣の有識者委員に就任」を解説!/

安倍内閣の有識者委員に就任

2007(平成19)年発足の第1次安倍晋三内閣は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置しました。会はひとまず中断しますが、2012(平成24)年に第2次安倍内閣が成立すると、懇親会も再開。岡崎久彦は発足時から有識者委員として参加しています

2014(平成26)懇談会の提言を受けた第2次安倍内閣は憲法解釈を変更することで集団的自衛権の行使容認を閣議決定しました。「行使する以外に適当な手段がない」など、3つの要件を満たした場合に限り、集団的自衛権を行使できるとしたのです。2015(平成27)年に安全保障関連法が成立し集団的自衛権の行使が可能になりました

きっかけはイラン・イラク戦争

第2次安倍内閣が集団的自衛権容認を閣議決定した直後、岡崎久彦はインタビューに答えています。1980(昭和55)年当時岡崎は防衛庁に出向して国際関係を担当していました。その時、イラン・イラク戦争に臨むアメリカ軍と仕事していましたが肩身が狭かった様子がインタビューからうかがえます。日本が憲法上、戦争に加勢できなかったからです。

攻撃に加わるのはともかく日本はパトロールにも参加できませんでしたそのことを歯痒く思った岡崎が集団的自衛権を安倍内閣に提言したであろうことは想像に難くありません。もちろん、岡崎1人の力で閣議決定させたわけではありませんが、少なからず閣議決定に影響を与えたでしょう。

集団的自衛権は何が問題?

集団的自衛権で最も懸念されているのは戦争に巻き込まれる可能性が高くなることでしょう。確かに、3つの要件が揃わないと集団的自衛権は行使されないことになっています。行使されたとしても、直接戦闘に加わるわけではありません。しかし、自衛隊が戦地に赴く限りはそのようなリスクは避けられないでしょう

さらに、集団的自衛権の閣議決定が憲法違反だとする意見もあります。それは、集団的自衛権の行使が憲法第9条の趣旨に反しているというものだけではありません。憲法の解釈変更は憲法改正に等しく正しいプロセスを踏まなければ憲法違反であると指摘する意見もあるのです

岡崎久彦は自らの体験が元で集団的自衛権を提言した

岡崎久彦は外交官としてだけでなく、作家や外交評論家としても活躍しました。祖父が岡崎邦輔、そのいとこが陸奥宗光という有能な政治家だったと聞けば、そのマルチな活躍にも納得できるでしょう。そんな岡崎久彦は、自らの経験が元で集団的自衛権を安倍内閣に提言したと考えられます。しかし、集団的自衛権の行使が憲法違反だとする意見は、今も少なくありません。

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現代社会

簡単でわかりやすい「岡崎久彦」!著書や陸奥宗光との関係・集団的自衛権も歴史好きライターが詳しく解説

岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔とは?

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陸奥宗光のいとこで岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔も、有能な政治家でした。あまり知られていない人物ですが、どのような政治家だったのでしょうか。

異名は「政界の策士」

岡崎久彦の祖父で陸奥宗光のいとこである岡崎邦輔(おかざきくにすけ)政治家として活躍しました。ただし、教科書に乗るような、表舞台で活躍したわけではありません。むしろ、裏方としてグループのリーダーを支える役目を担っていました。そのため、岡崎邦輔に付けられた異名は、「政界の策士」「政界の寝業師」などといったものです。

1891(明治24)年、陸奥宗光の政治活動を支援するために、岡崎邦輔は総選挙に出馬して当選。自由党に参加すると、隈板内閣倒閣や立憲政友会結成に関わります。その後、第一次護憲運動では第3次桂太郎内閣を総辞職に追い込み第二次護憲運動では護憲三派内閣の成立に尽力しました

岡崎邦輔は原敬を支え続けた

岡崎邦輔は当初いとこの陸奥宗光を支えました陸奥の死後はやはり陸奥から目をかけられていた星亨の側近となります1900(明治33)年に成立した第4次伊藤博文内閣では星亨逓信大臣と岡崎邦輔逓信大臣官房長という立場でした。しかし、翌年に星が亡くなり、岡崎邦輔はしばらく政界から離れます。

政界に復帰後は政友倶楽部を経てから立憲政友会に戻り原敬を支え続けました。原も陸奥宗光の庇護を受けていたのです。立憲政友会の幹部となった岡崎邦輔は党の調整役として活躍し「平民宰相」を生む原動力となりました。1936(昭和11)年に亡くなるまで、一貫して「政界の策士」ぶりを発揮していたのです。

岡崎久彦と集団的自衛権との関わりは?

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最後に、岡崎久彦と集団的自衛権との関わりについて見ていくことにしましょう。

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