簡単でわかりやすい「岡崎久彦」!著書や陸奥宗光との関係・集団的自衛権も歴史好きライターが詳しく解説
岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔とは?
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陸奥宗光のいとこで岡崎久彦の祖父である岡崎邦輔も、有能な政治家でした。あまり知られていない人物ですが、どのような政治家だったのでしょうか。
異名は「政界の策士」
岡崎久彦の祖父で陸奥宗光のいとこである岡崎邦輔(おかざきくにすけ)も、政治家として活躍しました。ただし、教科書に乗るような、表舞台で活躍したわけではありません。むしろ、裏方としてグループのリーダーを支える役目を担っていました。そのため、岡崎邦輔に付けられた異名は、「政界の策士」「政界の寝業師」などといったものです。
1891(明治24)年、陸奥宗光の政治活動を支援するために、岡崎邦輔は総選挙に出馬して当選。自由党に参加すると、隈板内閣倒閣や立憲政友会結成に関わります。その後、第一次護憲運動では第3次桂太郎内閣を総辞職に追い込み、第二次護憲運動では護憲三派内閣の成立に尽力しました。
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岡崎邦輔は原敬を支え続けた
岡崎邦輔は、当初いとこの陸奥宗光を支えました。陸奥の死後は、やはり陸奥から目をかけられていた星亨の側近となります。1900(明治33)年に成立した第4次伊藤博文内閣では、星亨逓信大臣と岡崎邦輔逓信大臣官房長という立場でした。しかし、翌年に星が亡くなり、岡崎邦輔はしばらく政界から離れます。
政界に復帰後は、政友倶楽部を経てから立憲政友会に戻り、原敬を支え続けました。原も陸奥宗光の庇護を受けていたのです。立憲政友会の幹部となった岡崎邦輔は、党の調整役として活躍し、「平民宰相」を生む原動力となりました。1936(昭和11)年に亡くなるまで、一貫して「政界の策士」ぶりを発揮していたのです。
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