日本史

簡単でわかりやすい「桂太郎」日露戦争を乗り切った手腕や「桂園時代」の政権運営を歴史好きライターが解説

今回のテーマは「桂太郎」についてです。桂は軍人出身の政治家で、山縣有朋の懐刀とも呼ばれた。また総理大臣の座にも三回ついており、その在任期間の合計日数の長さはつい最近まで破られなかった。
また日露戦争を乗り切り、政敵であるはずの西園寺公望との蜜月期間である「桂園時代」を築いたことでも有名です。日本の近現代史をテーマに論文を書いたこともあるライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

桂太郎の生い立ち

まず最初に、桂太郎の生い立ちを説明します。桂は幕末期の長州藩の生まれで、サラブレッドと言ってもいい家柄です。戊辰戦争でも活躍し、二十代のうちにドイツへ留学するなどして、木戸孝允や山縣有朋などの引き立てを得ながら軍人政治家としての道を歩み始めました。

戊辰戦争での軍功

桂太郎は長州の生まれで、桂家はもともと毛利家の重臣の家柄でした。その先祖は、戦国時代の広島県廿日市にあった櫻尾城の城主・桂元澄で、125石馬廻役という上級武士です。また、母方の叔父である中谷正亮松下村塾のスポンサーでもありました。

桂太郎は江戸末期に第二次長州征伐で志願して石州方面で戦ったのを皮切りに、軍人として活躍するようになり、戊辰戦争でも敵情視察・偵察・連絡役などをこなしました。戦後は軍功が評されて賞典禄250石を受けています。

ドイツへ留学

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明治維新後、桂太郎はドイツへ留学しています。これは前述の賞典禄を元手にした私費留学で、生活は厳しいものでした。最初は渡仏したのですが、普仏戦争に遭遇したためドイツに切り替えたという経緯もありました。

桂のドイツ留学に関して外せないのは、木戸孝允との交流です。欧米使節団として渡独していた木戸に官費留学へと待遇を切り替えられないかと依頼し、木戸もそれを承諾しました。

最終的に、桂は1870~1873年にかけて、22~25歳の間ドイツで過ごしています。また27歳からも三年間、ドイツ駐劄公使館付武官として渡独しており、軍政・軍事を研究するかたわらヨーロッパ列強の国情と対外政策を学ぶことになったのでした。

山県有朋の引き立て

ドイツ留学を終えた桂の陸軍入りを斡旋したのも、長州の大先輩・木戸孝允です。その後も、桂は軍政をドイツ式に改めるなどの功を挙げて順調に昇進していきました。

前述のように桂は木戸に対して留学時から恩があったため、木戸への気遣いはかなりのものでした。駐在武官としてドイツに赴任していた頃は、月に一回「木戸尊大人様閣下」と仰々しい宛名で手紙を書いており、木戸夫人にも珍しい土産物を送っていたといいます。

陸軍入りしてからの桂は山縣有朋の子分と見られており、彼はこうした大先輩たちの引き立てによって出世していったと言えるでしょう。

「軍人政治家」桂太郎の誕生

このように、桂太郎は軍人として山縣有朋のもとでのし上がっていきます。その後、日清戦争に出征し台湾総督を務めてから、陸軍大臣に就任したことで「軍人政治家」桂太郎が誕生したと言えるでしょう。以下では彼が大臣を経て第一次内閣を運営していくまでの流れを見ていきます。

日清戦争を経て政界へ

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その後、桂太郎は日清戦争で名古屋の第三師団を率いて出征し、戦後は台湾総督陸軍大臣へと上り詰めていきます。彼のこうした出世には、もちろん山縣有朋の力添えがありました。

第一次大隈内閣と第二次山縣内閣では、陸軍大臣を務めるとともに山縣の参謀格としても手腕を発揮しています。1900年に発生した義和団の乱では中国に軍を出兵させました。しかし動乱終結後は複雑な国際関係の中での出兵と国内の政争から心労を患い、転地療養に入っています。

10月には第四次伊藤博文内閣が成立したものの、伊藤が総裁を務める立憲政友会(以下政友会)とは反りが合わず辞任。それからしばらく政界からは距離を置きました。

第一次桂内閣誕生

桂太郎が内閣総理大臣に就任したのは、第四次伊藤博文内閣が閣内不統一のため退陣したのがきっかけでした。明治維新を牽引した大物たちで構成されていた「元老」の中には誰も首相を引き受ける者がおらず、辛うじて井上馨が組閣を試みるも失敗したのです。

そこで、白羽の矢が立ったのが桂でした。長州閥に属しており、当時力を持っていた山縣有朋の派閥でもあったことから推薦され、1901年6月2日に第一次桂太郎内閣が成立しました。元老ではない首相は初めてで、政府の世代交代の象徴になったと言えます。

大臣たちは山縣系官僚かあるいは初閣僚ばかりで、マスコミからは「第二流内閣」「小山縣内閣」「緞帳内閣」「次官内閣」などと揶揄されました。

日露戦争勃発

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当時、ロシアの威力は満州にまで及び、朝鮮半島も支配する勢いでした。日露の対決は不可避で、桂は小村外相とともに1902年1月30日に日英同盟を締結します。日本国民は世界最強の国と同盟を結んだことに驚喜し、政府も対ロシア戦に向けて予算編成・軍備拡張に追われました。

そして1904年2月に日露戦争が勃発します。日本軍は戦局を有利に進めつつアメリカのルーズベルト大統領の斡旋を引き出し、1905年9月にポーツマス条約を締結しました。アメリカとは桂-タフト協定によって、フィリピンの米国領有と引き換えに朝鮮半島の日本の地位を承認させています。

しかし日露戦争の戦費は国家財政規模の二倍以上で、財政上無理があったのも確かでした。

桂太郎と西園寺公望の「桂園時代」

日露戦争という難題を乗り切った桂太郎でしたが、もともと財政面での無理もあり、第一次内閣の継続は難しくなっていきました。そこで、敵対関係にあった政友会と水面下で協力関係を結びながら巧みに政局を乗り切っていく方策に出ます。以下では、彼が政友会と交渉しながら政治を進めていった「桂園時代」について見ていきましょう。

ポーツマス条約と日比谷焼き討ち事件

桂内閣は日露戦争を何とか乗り切ってポーツマス講和条約に漕ぎつけたものの、日本が賠償金を獲得できないなどの講和内容に不満を抱いた民衆が暴徒化し、1905年9月5日に日比谷焼き討ち事件が発生します。

この騒動では政府施設・新聞社・交番が襲われて、東京は一時無政府状態に陥って戒厳令が敷かれました。実際には、この騒動はポーツマス条約への不満だけではなく、当時の社会情勢に対する国民の鬱憤が一気に噴き出したものでした。

桂太郎は、この状況では政権継続は困難だと判断し、水面下で政友会の原敬と交渉を進めました。これがきっかけで「桂園時代」が誕生します。

政友会への禅譲

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少し話は前後しますが、もともと日露戦争の軍備増強の財源については、「増税」によって行うとする政府と、「行政改革による捻出」によって行うべしと主張する政友会との間で論争になっていました。1903年3月に行われた総選挙では、政友会が勝利しています。

そこで桂は粘りに粘って政友会総裁の伊藤博文と交渉し、政友会は桂内閣批判の矛を収めました。その後も政友会と政府の微妙な協力関係は続き、なんとか日露戦争終戦まで破綻せず継続していたのです。

桂は政友会の原敬との交渉で、終戦処理への支持と引き替えに、終戦後には政友会へと政権を譲ること(禅譲)を約束します。この間の桂の外交と内政にわたる立ち回りは、実に巧みで鮮やかなものでした。

第二次桂内閣へ

政権を譲られた政友会は、二代目の総裁であり公家出身の政治家・西園寺公望が首相となります。しかし財政難と社会主義者の取り締まりが不十分ということで総辞職し、ここでまた政権が桂太郎内閣へ禅譲されました。

このような西園寺と桂の間でのいわば「政権のキャッチボール」は合計で四回行われます。これは両者の人間的な信頼関係に基づくもので、この四回の政権交代の期間が「桂園時代」と呼ばれるようになりました。

さて、第二次桂内閣の期間には伊藤博文が暗殺されて、一気に韓国併合に進みます。また小村寿太郎、平田東助、後藤新平など腕利きの新官僚たちが要職に就き、腕を振るっていました。そして1911年8月にはまた西園寺に政権が返されます。

西園寺内閣の「毒殺」と第三次桂内閣

さて、政友会の第二次西園寺内閣「二個師団増設問題」と呼ばれる問題で退陣を余儀なくされます。陸軍が満州の権益確保と朝鮮の治安維持のために二個師団増設を要望したのですが、財政上の理由から非承認としたところ、陸相が辞表を出したのです。

これは陸軍による内閣の「毒殺」とされ、陸軍や、それを率いていた山縣有朋はマスコミから怒りの矛先を向けられました。元老会議で留任を説得された西園寺も、さすがに元老たちに不信感を持っておりこれを拒否します。

誰が首相になっても、その人が非難を浴びるの明らかで、誰もが首相就任を拒みました。また政党嫌いの山縣有朋は政党政治家の擁立を許さず、やむを得ず桂太郎が再び第三次内閣を組むことになります。

第一次護憲運動による桂太郎の退陣

陸軍の嫌がらせ・謀略によって西園寺内閣が瓦解させられたことで、仕方なく桂太郎は貧乏くじを引かされる形になってしまいました。マスコミと民衆の非難の矛先は「護憲運動」として彼に向けられ、桂も何とか突破口を見出そうとしますが途中での退陣を余儀なくされてしまいます。

以下では、彼が第一次護憲運動で追い詰められ、逝去するまでの流れを見ていきましょう。

第一次護憲運動とは

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さて、宮中で内大臣兼侍従長に任ぜられた桂が、第二次内閣退陣から四カ月そこそこで首相になるのは「宮中・府中の別」のルールを乱すとして非難されるようになり、第一次憲政擁護運動が起きます。

宮中・府中の別とは1885年に確立した暗黙のルールに近いもので、これに反するのは憲法違反だとして対立関係にあった議員は藩閥政治と陸軍を批判するようになりました。「政府は憲法を護れ」ということで、この動きは護憲運動と呼ばれます。

民衆の怒りも爆発し、政府系新聞社や警察署も襲撃を受け、鎮圧のために軍が出動する事態に発展。やむなく第三次桂内閣は1913年に退陣し、「民衆が内閣を倒した」日本史上初めての例となりました。

桂太郎の死

第一次護憲運動によって政党内閣からの非難を浴びたことで、政党の必要性を痛感した桂は、第三次内閣発足後に政友会に対抗する新党設立を考えていました。しかし「政党嫌い」の元老・山縣有朋がこれを許しません。

桂はここで抵抗を押し切り、大隈重信と協力して新政党を組織しようとしますが間に合わず、志半ばでの退陣となったのでした。彼は本当は、政党政治の中で、陸軍や官僚機構を現実的な路線へ導く確かな構想を持っていたことが分かっています。

退陣から八か月後の10月10日に、桂は胃がんで死去しました。享年67歳。会葬者は数千人にのぼり、なぜか彼を護憲運動で追い込んだ民衆も押し寄せたといいます。ちなみに彼の新党構想は、死後、立憲同志会という形で1913年12月に結実しました。

桂太郎は日露戦争を乗り切った軍人政治家

桂太郎は明治~大正期の軍人政治家で、内閣総理大臣を三度務めました。特に第一次内閣では日露戦争を乗り切り、その後も西園寺公望との「桂園時代」によって巧みな内政・外交を行っています。

一方で、彼は非立憲主義の象徴として非難され、退陣ののち亡くなっており、現在はあまり良いイメージで語られることはありません。しかし実際には卓越した手腕の政治家であり、その在任期間の長さが令和の時代まで破られることがなかったのは伊達ではなかったと言えます。

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