日本史明治昭和縄文時代

簡単でわかりやすい「吉見百穴」をめぐる謎!日本の先住民が造った?それとも蝦夷の豪族?歴史的背景を元大学教員が詳しく解説

戦時下は地下軍需工場となる吉見百穴

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太平洋戦争の末期、アメリカの大規模空襲によって飛行機製造工場は壊滅状態となりました。軍機を製造している中島飛行機武蔵野工場は空襲を受け、大宮工場を疎開させる必要に迫られました。

そのとき白羽の矢が立ったのがなんと吉見百穴。吉見は都心から50キロ圏内にあります。埼玉県のほぼ中央ということもあり、物資の輸送に便利で掘削に適した場所と判断されたのでしょう。

難航した吉見百穴に工場を建設する工事

松山城の跡地から直線距離でおよそ1300メートルある百穴の北側の岩粉山までの地下に大規模な軍需工場を造ることになりました。しかしながら昭和19年はもう敗戦の色濃いころで、結果としてまったく意味のない計画。誰がどのような調査のもと、この地が掘削に適していたと判断したのかは今となっては不明です。

明治時代に松山城跡に作られた人口の洞窟である洞窟ホテルは、岩盤が硬いうえに落盤が起こりやすい地帯でした。ダイナマイトを使って工事することは困難。ほとんどが人の手による素掘りというずさんな計画で、工事を進めながら計画を見直すというありさまでした。こうして建設された軍需工場は吉見と松山を意味する吉松地下軍需工場と呼ばれました

工事に使われた在日朝鮮人たち

工事のために使われたのは日本全国から集められた朝鮮人労働者。その数3000人から3500人ほど。昼夜を問わず突貫工事が続けられ、落盤事故で命を落とした人の数は記録すら残っていません。吉見百穴の遺構も18基がこの工事で破壊されました。ようやく飛行機のエンジン部分が製造され始めたころ、日本は無条件降伏。太平洋戦争は幕をおろしました。労働力として集められた朝鮮の人たちは解放され、帰国することを許されました。

最後の朝鮮人労働者が帰郷したとき、日本と朝鮮の平和を祈念して、ムクゲの樹が植えられました。それは今でも吉見百穴の付近に残っており大きく育っています。入場券を発券しているすぐ正面の売店の右奥。小道を少し行った所にそびえ立っています。この軍需工場は、戦後に家のない人たちが地下の跡地に住みついたこともあり、公開は有料化されました

吉見百穴の下方にはヒカリゴケが自生している穴があり、国の天然記念物に指定されています。ヒカリゴケの生育のためには、一定の気温と湿度が保たれることが必須。そのため関東平野で生育しているのは非常に貴重な例です。原糸体という繊維のようなものが、光線を屈折反射して黄金色に輝くとのこと。太陽の微かな光に映えて黄金色に輝く姿は、世界的にも貴重らしいですよ。

悠久の歴史を秘めた吉見百穴

吉見百穴は、古代から第二次世界大戦、そして戦後に至るまで、さまざまな歴史をつむいできました。日本にアイヌ人とは異なる先住民がいた可能性、蝦夷に固有の文化、そして戦争中を前にあがく日本の姿を垣間見ることができます。これだけ多くのことを語る墳墓は、世界のなかでも稀有と言っていいでしょう。埼玉の近隣に用事があるときに、いちど立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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