吉見百穴のコロポックル住居説
明治時代に吉見百穴の発掘調査を行った人物が坪井正五郎。当時、東京帝国大学大学院の学生で、のちに日本で初めて人類学会を立ち上げた人物でもあります。坪井は多彩な才能を持っていたこともあり、さまざまな分野で活躍しました。そのひとつが吉見百穴の調査。先住民族の住居跡であるとするコロポックル説を打ち出したことでも知られています。
吉見百穴は縄文時代より前にあった?
縄文時代より前の日本は旧石器時代と呼ばれています。ただ、旧石器時代の人々は現代の日本人の先祖だという証拠はありません。大森の貝塚を発見したモースは、縄文時代人をアイヌとみなして、それより前の石器時代には先住民がいたとしています。このモースの説を引き継いだのが吉見百穴を調査した坪井正五郎でした。
坪井はその先住民はアイヌの伝説に出てくるコロポックルであると考えていました。コロポックルは小人で、アイヌと物々交換などをしながら友好的に暮らしていました。しかしながらいつの間にか消えてしまったと伝えられています。もしくはアイヌと一緒に北上。北海道で暮らすようになったという説もあります。
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小人伝説といえば「親指姫」や「一寸法師」など、古い説話が残っています。ただ、コロポックルはそれほど小さくはなく、縄文人よりやや小柄という程度でした。縄文人の身長は諸説ありますが、成人男子で150センチほどと言われています。コロポックルが作った住居を古墳時代に墳墓として再利用した。これが坪井の見方です。
自然消滅したコロポックル住居説
いっしょに調査した白井光太郎は坪井説に対して否定的。コロポックルの存在を証明できないと反論しました。日本列島に今の日本人とは異なる先住民がいることに懐疑的な人が多く、坪井が亡くなるとコロポックル住居説は自然消滅しました。とはいえ、あの絶壁に100基以上の穴を造り、棺桶のようなものを置く台座を造ることができた人々のことを、誰も証明できないままでした。
西洋にも「ノアの方舟」や「バベルの塔」など、普通の感覚では説明できないような物に関する言い伝えがあります。古代人や、その前の人たちには、現代人の想像を超える技術や発想があった可能性は大いにあるでしょう。石器時代にも、遭難や移住などによる渡来人が関東エリアにたくさんいました。彼らを介して高度な掘削技術を有していたとも考えられます。
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