吉見百穴が造られた時代の背景
無数の穴がある吉見百穴は今の感覚からするとかなりユニークな形状をしています。ただ、唯一無二の特殊なものなのかというとそれも疑問。現代まで残っているのが偶然にも吉見百穴だけということであって、古墳時代末期の関東では珍しくない形だったのかも知れません。そこで吉見百穴が造られた時代背景を見ていきましょう。
仏教伝来によるお墓の在り方の変化
中国から日本に仏教が伝来したのは538年。遣唐使によりもたらされました。それまでの日本は在来の民間宗教、神道、修験道などが混在。ところが徐々に仏教が大きな力を持つようになります。次第に朝廷でも仏教保護派と排斥派が争い始めました。聖徳太子が仏教の保護に熱心だったこともあり、次第に仏教も庶民にも広まるようになりました。
それまでは競って大きな古墳を造っていた権力者たちの死生観も徐々に変化。死後に極楽浄土へ行くことが大切であるため、大きな墳墓は必要ないと考えるようになりました。また、大和朝廷がほぼ日本中を支配下に置いていた時期。豪族たちが大きな墳墓を造って、自らの勢力を誇示することに意味はなくなっていました。そのようなころ造られたのが吉見百穴です。
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現代ではお葬式はやらない、もしくはやったとしても少人数で済ませる人も増えています。しかしながら高度成長期におけるお葬式はとにかく盛大。大きな花輪を道路にずらりと並べ、故人の権勢を誇示するものでした。今ではかなりの著名人でも、新聞のお知らせを見ると「葬儀は親族のみで執り行いました」という文言がほとんどです。お墓や葬式に関する捉え方は時代と共に変化。吉見百穴もその変化を反映していると言えるでしょう。
吉見百穴がある関東は蝦夷の国だった
関東は大和とは異なる歴史があります。関東は奈良や京の都人から見ると荒々しい未開の地。蝦夷が支配している外国の土地でした。砂金や良質の馬があることもあり喉から手が出るほど欲しい、征服したい土地でもありました。吉見百穴のような集合墓は、私たちに馴染みの深い「大和型の古墳」ではなく、外国に等しい「関東の原住民型の墓」。伝統がまったく違うタイプの墓でした。
あくまで推測になりますが、このようなタイプの墳墓は古代関東では一般的だった可能性があります。古墳時代の関東は蝦夷の国と呼ばれた独立国。平安時代初期まで関東以北では、たびたび反乱が起こっていたほど蝦夷は力を持っていました。蝦夷の国は大和朝廷の完全支配下にあったわけではないことを、この吉見百穴は示しているのでしょう。
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