しかしながら吉見百穴には古代のみならず戦中・戦後の日本の姿が色濃く反映されており、歴史的にも見どころがとても多い。そこで吉見百穴とはいったい何なのか、それが造られた理由や歴史的背景、現在の状況などを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。日本の文化や遺構に興味があり、気になることがあるといろいろ調べている。今回は埼玉の実家の近くに残っている吉見百穴の歴史についてまとめてみた。
埼玉県にある吉見百穴は謎だらけ
吉見百穴は埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代の末期に作られた横穴墓のこと。江戸時代にも、この不思議な穴について記録されています。しかしながら、それが何であるのかは記されていません。
明治20年(1887)に、6か月にもおよぶ発掘調査により崖に掘られた237基の横穴を発見。その穴の多さから吉見百穴と呼ばれるようになりました。「よしみひゃくけつ」もしくは「よしみひゃくあな」など、その呼び名はさまざま。現在、確認されている横穴は219基です。
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吉見百穴はどんな形状をしている?
吉見百穴は高さおよそ50メートルほど。険しい岩山の斜面に無数の穴が開いている、なんとも言えない不思議な形をしています。穴の並びの傾斜は45度。それをしっかり保ちながら、一見すると不規則に感じられるものの、実は規則的に並んでいます。
穴の入り口の大きさは直径1メートルほど。内側に入ると、もう少し広くなっています。たくさんの穴に古墳と同じく台座のようなところがあり、そこに棺桶を安置していました。
穴によっては複数の台座がつくられています。そのことから吉見百穴には、家族単位で葬られていたと考えられてきました。穴の入り口にあるのは蓋。緑泥片岩という緑色の石で作られた板状のものです。しかしながら発掘されたときに撤去。重要なものであるとは思わず、捨ててしまったようです。そのため今では一枚のみが現存。それらしい石の板が残されているだけです。
吉見百穴に葬られたのはどんな人たちか?
硬く険しい岩盤のような崖に穴を掘るのは大変な労力。そのため下層の人たちが葬られた可能性は少なく、主に周辺の豪族や有力者とその家族が葬られたと推測されてきました。吉見百穴が掘られたとされているのは推古天皇のころ。聖徳太子が摂政となり、大和朝廷の支配力が関東にまで広がり始めたころです。つまり、大和朝廷の意向を無視して大きな古墳は作ることはできなくなった時代ということ。
吉見の辺りにも弥生時代から力を持ってきた首長はいました。ところが大和朝廷は646年に地方豪族が古墳を造ることを禁じる法令を発布。そのような時世に、朝廷と対立することを避けながら自らの力を示す墳墓を造ろうとした結果、このような形状になったのでしょう。現代の感覚で言うといわゆる集合墓のようなもの。とはいえ当時としては不特定多数の人をまとめて葬るのではなく、「吉見の部族ここにあり」というユニークながらも力強さを感じさせる墳墓でした。
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