なぜ政友会は二大政党制を維持できなかった?その理由を他の二大政党制時代とともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説
平民宰相の誕生と東京駅での暗殺
1918(大正7)年、米騒動の責任を取り、寺内正毅内閣が総辞職しました。その後に総理大臣となったのが、当時政友会の総裁だった原敬です。原は総理就任当時に爵位を持っていなかったため、「平民宰相」ともてはやされました。また、政友会の党員を多く起用したことから、原内閣を「初の本格的政党内閣」と呼ぶこともあります。
原内閣では、パリ講和会議への出席やシベリア出兵などが実行されました。しかし、任期途中の1921(大正10)年、原は東京駅で列車に乗ろうと移動していたところを男に襲われ死亡。後継の総理大臣には高橋是清が就任し、その後政友会の総裁にもなりました。
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張作霖爆殺事件で田中義一内閣が総辞職
1927(昭和2)年、昭和金融恐慌への対応で手詰まりとなった第1次若槻禮次郎内閣が退陣。その後を、当時政友会の総裁を務めていた田中義一が引き継ぎました。当時は憲政の常道が重んじられていたため、野党第一党の党首だった田中にその役目が回ってきたのです。
田中義一内閣は、昭和金融恐慌や総選挙を乗り切りました。しかし、1928(昭和3)年に発生した張作霖爆殺事件が命取りとなります。内閣は事件の真相を公表しないまま処理を図りましたが、昭和天皇はそのことが不満だったのです。内閣は昭和天皇から不信任のような扱いを受けたため、総辞職せざるをえませんでした。
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民政党の成立で二大政党制へ
1924(大正13)年、憲政会は政友会と革新倶楽部と手を組んで、護憲三派を結成。第二次護憲運動を起こし、加藤高明内閣を成立させました。しかし、政友会は憲政会と対立したため、連立政権から離脱します。その後、加藤高明総理が急死し、憲政会が与党となる第1次若槻禮次郎内閣が組織されました。
ところが、昭和金融恐慌への対応がうまくいかなかったため、第1次若槻内閣はわずか1年で倒れます。その後に成立したのが、政友会による田中義一内閣でした。そのことに危機感を抱いた憲政会は、政友本党と合併。立憲民政党を結成して、それ以降は政友会と民政党による二大政党制が形成されました。
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五・一五事件で犬養毅が暗殺される
政友会政権だった田中義一内閣が、張作霖爆殺事件をきっかけに総辞職すると、民政党総裁の濱口雄幸が総理大臣に就任します。濱口内閣ではロンドン海軍軍縮条約の締結などが実現されましたが、任期途中で濱口が東京駅で銃撃されたのです。幸い命は取り留めましたが、職務遂行が難しくなった濱口は総理を辞任しました。
次に成立した第2次若槻禮次郎内閣も、民政党による政権でした。しかし、閣内不一致を起こして8ヶ月で総辞職。代わりに政友会総裁の犬養毅が総理大臣となります。ところが、就任からわずか5ヶ月で五・一五事件が発生して、犬養が暗殺されたのです。
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政友会と民政党による挙国一致内閣の成立
五・一五事件で現役の総理大臣が暗殺され、後継者選びは混迷を極めることになります。政友会の立場からすれば、政友会総裁だった犬養毅の後継が、憲政の常道から政友会出身者になるものと期待していました。しかし、軍に近い人物からは、政党内閣の成立を拒絶する意見が出ていたのです。
結局、犬養毅の後に総理となったのは斎藤実でした。斎藤は海軍出身で、英語が堪能だったことなどから抜擢されました。斎藤内閣は、政友会と民政党の両方から大臣を迎え入れています。国家の危機に立ち向かうため、対立する政党が手を組んだその内閣は、「挙国一致内閣」と呼ばれました。
政友会の解散
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日本が戦争の時代を迎えると、政友会はその役目を終えることになります。ここでは、二大政党制解消から政友会の解散までを、駆け足で見ていくことにしましょう。
軍部が台頭して政党の影響力が弱まる
斎藤実内閣が2年ほど続いた後に、岡田啓介内閣が生まれました。岡田内閣も斎藤内閣と同様に、政友会と民政党から入閣する挙国一致内閣でした。ところが、1936(昭和11)年に二・二六事件が発生します。岡田は無事でしたが、斎藤前総理や高橋是清大蔵大臣らを失う事態となりました。
二・二六事件の責任を取って岡田が辞任し、その後は廣田弘毅が引き継ぎます。廣田内閣も表向きは挙国一致内閣でしたが、その人事には軍部が介入しました。さらに、軍部大臣現役武官制が復活したため、軍部の意向なしに組閣できなくなったのです。政党の影響力は弱められました。
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政友会が分裂して大政翼賛会に合流
1937(昭和12)年より、政友会は4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となりました。しかし、4名の中から中島知久平が革新派を立ち上げて、残りの3名を中心とする正統派と対立するようになります。2派はそれぞれが党総裁を選出して、主導権を握ろうとしたのです。
1940(昭和15)年、近衛文麿内閣は日中戦争の長期化を打開することを目的として、新体制運動を起こします。その中で、既成政党を解党して、新党を結成する機運が生まれました。多くの政党はそれに賛同して、政友会も2派とも解党。大政翼賛会が結成され、政友会に所属していた者も参加しました。
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