今回は、政友会について学んでいこう。

政友会は多くの総理大臣を輩出し、一時は二大政党制になった時期もあったぞ。しかし、その時期は短かったな。なぜ政友会が関わった二大政党制は短命に終わったのでしょうか。

政友会が二大政党制を維持できなかった理由を、他の二大政党制時代とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政友会が結成されるまで

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まずは、政友会が結党されるまでの様子を見ていくことにしましょう。

日本初の政党内閣となった隈板内閣

1898(明治31)年に成立した第3次伊藤博文内閣は当時の衆議院で2大勢力となっていた自由党と進歩党のどちらからも協力を取り付けられませんでした。それが原因で、予算や法案が成立しない事態となります。その結果、第3次伊藤内閣は総辞職に追い込まれたのです

その後に成立したのが第1次大隈重信内閣でした自由党のトップだった板垣退助と進歩党の党首だった大隈重信が手を組み2つの党は憲政党として合流したのです。2人が中心となって内閣を組織したため、第1次大隈内閣は「隈板内閣」(わいはんないかく)とも呼ばれます。隈板内閣は憲政党が主体となって成立した日本初の政党内閣です

伊藤博文が政友会を立ち上げる

隈板内閣は日本の憲政史上初めての政党内閣として成立しました。ところが、隈板内閣はわずか4ヶ月で崩壊します。その理由は、内部対立にありました。与党の憲政党が旧自由党系と旧進歩党系に分裂して対立が激化した結果隈板内閣は総辞職せざるをえなくなったのです

その後伊藤博文は政党政治を画策し1900(明治33)年に立憲政友会を結成しましたその直後に第4次伊藤博文内閣が成立立憲政友会が中心となって内閣が運営されました。やがて立憲政友会は「政友会」という略称でも呼ばれるようになり、多くの総理大臣を輩出することになります。

政友会が関わった主な出来事は?

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多くの総理大臣を輩出した政友会。ここでは、政友会が関わった主な出来事を簡単に振り返ってみましょう。

桂太郎と西園寺公望による桂園時代

第4次伊藤博文内閣が総辞職した後およそ10年に渡り2人が交代で総理大臣を務めるような時期が続きましたその2人とは1人が伊藤と同じ長州閥出身の桂太郎もう1人が西園寺公望です。西園寺は、伊藤とともに政友会の旗揚げに参加していました。

その10年間は2人の名前から「桂園時代」と呼ばれます。桂園時代の日本は、日露戦争や重工業の発展などを経て、国際的な地位が向上した時期でもありました。しかし、第3次桂内閣の成立に政友会などが反発第一次護憲運動へと発展して第3次桂内閣は成立からわずか2ヶ月で総辞職せざるをえなくなったのです

\次のページで「平民宰相の誕生と東京駅での暗殺」を解説!/

平民宰相の誕生と東京駅での暗殺

1918(大正7)年、米騒動の責任を取り、寺内正毅内閣が総辞職しました。その後に総理大臣となったのが当時政友会の総裁だった原敬です。原は総理就任当時に爵位を持っていなかったため、「平民宰相」ともてはやされました。また、政友会の党員を多く起用したことから原内閣を「初の本格的政党内閣」と呼ぶこともあります

原内閣では、パリ講和会議への出席やシベリア出兵などが実行されました。しかし、任期途中の1921(大正10)原は東京駅で列車に乗ろうと移動していたところを男に襲われ死亡後継の総理大臣には高橋是清が就任しその後政友会の総裁にもなりました

張作霖爆殺事件で田中義一内閣が総辞職

1927(昭和2)年、昭和金融恐慌への対応で手詰まりとなった第1次若槻禮次郎内閣が退陣。その後を当時政友会の総裁を務めていた田中義一が引き継ぎました当時は憲政の常道が重んじられていたため野党第一党の党首だった田中にその役目が回ってきたのです

田中義一内閣は、昭和金融恐慌や総選挙を乗り切りました。しかし、1928(昭和3)年に発生した張作霖爆殺事件が命取りとなります。内閣は事件の真相を公表しないまま処理を図りましたが、昭和天皇はそのことが不満だったのです。内閣は昭和天皇から不信任のような扱いを受けたため総辞職せざるをえませんでした

政友会による二大政党制の時代

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大正時代後期になり、いよいよ政友会による二大政党制の時代が到来します。果たして、どのような状況だったのでしょうか。

民政党の成立で二大政党制へ

1924(大正13)憲政会は政友会と革新倶楽部と手を組んで護憲三派を結成第二次護憲運動を起こし加藤高明内閣を成立させました。しかし、政友会は憲政会と対立したため、連立政権から離脱します。その後、加藤高明総理が急死し、憲政会が与党となる第1次若槻禮次郎内閣が組織されました。

ところが、昭和金融恐慌への対応がうまくいかなかったため、第1次若槻内閣はわずか1年で倒れます。その後に成立したのが政友会による田中義一内閣でしたそのことに危機感を抱いた憲政会は政友本党と合併立憲民政党を結成してそれ以降は政友会と民政党による二大政党制が形成されました

五・一五事件で犬養毅が暗殺される

政友会政権だった田中義一内閣が張作霖爆殺事件をきっかけに総辞職すると民政党総裁の濱口雄幸が総理大臣に就任します。濱口内閣ではロンドン海軍軍縮条約の締結などが実現されましたが、任期途中で濱口が東京駅で銃撃されたのです。幸い命は取り留めましたが、職務遂行が難しくなった濱口は総理を辞任しました

次に成立した第2次若槻禮次郎内閣も民政党による政権でした。しかし、閣内不一致を起こして8ヶ月で総辞職代わりに政友会総裁の犬養毅が総理大臣となります。ところが、就任からわずか5ヶ月で五・一五事件が発生して犬養が暗殺されたのです

政友会と民政党による挙国一致内閣の成立

五・一五事件で現役の総理大臣が暗殺され後継者選びは混迷を極めることになります。政友会の立場からすれば、政友会総裁だった犬養毅の後継が、憲政の常道から政友会出身者になるものと期待していました。しかし、軍に近い人物からは政党内閣の成立を拒絶する意見が出ていたのです

結局犬養毅の後に総理となったのは斎藤実でした。斎藤は海軍出身で、英語が堪能だったことなどから抜擢されました。斎藤内閣は政友会と民政党の両方から大臣を迎え入れています国家の危機に立ち向かうため対立する政党が手を組んだその内閣は「挙国一致内閣」と呼ばれました

政友会の解散

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日本が戦争の時代を迎えると、政友会はその役目を終えることになります。ここでは、二大政党制解消から政友会の解散までを、駆け足で見ていくことにしましょう。

軍部が台頭して政党の影響力が弱まる

斎藤実内閣が2年ほど続いた後に岡田啓介内閣が生まれました岡田内閣も斎藤内閣と同様に政友会と民政党から入閣する挙国一致内閣でした。ところが、1936(昭和11)年に二・二六事件が発生します。岡田は無事でしたが、斎藤前総理や高橋是清大蔵大臣らを失う事態となりました。

二・二六事件の責任を取って岡田が辞任しその後は廣田弘毅が引き継ぎます廣田内閣も表向きは挙国一致内閣でしたがその人事には軍部が介入しました。さらに、軍部大臣現役武官制が復活したため、軍部の意向なしに組閣できなくなったのです。政党の影響力は弱められました。

政友会が分裂して大政翼賛会に合流

1937(昭和12)年より政友会は4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となりました。しかし、4名の中から中島知久平が革新派を立ち上げて残りの3名を中心とする正統派と対立するようになります。2派はそれぞれが党総裁を選出して、主導権を握ろうとしたのです。

1940(昭和15)近衛文麿内閣は日中戦争の長期化を打開することを目的として新体制運動を起こします。その中で、既成政党を解党して、新党を結成する機運が生まれました。多くの政党はそれに賛同して政友会も2派とも解党大政翼賛会が結成され政友会に所属していた者も参加しました

\次のページで「戦後の日本で生まれた二大政党制は?」を解説!/

戦後の日本で生まれた二大政党制は?

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最後に、戦後の日本で生まれた二大政党制について見てみましょう。

民主党と自由民主党による二大政党制

2003(平成15)年から2012(平成24)年にかけては自由民主党と民主党による二大政党制ともいえる時期でした2003年の衆議院総選挙では比例区で民主党が獲得議席数で自民党を上回りました。2004(平成16)年の参議院選挙でも、総獲得議席数で民主党が自民党を上回ったのです。

2009(平成21)年の衆議院総選挙で民主党が圧勝して戦後初めて野党が単独過半数を獲得ついに民主党は政権交代を実現させたのです。しかし、民主党の政権運営は評価されず2012(平成24)年の総選挙では自民党が圧勝しました。民主党は分裂を繰り返した後に消滅し、それ以降は自民1強といえる体制が続いています。

自由民主党と日本社会党による55年体制

1955(昭和30)年から1993(平成5)年までの日本における政治体制を「55年体制」と呼びます。1955年、自由党と日本民主党が保守合同して自由民主党を結成。左右両派に分裂していた日本社会党も、統一を果たしました。それ以降は、自民党が第1党社会党が第2党となる時代が続きます

ただし、そのような状態を「二大政党制」ではなく「1と1/2政党制」と呼ぶ人もいました。なぜなら、社会党は1度も衆議院で過半数の議席を獲得したことがなく常に野党第1党であり続けたからです。社会党の議席数は自民党の半分ほどにしかならない時が多かったので、「自民党の2分の1」と言われていました。

政友会をはじめ日本では二大政党制が定着していない

政友会は多くの総理大臣を輩出し、一時は二大政党制を実現させました。しかし、日本が戦争への道を選んだため、二大政党制と政友会はその役目を終えたのです。戦後になってからも、日本が二大政党制になりかけた時期はありましたが、完全な形では実現していません。2つの政党が並び立つ体制が整わないと、これからも日本では二大政党制が定着しないでしょう。

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現代社会

なぜ政友会は二大政党制を維持できなかった?その理由を他の二大政党制時代とともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

平民宰相の誕生と東京駅での暗殺

1918(大正7)年、米騒動の責任を取り、寺内正毅内閣が総辞職しました。その後に総理大臣となったのが当時政友会の総裁だった原敬です。原は総理就任当時に爵位を持っていなかったため、「平民宰相」ともてはやされました。また、政友会の党員を多く起用したことから原内閣を「初の本格的政党内閣」と呼ぶこともあります

原内閣では、パリ講和会議への出席やシベリア出兵などが実行されました。しかし、任期途中の1921(大正10)原は東京駅で列車に乗ろうと移動していたところを男に襲われ死亡後継の総理大臣には高橋是清が就任しその後政友会の総裁にもなりました

張作霖爆殺事件で田中義一内閣が総辞職

1927(昭和2)年、昭和金融恐慌への対応で手詰まりとなった第1次若槻禮次郎内閣が退陣。その後を当時政友会の総裁を務めていた田中義一が引き継ぎました当時は憲政の常道が重んじられていたため野党第一党の党首だった田中にその役目が回ってきたのです

田中義一内閣は、昭和金融恐慌や総選挙を乗り切りました。しかし、1928(昭和3)年に発生した張作霖爆殺事件が命取りとなります。内閣は事件の真相を公表しないまま処理を図りましたが、昭和天皇はそのことが不満だったのです。内閣は昭和天皇から不信任のような扱いを受けたため総辞職せざるをえませんでした

政友会による二大政党制の時代

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大正時代後期になり、いよいよ政友会による二大政党制の時代が到来します。果たして、どのような状況だったのでしょうか。

民政党の成立で二大政党制へ

1924(大正13)憲政会は政友会と革新倶楽部と手を組んで護憲三派を結成第二次護憲運動を起こし加藤高明内閣を成立させました。しかし、政友会は憲政会と対立したため、連立政権から離脱します。その後、加藤高明総理が急死し、憲政会が与党となる第1次若槻禮次郎内閣が組織されました。

ところが、昭和金融恐慌への対応がうまくいかなかったため、第1次若槻内閣はわずか1年で倒れます。その後に成立したのが政友会による田中義一内閣でしたそのことに危機感を抱いた憲政会は政友本党と合併立憲民政党を結成してそれ以降は政友会と民政党による二大政党制が形成されました

五・一五事件で犬養毅が暗殺される

政友会政権だった田中義一内閣が張作霖爆殺事件をきっかけに総辞職すると民政党総裁の濱口雄幸が総理大臣に就任します。濱口内閣ではロンドン海軍軍縮条約の締結などが実現されましたが、任期途中で濱口が東京駅で銃撃されたのです。幸い命は取り留めましたが、職務遂行が難しくなった濱口は総理を辞任しました

次に成立した第2次若槻禮次郎内閣も民政党による政権でした。しかし、閣内不一致を起こして8ヶ月で総辞職代わりに政友会総裁の犬養毅が総理大臣となります。ところが、就任からわずか5ヶ月で五・一五事件が発生して犬養が暗殺されたのです

政友会と民政党による挙国一致内閣の成立

五・一五事件で現役の総理大臣が暗殺され後継者選びは混迷を極めることになります。政友会の立場からすれば、政友会総裁だった犬養毅の後継が、憲政の常道から政友会出身者になるものと期待していました。しかし、軍に近い人物からは政党内閣の成立を拒絶する意見が出ていたのです

結局犬養毅の後に総理となったのは斎藤実でした。斎藤は海軍出身で、英語が堪能だったことなどから抜擢されました。斎藤内閣は政友会と民政党の両方から大臣を迎え入れています国家の危機に立ち向かうため対立する政党が手を組んだその内閣は「挙国一致内閣」と呼ばれました

政友会の解散

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日本が戦争の時代を迎えると、政友会はその役目を終えることになります。ここでは、二大政党制解消から政友会の解散までを、駆け足で見ていくことにしましょう。

軍部が台頭して政党の影響力が弱まる

斎藤実内閣が2年ほど続いた後に岡田啓介内閣が生まれました岡田内閣も斎藤内閣と同様に政友会と民政党から入閣する挙国一致内閣でした。ところが、1936(昭和11)年に二・二六事件が発生します。岡田は無事でしたが、斎藤前総理や高橋是清大蔵大臣らを失う事態となりました。

二・二六事件の責任を取って岡田が辞任しその後は廣田弘毅が引き継ぎます廣田内閣も表向きは挙国一致内閣でしたがその人事には軍部が介入しました。さらに、軍部大臣現役武官制が復活したため、軍部の意向なしに組閣できなくなったのです。政党の影響力は弱められました。

政友会が分裂して大政翼賛会に合流

1937(昭和12)年より政友会は4名が総裁代行委員を務める集団指導体制となりました。しかし、4名の中から中島知久平が革新派を立ち上げて残りの3名を中心とする正統派と対立するようになります。2派はそれぞれが党総裁を選出して、主導権を握ろうとしたのです。

1940(昭和15)近衛文麿内閣は日中戦争の長期化を打開することを目的として新体制運動を起こします。その中で、既成政党を解党して、新党を結成する機運が生まれました。多くの政党はそれに賛同して政友会も2派とも解党大政翼賛会が結成され政友会に所属していた者も参加しました

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