なぜ政友会は二大政党制を維持できなかった?その理由を他の二大政党制時代とともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説
政友会は多くの総理大臣を輩出し、一時は二大政党制になった時期もあったぞ。しかし、その時期は短かったな。なぜ政友会が関わった二大政党制は短命に終わったのでしょうか。
政友会が二大政党制を維持できなかった理由を、他の二大政党制時代とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。
- 政友会が結成されるまで
- 日本初の政党内閣となった隈板内閣
- 伊藤博文が政友会を立ち上げる
- 政友会が関わった主な出来事は?
- 桂太郎と西園寺公望による桂園時代
- 平民宰相の誕生と東京駅での暗殺
- 張作霖爆殺事件で田中義一内閣が総辞職
- 政友会による二大政党制の時代
- 民政党の成立で二大政党制へ
- 五・一五事件で犬養毅が暗殺される
- 政友会と民政党による挙国一致内閣の成立
- 政友会の解散
- 軍部が台頭して政党の影響力が弱まる
- 政友会が分裂して大政翼賛会に合流
- 戦後の日本で生まれた二大政党制は?
- 民主党と自由民主党による二大政党制
- 自由民主党と日本社会党による55年体制
- 政友会をはじめ日本では二大政党制が定着していない
この記事の目次
ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
日本初の政党内閣となった隈板内閣
1898(明治31)年に成立した第3次伊藤博文内閣は、当時の衆議院で2大勢力となっていた、自由党と進歩党のどちらからも協力を取り付けられませんでした。それが原因で、予算や法案が成立しない事態となります。その結果、第3次伊藤内閣は総辞職に追い込まれたのです。
その後に成立したのが、第1次大隈重信内閣でした。自由党のトップだった板垣退助と、進歩党の党首だった大隈重信が手を組み、2つの党は憲政党として合流したのです。2人が中心となって内閣を組織したため、第1次大隈内閣は「隈板内閣」(わいはんないかく)とも呼ばれます。隈板内閣は、憲政党が主体となって成立した、日本初の政党内閣です。
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伊藤博文が政友会を立ち上げる
隈板内閣は、日本の憲政史上初めての政党内閣として成立しました。ところが、隈板内閣はわずか4ヶ月で崩壊します。その理由は、内部対立にありました。与党の憲政党が旧自由党系と旧進歩党系に分裂して、対立が激化した結果、隈板内閣は総辞職せざるをえなくなったのです。
その後、伊藤博文は政党政治を画策し、1900(明治33)年に立憲政友会を結成しました。その直後に、第4次伊藤博文内閣が成立。立憲政友会が中心となって、内閣が運営されました。やがて立憲政友会は「政友会」という略称でも呼ばれるようになり、多くの総理大臣を輩出することになります。
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桂太郎と西園寺公望による桂園時代
第4次伊藤博文内閣が総辞職した後、およそ10年に渡り2人が交代で総理大臣を務めるような時期が続きました。その2人とは、1人が伊藤と同じ長州閥出身の桂太郎、もう1人が西園寺公望です。西園寺は、伊藤とともに政友会の旗揚げに参加していました。
その10年間は、2人の名前から「桂園時代」と呼ばれます。桂園時代の日本は、日露戦争や重工業の発展などを経て、国際的な地位が向上した時期でもありました。しかし、第3次桂内閣の成立に政友会などが反発。第一次護憲運動へと発展して、第3次桂内閣は成立からわずか2ヶ月で総辞職せざるをえなくなったのです。
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