みんなはケルン大聖堂を知っているか?ドイツのケルンにあるローマ・カトリック教の大聖堂のことです。建築様式はゴシック様式。その建築物のなかでは世界最大とされている。

世界遺産にも指定されているケルン大聖堂。歴史的背景や保存をめぐる今を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。世界の建築物に興味があり気になることがあると調べている。今回はドイツのケルン大聖堂についてまとめてみた。

ケルン大聖堂とはどのような建築物なのか?

The unfinished cathedral in 1820, engraved by Henry Winkles. The huge crane on the tower of the cathedral is visible in the picture.
By Theodor Verhas - Udo Mainzer: Köln in historischen Ansichten. Wuppertal 1977, S. 71, Public Domain, Link

ケルン大聖堂はドイツのケルンにある大聖堂です。ゴシック様式の建築物としては世界最大の大きさを誇りますが最初から大きかったわけではありません。増築や改修などを重ねながら現在のように形作られていきました。現在は世界遺産として世界中の観光客を迎えながら、ローマ・カトリック教会のミサを行っています。

現在のケルン大聖堂は3代目

現在私たちが見ることができるケルン大聖堂は3代目です。初代のケルン大聖堂が完成したのは4世紀。ローマ帝国が各地に影響力を誇っていた時代です。大聖堂というと天上にそびえる高さが特徴的ですが、初代のケルン大聖堂は正方形でした。

2代目のケルン大聖堂が完成したのは818年のこと。東方三博士の聖遺物が置かれたこともあり、たくさんの巡礼者がケルンに集まりました。東方三博士とは、イエスが誕生したときに拝んだとされている人物で、マリアに乳香、没薬、黄金を捧げました。日本では東方の三賢人と呼ばれることもあります。

1248年より3代目の建築が開始

2代目が火災で焼けてしまったため、3代目のケルン大聖堂が建造されはじめます。しかしながら完成まで多くの困難に見舞われました。そのひとつが16世紀の宗教改革。ルターにより聖職者の堕落が指摘されたことでローマ・カトリック教会に対する人々の不信感が高まり財政難に陥りました。

宗教改革の影響もありケルン大聖堂の建築は一時中断することになります。そのため長らくケルン大聖堂を特徴づける正面のファサードの塔はひとつのみという状態が続きました。工事の中断期間は2世紀以上におよび、19世紀に入ってから再開されます。

この時期のドイツはイスラム教徒が北アフリカからヨーロッパに侵入してくる時代。国としての一体感を高めるために、カトリック教を布教する活動を積極的に支援していました。各地には豪族の私有地がひろがっており、それを教皇の管轄下に置いて教会の建設に利用したのです。

ケルン大聖堂のはじまりは小さな教会。知名度もありませんでした。自由都市の集まりという一面もあった当時のドイツ。キリスト教の信仰を国家の精神的な軸とするために、多額の資金を投じてあれだけの規模の聖堂をつくりあげたと言ってもいいでしょう。

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ナポレオン戦争がきっかけでケルン大聖堂の建築再開

Charles Meynier - Entrée de Napoléon à Berlin. 27 octobre 1806.jpg
By Charles Meynier - GalleriX, Public Domain, Link

ケルン大聖堂の建築は19世紀になって本格的に建築が再開されますが、そのきっかけとなったのがナポレオン戦争。ドイツにおいて国家主義が高揚するなか、伝統的な文化を求める声が高まり、ケルン大聖堂に対する関心が高まります。

ナポレオン戦争によるドイツの変化

ドイツはナポレオンの侵略により敗北した国です。その敗北感が愛国心を高めました。その結果、旧神聖ローマ帝国を構成していた35の領邦と4つの帝国自由都市が連合を組みドイツ連邦が誕生します。さらにはヴィルヘルム1世を皇帝としてドイツ帝国を成立させる、ドイツ統一運動につながっていきました。

さまざまな領邦と都市がひとつの共同体になる過程で、ドイツの唯一無二の伝統を探し求める気運が高まります。その流れのなかで沸き起こったのがゴシック建築のリバイバル。そこで工事が中断していたケルン大聖堂に注目が集まったのです。

ゴシック建築の復興運動とは?

18世紀後半から19世紀にかけて起こったゴシック建築の復興運動。その始まりはイギリスですが、ドイツをはじめヨーロッパ全体に広がっていきました。その特徴はゴシックの建築様式をとにかく順守するというもの。中世ヨーロッパの大聖堂や修道院をそのまま再現することで、中世の雰囲気をよみがえらせようとしたのです。

ヨーロッパでゴシック建築が再注目されたきっかけは産業革命。工業化や都市化により変わりゆく風景に対する反応でした。伝統的な建築を再現することで「古き良き時代」に想いを馳せたのでしょう。ドイツの場合は統一運動における愛国心の高揚。流行の背景は異なります。

二度の世界大戦下のケルン大聖堂

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By Post processing by User:W.wolny - US-Army history images (jpeg), Public Domain, Link

ケルン大聖堂はドイツの国家的なシンボルとして大きな存在感を示していました。しかしながら第一次世界大戦そして第二次世界大戦を通じて破壊されていきました。それまではゴシック建築の方法を遵守していたものの、戦後に復旧される際に現代風のアレンジが加えられ、今でも賛否両論となっています。

武器の生産のために溶解

ケルン大聖堂の南側の塔には「皇帝の鐘」と呼ばれる鐘が取り付けられていました。それは第一次世界大戦のときに取り外されて溶かされ、武器の生産のために使われました。ドイツは第一次世界大戦では、無制限潜水艦作戦を開始したことにより連合国の激しい攻撃に合い、戦況が不利になっていきます。

そのため「皇帝の鐘」を使わざるを得ないほど苦しい状況になっていたのでしょう。ケルン大聖堂には複数の鐘があるのですが、そのなかでもとくに大きな鐘だったようです。今は鐘があった場所は何もない状態のまま。その代わりに取り付けられたのが大きな「ピーターの鐘」。24000kgもの重さがある鐘です。

第二次世界大戦では空襲に遭遇

第二次世界大戦のときケルン市はアメリカとイギリスの軍隊による空襲を受けます。その影響でケルン大聖堂は14発の直撃弾を受けて破壊されました。内側まで激しく破壊されたものの、建物は倒壊するまでには至りませんでした。高くそびえたつ建築物ですが、頑丈な作りになっていたことが分かります。

復旧工事がスタートしたのは戦後。1956年にはおおむね元の姿に戻っています。このときのドイツは敗戦国。財力が十分にないこともあり、廃墟の煉瓦を再利用して復旧作業が行われました。そのため当時のケルン大聖堂には粗悪なレンガが混じっていましたが、今は新しく作り変えられています。

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ケルン大聖堂の建築様式

image by PIXTA / 2420120

天に向かってそびえたつケルン大聖堂の見どころのひとつが外観の迫力。当時のドイツの国力を外部にアピールするかのようにさまざまな彫刻が施されています。建物の大きさという点ではスペインのサグラダファミリアを思い浮かべる方も多いでしょう。しかし視覚的な迫力はケルン大聖堂のほうが圧倒する印象があります。

ケルン大聖堂を彩る聖人の彫刻

ケルン大聖堂の入口に該当するのは西側の表玄関にある三つの扉。そこには聖書に登場する聖人たちの彫刻が施されています。西側の彫刻を製作したのはペーター・フックス。1878年から1881年のあいだにかけて製作されました。それ以外にも大聖堂のさまざまな箇所に設置されている彫刻の数々を、フックスはすべて自分の工房で作りました。

ケルン大聖堂の内部にもまた聖書をモチーフとする彫刻が数多く置かれています。壁際にはいくつかの祭壇があるのですが、なかでも目を引くのは「キリストの埋葬像」でしょう。苦悩に満ちた表情を浮かべるキリストの姿が特徴的。まわりには彼の死を見守るように聖人たちの彫刻が置かれています。

ケルン大聖堂のシンボルである「東方三博士の聖遺物」

ケルン大聖堂の始まりとも密接に関係がある宝物が「東方三博士の聖遺物」です。これが設置されているのは聖堂の中心にある祭壇の奥。そこには高祭壇があり、聖遺物はその後ろに置かれた黄金のなかで保管されてきました。金色の棺の歴史は古く、1190年から1220年にかけて製作されたと伝えられています。

黄金の棺にもまた細やかな彫刻が施されました。棺の側面にはキリストの使徒、預言者、賢者などの彫刻。正面には赤ちゃんのころのイエスを抱く聖母マリアと、祈りをささげる賢者の姿が彫られました。昔は巡礼者はこの棺のなかをのぞき込むことができましたが、今は遠くから眺めるだけとなっています。

ケルン大聖堂がある地域の歴史と今

image by PIXTA / 43379958

ケルン大聖堂は世界遺産にも登録されている歴史ある大聖堂ですが、それがあるケルンという地も歴史的に重要な場所です。ケルンのはじまりは1世紀。古代ローマの植民都市のひとつして創建されたのが由来です。東西のヨーロッパの中間地点にあることもあり、東西を結ぶ要所として発展してきました。

ハンザ同盟のメンバーとして活躍したケルン

ケルンはハンザ同盟が組まれたときに主要メンバーとして大きな影響力を誇りました。ハンザ同盟とは中世の後期に組まれた都市同盟。北海そしてバルト海の沿岸エリアで展開されている貿易をとりまとめ、支配することを目的としたものです。

メンバーとなった都市は、それぞれを干渉することはなく、ゆるやかに協力関係を築いてきました。その趣旨は経済的な協力ですが、ときには軍事的さらには政治的につながることもありました。同盟の意思は定期的に開催される会議で決定。全会一致を原則としていました。ただそこまで厳密にルールは守られていなかったようです。

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カトリックの影響が色濃いケルン

現在のケルンの住民の信仰はローマ・カトリック教会が多数派。3割以上がローマ・カトリック教徒とされています。カトリックの影響力の強さもあり、長らくカトリック系である中央党が主力政党。第二次世界大戦が終わると中央党は解体され、ドイツキリスト教民主同盟が形成されます。

それからケルンの支持層はドイツ社会民主党へと移行。ケルンに住んでいる人たちはこれらのカトリック系の政党を主に支持してきました。実はイスラム教やユダヤ教の信徒が多いこともケルンの特徴。その影響もあるナチスドイツ時代にはたくさんのケルン在住のユダヤ教徒が殺害されました。

ケルン大聖堂はドイツの歴史を映し出す

ケルン大聖堂は中断期間を挟みながら600年以上の歳月をかけて建造されました。そのためドイツを取り巻くさまざまな歴史的出来事が関わっています。古代ローマ帝国の都市文化の雰囲気、宗教改革によるカトリック教会の停滞、ナポレオン戦争による愛国心の高まり、そして二度にわたる世界大戦。これらの歴史的出来事の影響をさまざまに受けながらケルン大聖堂は大きくなり、そして保存されています。歴史を文字ではなく建造物から感じ取るというのもいいかもしれませんね。

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ドイツヨーロッパの歴史ローマ帝国世界史

ドイツ的な建築の集大成「ケルン大聖堂」歴史的背景や世界遺産としての今を元大学教員がわかりやすく解説

ナポレオン戦争がきっかけでケルン大聖堂の建築再開

Charles Meynier - Entrée de Napoléon à Berlin. 27 octobre 1806.jpg
By Charles MeynierGalleriX, Public Domain, Link

ケルン大聖堂の建築は19世紀になって本格的に建築が再開されますが、そのきっかけとなったのがナポレオン戦争。ドイツにおいて国家主義が高揚するなか、伝統的な文化を求める声が高まり、ケルン大聖堂に対する関心が高まります。

ナポレオン戦争によるドイツの変化

ドイツはナポレオンの侵略により敗北した国です。その敗北感が愛国心を高めました。その結果、旧神聖ローマ帝国を構成していた35の領邦と4つの帝国自由都市が連合を組みドイツ連邦が誕生します。さらにはヴィルヘルム1世を皇帝としてドイツ帝国を成立させる、ドイツ統一運動につながっていきました。

さまざまな領邦と都市がひとつの共同体になる過程で、ドイツの唯一無二の伝統を探し求める気運が高まります。その流れのなかで沸き起こったのがゴシック建築のリバイバル。そこで工事が中断していたケルン大聖堂に注目が集まったのです。

ゴシック建築の復興運動とは?

18世紀後半から19世紀にかけて起こったゴシック建築の復興運動。その始まりはイギリスですが、ドイツをはじめヨーロッパ全体に広がっていきました。その特徴はゴシックの建築様式をとにかく順守するというもの。中世ヨーロッパの大聖堂や修道院をそのまま再現することで、中世の雰囲気をよみがえらせようとしたのです。

ヨーロッパでゴシック建築が再注目されたきっかけは産業革命。工業化や都市化により変わりゆく風景に対する反応でした。伝統的な建築を再現することで「古き良き時代」に想いを馳せたのでしょう。ドイツの場合は統一運動における愛国心の高揚。流行の背景は異なります。

二度の世界大戦下のケルン大聖堂

Warning sign in cologne.jpg
By Post processing by User:W.wolnyUS-Army history images (jpeg), Public Domain, Link

ケルン大聖堂はドイツの国家的なシンボルとして大きな存在感を示していました。しかしながら第一次世界大戦そして第二次世界大戦を通じて破壊されていきました。それまではゴシック建築の方法を遵守していたものの、戦後に復旧される際に現代風のアレンジが加えられ、今でも賛否両論となっています。

武器の生産のために溶解

ケルン大聖堂の南側の塔には「皇帝の鐘」と呼ばれる鐘が取り付けられていました。それは第一次世界大戦のときに取り外されて溶かされ、武器の生産のために使われました。ドイツは第一次世界大戦では、無制限潜水艦作戦を開始したことにより連合国の激しい攻撃に合い、戦況が不利になっていきます。

そのため「皇帝の鐘」を使わざるを得ないほど苦しい状況になっていたのでしょう。ケルン大聖堂には複数の鐘があるのですが、そのなかでもとくに大きな鐘だったようです。今は鐘があった場所は何もない状態のまま。その代わりに取り付けられたのが大きな「ピーターの鐘」。24000kgもの重さがある鐘です。

第二次世界大戦では空襲に遭遇

第二次世界大戦のときケルン市はアメリカとイギリスの軍隊による空襲を受けます。その影響でケルン大聖堂は14発の直撃弾を受けて破壊されました。内側まで激しく破壊されたものの、建物は倒壊するまでには至りませんでした。高くそびえたつ建築物ですが、頑丈な作りになっていたことが分かります。

復旧工事がスタートしたのは戦後。1956年にはおおむね元の姿に戻っています。このときのドイツは敗戦国。財力が十分にないこともあり、廃墟の煉瓦を再利用して復旧作業が行われました。そのため当時のケルン大聖堂には粗悪なレンガが混じっていましたが、今は新しく作り変えられています。

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