ナポレオン戦争がきっかけでケルン大聖堂の建築再開
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ケルン大聖堂の建築は19世紀になって本格的に建築が再開されますが、そのきっかけとなったのがナポレオン戦争。ドイツにおいて国家主義が高揚するなか、伝統的な文化を求める声が高まり、ケルン大聖堂に対する関心が高まります。
ナポレオン戦争によるドイツの変化
ドイツはナポレオンの侵略により敗北した国です。その敗北感が愛国心を高めました。その結果、旧神聖ローマ帝国を構成していた35の領邦と4つの帝国自由都市が連合を組みドイツ連邦が誕生します。さらにはヴィルヘルム1世を皇帝としてドイツ帝国を成立させる、ドイツ統一運動につながっていきました。
さまざまな領邦と都市がひとつの共同体になる過程で、ドイツの唯一無二の伝統を探し求める気運が高まります。その流れのなかで沸き起こったのがゴシック建築のリバイバル。そこで工事が中断していたケルン大聖堂に注目が集まったのです。
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ゴシック建築の復興運動とは?
18世紀後半から19世紀にかけて起こったゴシック建築の復興運動。その始まりはイギリスですが、ドイツをはじめヨーロッパ全体に広がっていきました。その特徴はゴシックの建築様式をとにかく順守するというもの。中世ヨーロッパの大聖堂や修道院をそのまま再現することで、中世の雰囲気をよみがえらせようとしたのです。
ヨーロッパでゴシック建築が再注目されたきっかけは産業革命。工業化や都市化により変わりゆく風景に対する反応でした。伝統的な建築を再現することで「古き良き時代」に想いを馳せたのでしょう。ドイツの場合は統一運動における愛国心の高揚。流行の背景は異なります。
二度の世界大戦下のケルン大聖堂
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ケルン大聖堂はドイツの国家的なシンボルとして大きな存在感を示していました。しかしながら第一次世界大戦そして第二次世界大戦を通じて破壊されていきました。それまではゴシック建築の方法を遵守していたものの、戦後に復旧される際に現代風のアレンジが加えられ、今でも賛否両論となっています。
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武器の生産のために溶解
ケルン大聖堂の南側の塔には「皇帝の鐘」と呼ばれる鐘が取り付けられていました。それは第一次世界大戦のときに取り外されて溶かされ、武器の生産のために使われました。ドイツは第一次世界大戦では、無制限潜水艦作戦を開始したことにより連合国の激しい攻撃に合い、戦況が不利になっていきます。
そのため「皇帝の鐘」を使わざるを得ないほど苦しい状況になっていたのでしょう。ケルン大聖堂には複数の鐘があるのですが、そのなかでもとくに大きな鐘だったようです。今は鐘があった場所は何もない状態のまま。その代わりに取り付けられたのが大きな「ピーターの鐘」。24000kgもの重さがある鐘です。
第二次世界大戦では空襲に遭遇
第二次世界大戦のときケルン市はアメリカとイギリスの軍隊による空襲を受けます。その影響でケルン大聖堂は14発の直撃弾を受けて破壊されました。内側まで激しく破壊されたものの、建物は倒壊するまでには至りませんでした。高くそびえたつ建築物ですが、頑丈な作りになっていたことが分かります。
復旧工事がスタートしたのは戦後。1956年にはおおむね元の姿に戻っています。このときのドイツは敗戦国。財力が十分にないこともあり、廃墟の煉瓦を再利用して復旧作業が行われました。そのため当時のケルン大聖堂には粗悪なレンガが混じっていましたが、今は新しく作り変えられています。
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