今回のテーマは「西園寺公望(さいおんじきんもち)」についてです。西園寺公望は明治時代から昭和にかけて活躍した超大物政治家の一人で、総理大臣も務めている。総理大臣としては珍しい公家の出身ですが、戊辰戦争に参加した経歴もある。
引退後も「元老」として政界の黒幕であり続け、70年にわたり政界で活躍した偉人と言えるでしょう。日本の近現代史をテーマに論文を書いたこともあるライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

西園寺公望の来歴

まず最初に、西園寺公望の人格・思想形成に大きく関係した事柄を見ていきましょう。彼は公家の生まれなので「いいところのお坊ちゃん」なのは間違いありませんが、それだけで語り尽くせる人柄ではなく、戊辰戦争に積極的に参戦したり、フランス留学時にも大らかに遊んで暮らしたりしています。

このように、国を守ろうとする気概と、貴族的な自由闊達さを兼ね備えている点が彼の大きな特徴と言えるでしょう。そんな西園寺の来歴を解説します。

貴族の家で生まれ育つ

西園寺公望は、生まれも育ちも「公家」です。生まれは日本の清華家の一つである徳大寺家で、さらに二歳の時に、同じ清華家である西園寺家の養子となり、さらにその後は西園寺家の家督を相続しています。

明治天皇よりも三つ年上で、幼い頃は天皇の遊び相手などもしていたとか。こうした生い立ちは、西園寺の性格にも大きな影響を与えました。世界的に見ると、貴族というのは社会変革への意気込みも強いものですが、彼は過激な変革を好まないタイプだったと言えます。

例えば、同時代人である山縣有朋は皇室に絶対的な忠誠心を抱いていました。しかし西園寺はリベラル寄りで、太平洋戦争直前には日本が国粋主義化するのを憂いています。

戊辰戦争で活躍

西園寺公望が歴史の表舞台に初めて登場したのは、戊辰戦争の時です。彼は山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦し、特に会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたと言われています。

鳥羽・伏見の戦いでは、少年ながら積極的に旧幕府軍と戦うことを主張することもあったとか。このように、「貴族出身のお坊ちゃん」というイメージには収まらない勇壮さも備えた人柄で、19歳の時には新潟府知事にも任じられました。

フランスへ留学

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ここまでは西園寺の人格形成に大きく関係した出来事を説明しましたが、彼の思想面に多大な影響を与えたのが1871年からのフランスへの留学です。もともと彼は公家として初めて洋装で参内するなど異彩を放つ存在でしたが、さらなる学識を求めてソルボンヌ大学で学んだのでした。

彼はパリに到着した直後、ちょうどパリ・コミューンに際会したとされています。そして大学では法学者アコラスに師事し、第一次世界大戦時にフランス首相となったクレマンソーや社交界の友人たちと交流しました。

さらに、日本から来ていた中江兆民松田正久との親交も深めています。ここで西園寺が身に付けた自由主義思想は、その後の彼の政治的立ち位置と切っても切り離せないものとなりました。

官界から政治の世界へ入る西園寺公望

ここまでで、若き西園寺公望の血気はやる青年時代について見てきました。戊辰戦争での活躍と登用、そしてフランスでの奔放ぶりは目を見張るものがありますが、次はフランス帰りの彼が政治家への道を歩み始めた経緯を説明します。

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「東洋自由新聞」の挫折

ここまで、貴族の血筋として自由闊達に生きてきた西園寺公望の来歴を見てきましたが、フランスからの帰国後に、初めての大きな挫折を味わいます。それは、中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊して社長に就任した時の出来事でした。

社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると、あっさり退職しました。

このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われます。しかしこの体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱も鳴りを潜め、どちらかというと皮肉屋のものぐさな性格になっていきました。

伊藤博文の知遇を得る

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その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て「腹心」的な立場になります。伊藤が憲法調査のために渡欧した際も同行し、オーストリアやドイツ駐在の大使を務めました。その後は、貴族院副議長のポストにも就いて伊藤博文の後継者としても指名されました。

第二次・第三次伊藤内閣で入閣

西園寺は、伊藤博文のもとで政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。

さらに、西園寺は第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると西園寺が二代目の政友会総裁になりました。原敬を懐刀として上手く使い、党勢の興隆に尽力しています。

また、現代にも残る彼の大きな足跡として、京都帝国大学・明治大学・立命館大学の創立に関ったことが挙げられるでしょう。特に立命館大学では、西園寺公望を「学祖」としています。

「桂園時代」の西園寺公望

後に首相の座に就いた西園寺公望ですが、彼の内閣を説明するのに欠かせないのが「桂園時代」です。伊藤博文が結党し西園寺が二代目総裁になった政友会と、山縣有朋の派閥(山縣閥)は対立関係にありましたが、西園寺と、山縣有朋の懐刀である桂太郎との間には不思議な友情がありました。

そして二人が、いわば出来レースのような形で交代しながら政権を担当した、明治後期の1901年から大正末期の1923年までの十年ほどの期間を「桂園時代」と呼びます。実際には最初から完全に諮った出来レースではなく、政権を譲る(禅譲)にあたり一方が条件を付けるなどの駆け引きもありました。

西園寺公望が、そんな「桂園時代」を経て政界を去るまでの流れを見ていきましょう。

政友会と原敬

西園寺公望が、1903年に伊藤博文の後を継いで二代目の政友会総裁に就任したのは先述の通りです。彼は日露戦争で勝利を収めた桂太郎から政権を譲られましたが、その際、桂から政友会の勢力があまり大きくならないことを条件として出されていました。

そこで、政友会から入閣した大臣は原敬など少数にとどまり、内容としては政友会と山縣・桂系の派閥の連立内閣のような形になっていました。こうして第一次西園寺内閣が成立し、同時に、政友会のような政治政党と、山縣・桂が率いる藩閥勢力は、お互いに無視できない関係になっていきます。

双方の橋渡しを行い、政権交代がスムーズに進むための交渉役として活躍したのが、政友会の原敬でした。

\次のページで「桂園時代」を解説!/

桂園時代

「桂園時代」の、西園寺・桂による政権交代は四回行われています。この間、西園寺内閣によって行われた鉄道国有化・南満州鉄道会社(満鉄)の設立・二個師団増設などは、元老の意に沿ったものや桂内閣の政策を引き継いだものでした。

また日本社会党の設立も認めており、内相だった原敬は山縣有朋の牙城だった内務省の掌握に努めました。また貴族院の有爵議員から閣僚を登用して、山縣派の閣僚出身議員に対抗しています。公家出身ならではの政策として、数多くの文化政策も取り入れられました。

外交面では、日仏協約・日露協約を結び、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得しています。こうして西園寺は、本格的な政党政治へ着実に日本の政治を進めていきました。

政界を去る

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1908年5月、衆議院選挙で政友会は勝利しますが、その二カ月後に第一次西園寺内閣は退陣しました。退陣の理由は健康悪化とも元老たちの圧力とも言われています。

次は桂太郎が首相になり、議会の多数派だった政友会と協力しながら政局を乗り切りました。しかし伊藤博文暗殺や大逆事件、南北朝正閏問題が重なって、桂首相は総辞職します。

ここで原敬と桂は会談し、桂太郎が再び総理にならないという誓約を得て、政権は政友会に譲られました。こうして第二次西園寺内閣が成立したものの、陸軍による軍拡要求で閣内の意見の不一致が生じ、内閣は1912年12月に瓦解し西園寺は政界を去ります。この、政権の内部崩壊は当時「内閣の毒殺」と呼ばれました。

元老時代の西園寺公望

ここまでで、西園寺公望が政治家として、あるいは首相としてどのように活躍し政権運営を行ってきたのかを見てきました。その西園寺は政界から引退した後、最重要の重臣である「元老」として君臨することになります。

元老としてパリ講和会議へ

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政界を去った西園寺は元老となり、1919年に開催されたパリ講和会議全権首席として出席しています。このことからも、西園寺は引退してからもかなりの影響力を持っていたことが分かるでしょう。

パリ講和会議は第一次世界大戦の戦後処理を行うためのもので、西園寺は会議が始まってだいぶ時間が経ってから会場に到着しました。これは西園寺の出席の決定と、そのための準備に時間がかかったためでした。

また、高齢だった当時の彼は、フランス語のリスニングはできたものの、かつてのように満足に話すことができず、発言も会議中一度も行っていません。残念ながら大活躍とはいきませんでした。

元老たちの死

さて、明治天皇が崩御すると、1912年8月時点で生存していた山縣有朋・松方正義・井上馨・大山巌・桂太郎、それに西園寺も加えられ、この六人が「元老」となります。その後、1924年の政変時には、山縣・井上・大山・桂は死去しており、病床にあった松方も七月に死去しました。

こうして、西園寺公望は日本史上最後の元老になり、宰相の指名権を事実上独占する形になりました。

ただ、西園寺は元老として宰相指名権を掌握したものの、それぞれの状況で無理のない範囲で適切な人選をするにとどまり、状況を作り出すような努力はしていません。悪いことは何もしなかったのですが、最重要の重臣として強い積極性を持って政治に臨んだとは言えないでしょう。

\次のページで「最後の元老となった西園寺公望」を解説!/

最後の元老となった西園寺公望

ここまでで、西園寺公望が元老になってからの活動と、「最後の元老」になるまでの経緯を見てきました。しかし比較的平和だった時代が過ぎ、五・一五事件によって政党内閣が危機にさらされると、西園寺の元老としての権威も次第に陰りが見えてきます。次は、最後の元老として力を尽くした晩年と、その死までを解説しましょう。

張作霖爆殺事件への対応

1928年6月4日に、後の満州事変へとつながっていく遠因になった張作霖爆殺事件が発生しました。事件直後から、西園寺は事件の犯人は関東軍であることに気付いており、当時の田中義一首相に犯人処罰を勧告しています。

しかし関係者は、田中に責任を取らせることを考えており、西園寺はそれに反対しましたが、田中は昭和天皇の不興を買って、最終的には事件の責任を負う形で辞任。これが、昭和天皇の権威が軽視されて陸軍が暴走していくきっかけになりました。

五・一五事件と西園寺暗殺の危機

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1932年5月15日、青年将校が首相官邸を襲撃し、犬養毅首相が射殺される五・一五事件が発生しました。この事件により政党政治は大きな衝撃を受け、陸軍が実権を握る国粋主義的な動きが活発になります。

元老の西園寺も、そうした動きを無視できなくなりました。そこで、政党政治家でもなく軍の強硬派でもない斎藤実元海軍大臣を推薦します。しかしこれは反対に軍人たちに不評で「西園寺は中立ではない」と思われるようになりました。

この頃から、日本は要人暗殺が頻発するテロの時代に突入。西園寺も何度も命を狙われ、1932年の血盟団事件ではターゲットの一人にされており、1934年と1935年にも暗殺を画策する者が検挙されました。

内政の混乱と西園寺の死

その後、満州事変や二・二六事件を経て、日本の内政は混乱に陥ります。そんな中で、西園寺は1937年に陸軍の横暴を押さえるべく宇垣一成を首相に推奏したものの、陸軍統制派の妨害によって失敗します(流産内閣)

この時期、西園寺が首相候補の「切り札」としていたのが近衛文麿でした。しかし実際に首相になった近衛は陸軍の言いなりで、日中戦争の泥沼へと足を踏み入れる結果になります。

それからも政権が次々に後退する中で、第二次近衛内閣の推薦について同意を求められた時にはこれを拒絶。反対し続けてきた日独伊三国同盟の成立時には「馬鹿げたこと」と嘆き、いわゆる大東亜戦争が勃発するほぼ一年前の1940年11月に没しました。

西園寺公望は明治~昭和の超大物政治家

西園寺公望は明治~大正期に活躍した政治家です。桂太郎と駆け引きしながら政権交代を繰り返す「桂園時代」を築き、対立する政党政治家と、山縣有朋を中心とした藩閥政治家たちの間でバランスを取った内閣運営を行いました。

政界を去った後は、最重要の重臣である「元老」のポジションで政界に影響を与え続けます。しかし五・一五事件以降はその権威も揺らぎ、太平洋戦争で日本が決定的な破滅に向かっていく直前に世を去りました。

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日本史

簡単でわかりやすい「西園寺公望」生い立ちや政治家・元老としての事績を歴史好きライターが詳しく解説

桂園時代

「桂園時代」の、西園寺・桂による政権交代は四回行われています。この間、西園寺内閣によって行われた鉄道国有化・南満州鉄道会社(満鉄)の設立・二個師団増設などは、元老の意に沿ったものや桂内閣の政策を引き継いだものでした。

また日本社会党の設立も認めており、内相だった原敬は山縣有朋の牙城だった内務省の掌握に努めました。また貴族院の有爵議員から閣僚を登用して、山縣派の閣僚出身議員に対抗しています。公家出身ならではの政策として、数多くの文化政策も取り入れられました。

外交面では、日仏協約・日露協約を結び、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得しています。こうして西園寺は、本格的な政党政治へ着実に日本の政治を進めていきました。

政界を去る

image by iStockphoto

1908年5月、衆議院選挙で政友会は勝利しますが、その二カ月後に第一次西園寺内閣は退陣しました。退陣の理由は健康悪化とも元老たちの圧力とも言われています。

次は桂太郎が首相になり、議会の多数派だった政友会と協力しながら政局を乗り切りました。しかし伊藤博文暗殺や大逆事件、南北朝正閏問題が重なって、桂首相は総辞職します。

ここで原敬と桂は会談し、桂太郎が再び総理にならないという誓約を得て、政権は政友会に譲られました。こうして第二次西園寺内閣が成立したものの、陸軍による軍拡要求で閣内の意見の不一致が生じ、内閣は1912年12月に瓦解し西園寺は政界を去ります。この、政権の内部崩壊は当時「内閣の毒殺」と呼ばれました。

元老時代の西園寺公望

ここまでで、西園寺公望が政治家として、あるいは首相としてどのように活躍し政権運営を行ってきたのかを見てきました。その西園寺は政界から引退した後、最重要の重臣である「元老」として君臨することになります。

元老としてパリ講和会議へ

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政界を去った西園寺は元老となり、1919年に開催されたパリ講和会議全権首席として出席しています。このことからも、西園寺は引退してからもかなりの影響力を持っていたことが分かるでしょう。

パリ講和会議は第一次世界大戦の戦後処理を行うためのもので、西園寺は会議が始まってだいぶ時間が経ってから会場に到着しました。これは西園寺の出席の決定と、そのための準備に時間がかかったためでした。

また、高齢だった当時の彼は、フランス語のリスニングはできたものの、かつてのように満足に話すことができず、発言も会議中一度も行っていません。残念ながら大活躍とはいきませんでした。

元老たちの死

さて、明治天皇が崩御すると、1912年8月時点で生存していた山縣有朋・松方正義・井上馨・大山巌・桂太郎、それに西園寺も加えられ、この六人が「元老」となります。その後、1924年の政変時には、山縣・井上・大山・桂は死去しており、病床にあった松方も七月に死去しました。

こうして、西園寺公望は日本史上最後の元老になり、宰相の指名権を事実上独占する形になりました。

ただ、西園寺は元老として宰相指名権を掌握したものの、それぞれの状況で無理のない範囲で適切な人選をするにとどまり、状況を作り出すような努力はしていません。悪いことは何もしなかったのですが、最重要の重臣として強い積極性を持って政治に臨んだとは言えないでしょう。

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