簡単でわかりやすい「西園寺公望」生い立ちや政治家・元老としての事績を歴史好きライターが詳しく解説
桂園時代
「桂園時代」の、西園寺・桂による政権交代は四回行われています。この間、西園寺内閣によって行われた鉄道国有化・南満州鉄道会社(満鉄)の設立・二個師団増設などは、元老の意に沿ったものや桂内閣の政策を引き継いだものでした。
また日本社会党の設立も認めており、内相だった原敬は山縣有朋の牙城だった内務省の掌握に努めました。また貴族院の有爵議員から閣僚を登用して、山縣派の閣僚出身議員に対抗しています。公家出身ならではの政策として、数多くの文化政策も取り入れられました。
外交面では、日仏協約・日露協約を結び、第三次日韓協約で朝鮮の内政権を獲得しています。こうして西園寺は、本格的な政党政治へ着実に日本の政治を進めていきました。
政界を去る
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1908年5月、衆議院選挙で政友会は勝利しますが、その二カ月後に第一次西園寺内閣は退陣しました。退陣の理由は健康悪化とも元老たちの圧力とも言われています。
次は桂太郎が首相になり、議会の多数派だった政友会と協力しながら政局を乗り切りました。しかし伊藤博文暗殺や大逆事件、南北朝正閏問題が重なって、桂首相は総辞職します。
ここで原敬と桂は会談し、桂太郎が再び総理にならないという誓約を得て、政権は政友会に譲られました。こうして第二次西園寺内閣が成立したものの、陸軍による軍拡要求で閣内の意見の不一致が生じ、内閣は1912年12月に瓦解し西園寺は政界を去ります。この、政権の内部崩壊は当時「内閣の毒殺」と呼ばれました。
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元老時代の西園寺公望
ここまでで、西園寺公望が政治家として、あるいは首相としてどのように活躍し政権運営を行ってきたのかを見てきました。その西園寺は政界から引退した後、最重要の重臣である「元老」として君臨することになります。
元老としてパリ講和会議へ
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政界を去った西園寺は元老となり、1919年に開催されたパリ講和会議に全権首席として出席しています。このことからも、西園寺は引退してからもかなりの影響力を持っていたことが分かるでしょう。
パリ講和会議は第一次世界大戦の戦後処理を行うためのもので、西園寺は会議が始まってだいぶ時間が経ってから会場に到着しました。これは西園寺の出席の決定と、そのための準備に時間がかかったためでした。
また、高齢だった当時の彼は、フランス語のリスニングはできたものの、かつてのように満足に話すことができず、発言も会議中一度も行っていません。残念ながら大活躍とはいきませんでした。
元老たちの死
さて、明治天皇が崩御すると、1912年8月時点で生存していた山縣有朋・松方正義・井上馨・大山巌・桂太郎、それに西園寺も加えられ、この六人が「元老」となります。その後、1924年の政変時には、山縣・井上・大山・桂は死去しており、病床にあった松方も七月に死去しました。
こうして、西園寺公望は日本史上最後の元老になり、宰相の指名権を事実上独占する形になりました。
ただ、西園寺は元老として宰相指名権を掌握したものの、それぞれの状況で無理のない範囲で適切な人選をするにとどまり、状況を作り出すような努力はしていません。悪いことは何もしなかったのですが、最重要の重臣として強い積極性を持って政治に臨んだとは言えないでしょう。
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