簡単でわかりやすい「西園寺公望」生い立ちや政治家・元老としての事績を歴史好きライターが詳しく解説
「東洋自由新聞」の挫折
ここまで、貴族の血筋として自由闊達に生きてきた西園寺公望の来歴を見てきましたが、フランスからの帰国後に、初めての大きな挫折を味わいます。それは、中江兆民と共に「東洋自由新聞」を創刊して社長に就任した時の出来事でした。
社長になった彼に対して、宮中から圧力がかかって辞めさせられそうになったのです。西園寺は抗議しましたが、明治天皇から直々に命令が下ると、あっさり退職しました。
このあっさりした退職ぶりは「身勝手」「執着がない」とも言われます。しかしこの体験は彼にとって一種の「挫折」として感じられたようで、その後は若い頃の情熱も鳴りを潜め、どちらかというと皮肉屋のものぐさな性格になっていきました。
伊藤博文の知遇を得る
image by iStockphoto
その後、西園寺は伊藤博文の知遇を得て「腹心」的な立場になります。伊藤が憲法調査のために渡欧した際も同行し、オーストリアやドイツ駐在の大使を務めました。その後は、貴族院副議長のポストにも就いて伊藤博文の後継者としても指名されました。
第二次・第三次伊藤内閣で入閣
西園寺は、伊藤博文のもとで政治家としてのキャリアを積み重ねていきます。初入閣したのは第二次伊藤内閣で、この時のポストは文部大臣。後に外務大臣も兼務しており、これはフランスへの留学経験が大いに役に立ったと言えるでしょう。
さらに、西園寺は第三次伊藤内閣でも文部大臣として入閣。1903年に伊藤が枢密院議長になると西園寺が二代目の政友会総裁になりました。原敬を懐刀として上手く使い、党勢の興隆に尽力しています。
また、現代にも残る彼の大きな足跡として、京都帝国大学・明治大学・立命館大学の創立に関ったことが挙げられるでしょう。特に立命館大学では、西園寺公望を「学祖」としています。
「桂園時代」の西園寺公望
後に首相の座に就いた西園寺公望ですが、彼の内閣を説明するのに欠かせないのが「桂園時代」です。伊藤博文が結党し西園寺が二代目総裁になった政友会と、山縣有朋の派閥(山縣閥)は対立関係にありましたが、西園寺と、山縣有朋の懐刀である桂太郎との間には不思議な友情がありました。
そして二人が、いわば出来レースのような形で交代しながら政権を担当した、明治後期の1901年から大正末期の1923年までの十年ほどの期間を「桂園時代」と呼びます。実際には最初から完全に諮った出来レースではなく、政権を譲る(禅譲)にあたり一方が条件を付けるなどの駆け引きもありました。
西園寺公望が、そんな「桂園時代」を経て政界を去るまでの流れを見ていきましょう。
こちらの記事もおすすめ
桂園時代とは?日露戦争を経て植民地支配に至る歴史を会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説!
政友会と原敬
西園寺公望が、1903年に伊藤博文の後を継いで二代目の政友会総裁に就任したのは先述の通りです。彼は日露戦争で勝利を収めた桂太郎から政権を譲られましたが、その際、桂から政友会の勢力があまり大きくならないことを条件として出されていました。
そこで、政友会から入閣した大臣は原敬など少数にとどまり、内容としては政友会と山縣・桂系の派閥の連立内閣のような形になっていました。こうして第一次西園寺内閣が成立し、同時に、政友会のような政治政党と、山縣・桂が率いる藩閥勢力は、お互いに無視できない関係になっていきます。
双方の橋渡しを行い、政権交代がスムーズに進むための交渉役として活躍したのが、政友会の原敬でした。
こちらの記事もおすすめ
政党政治実現を目指した平民宰相、原敬とは?その生涯と残した功績について会社員ライターが分かりやすくわかりやすく解説
\次のページで「桂園時代」を解説!/