なぜ戦後初の好景気は「神武景気」と名付けられた?「岩戸景気」「いざなぎ景気」も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説
1.「もはや戦後ではない」
朝鮮特需をきっかけとして、日本は終戦直後のインフレ状態から完全に脱出します。そして、1954(昭和29)年の12月から1957(昭和32)年の6月にかけて、戦後初めての好景気が発生しました。初代天皇とされる神武天皇が即位して以来例を見ない好景気だということで、その好景気は「神武景気」と名付けられたのです。
1956(昭和31)年の経済白書では、序文で「もはや戦後ではない」という言葉が使われました。戦後復興の時代は終わり、これからの日本は新しい時代へ突入する、といった意味になります。この「もはや戦後ではない」という言葉は、戦後復興が完了したことを象徴する言葉として、広く使われるようになりました。
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2.「三種の神器」
本来の「三種の神器」は、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指すもので、皇位の証として皇室に代々受け継がれてきた3つの宝物です。天叢雲剣は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼びます。
神武景気の頃になると、耐久消費財にお金を使う人が増えました。特に人気があった、白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の3つは、総称して「三種の神器」と呼ばれるようになったのです。1960年代には「三種の神器」に代わって、カラーテレビ・クーラー・カー(自家用乗用車)の「3C」が普及し始めました。
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神武景気の始まりは第5次吉田茂内閣が終わる間際
神武景気は、1954(昭和29)年12月から1957(昭和32)年6月までの31ヵ月間続きました。1954年の12月に政権を担当していたのは、第5次吉田茂内閣でした。それまでの吉田はサンフランシスコ講和条約の締結などを実現させ、内閣総理大臣の在任期間は2600日を超えていました。
しかし、バカヤロー解散や造船疑獄などにより、すで吉田内閣の人気は下降していたのです。さらに、造船疑獄の捜査に法務大臣の指揮権が発動され、野党の反発を招きました。野党が結束して吉田内閣の不信任案を提出しようとしたところ、吉田が辞意を表明。1954年12月10日に、第5次吉田内閣は総辞職しました。
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鳩山一郎内閣は神武景気の真っ只中だった
吉田茂の後に総理大臣となったのが、当時吉田のライバルと目されていた鳩山一郎です。第3次まで続いた鳩山内閣は、およそ2年間政権を担当して、その間は神武景気の真っ只中でした。鳩山内閣では、日ソ共同宣言や日本の国際連合加盟などが行われました。
さらに、1955(昭和30)年に保守合同が実現して、自由民主党が結成されました。鳩山一郎が初代総裁に就任しています。同じ年に日本社会党も再統一を実現させると、自民党と社会党で国会の大勢を占める55年体制が生まれたのです。1993(平成5)年の総選挙により8党連立の細川護熙内閣が成立するまで、55年体制は維持されました。
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石橋湛山内閣から岸信介内閣へ
鳩山一郎が政権の座から降りると、自民党総裁選挙で当選した石橋湛山が総理大臣となりました。ところが、石橋は就任して間もなく病に倒れ、医師からしばらく安静が必要と診断されます。それを聞いた石橋は、総理大臣辞任を決断。石橋内閣は、わずか2ヶ月でその役目を終えたのです。
石橋湛山の後は、首相臨時代理を務めていた岸信介が引き継ぎました。岸内閣の人事も、石橋内閣の閣僚をそのまま継承した形になっています。神武景気が終息した1957(昭和32)年6月は、第1次岸内閣の頃でした。その数ヶ月後、岸内閣は新長期経済計画を閣議決定しています。
なべ底不況
神武景気は国際収支の悪化により、次第に勢いを失います。そのため、政府や日本銀行は強力な金融引き締め策を実行しました。ところが、産業界は減益となって、資金不足に陥りました。神武景気で設備投資が過剰になり、在庫が急増して景消費が追い付かなくなったのです。
神武景気の後に起きた不景気は、「なべ底不況」と名付けられました。鍋の底を這うように不景気が続くと予測されていたことから、その名が付いています。しかし、なべ底不況が長期化するという予想は外れました。なべ底不況からは1年で脱却して、その後は好景気が続くことになるのです。
高度経済成長
1960年代前後の日本は、実質経済成長率が年平均で10%を超えていた、高度経済成長を遂げていました。神武景気を始めとする好景気が、何度も繰り返し訪れていたのです。産業界では技術革新が起こり、新しい設備を導入した企業がさらに規模を拡大させ、国際競争力を手にしました。
1960(昭和35)年には、池田勇人内閣が所得倍増計画を発表。10年で国民所得を倍にするのが目標でしたが、それ以上の成果を得られたのです。さらに、1972(昭和47)年に田中角栄が『日本列島改造論』を掲げて総理大臣となると、全国で工業化が進みました。新幹線や高速道路の開通が相次ぎ、日本は列島改造ブームに沸いたのです。
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