今回は、神武景気について学んでいこう。

神武景気といえば、戦後初めて日本が迎えた好景気です。しかし、なぜそんな名前になったのか、詳しく知らない人もいるのではないでしょうか。

「神武景気」という名前になった理由を、当時の内閣やキーワードとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

神武景気の前の日本はどのような経済状況だった?

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はじめに、神武景気の前の日本がどのような経済状況だったのか、簡単に振り返ってみましょう。

戦後インフレとドッジライン

終戦直後の日本ではハイパーインフレーションが発生していました。戦争に巨額の国家予算を投じていたのに加え、生産設備の焼失で国内の生産力が低下していたことなどが原因です。政府は新円切替などで対応しましたがそれでもインフレは収まりませんでした

1949(昭和24)アメリカの銀行家だったジョゼフ・ドッジがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の金融政策顧問に就任して日本のインフレ対策に取り組みます。そして、総予算の均衡化・復興金融金庫の廃止・1ドル=360円の単一為替レート設定などが内容のドッジラインを策定しました

朝鮮特需

ドッジラインを反映させる形で日本政府は戦後インフレの収束に努めました。その結果、ハイパーインフレは解消され国家財政が健全化してます。ところが、国家予算の支出を大幅に減らしたことで一転してデフレーションが発生。企業が相次いで倒産して、失業者が急増しました。

このデフレは結果として朝鮮特需により解消されました。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍が日本に大量の物資やサービスを発注したことで、日本国内の産業を復興させるきっかけとなったのです。その後日本の経済は徐々に拡大して1954(昭和29)年から発生した神武景気に繋がっていきます

神武景気を2つのキーワードとともに解説

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それでは、神武景気について、2つのキーワードとともに解説していきましょう。

\次のページで「1.「もはや戦後ではない」」を解説!/

1.「もはや戦後ではない」

朝鮮特需をきっかけとして、日本は終戦直後のインフレ状態から完全に脱出します。そして、1954(昭和29)年の12月から1957(昭和32)年の6月にかけて戦後初めての好景気が発生しました初代天皇とされる神武天皇が即位して以来例を見ない好景気だということでその好景気は「神武景気」と名付けられたのです

1956(昭和31)年の経済白書では序文で「もはや戦後ではない」という言葉が使われました戦後復興の時代は終わりこれからの日本は新しい時代へ突入するといった意味になります。この「もはや戦後ではない」という言葉は、戦後復興が完了したことを象徴する言葉として、広く使われるようになりました。

2.「三種の神器」

本来の「三種の神器」は八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指すもので皇位の証として皇室に代々受け継がれてきた3つの宝物です。天叢雲剣は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼びます。

神武景気の頃になると耐久消費財にお金を使う人が増えました特に人気があった白黒テレビ電気洗濯機電気冷蔵庫の3つは総称して「三種の神器」と呼ばれるようになったのです。1960年代には「三種の神器」に代わって、カラーテレビ・クーラー・カー(自家用乗用車)の「3C」が普及し始めました。

神武景気の頃の内閣は?

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ところで、神武景気の頃の内閣はどうなっていたのでしょうか。成立順に追っていきましょう。

神武景気の始まりは第5次吉田茂内閣が終わる間際

神武景気は1954(昭和29)年12月から1957(昭和32)年6月までの31ヵ月間続きました1954年の12月に政権を担当していたのは第5次吉田茂内閣でした。それまでの吉田はサンフランシスコ講和条約の締結などを実現させ、内閣総理大臣の在任期間は2600日を超えていました。

しかし、バカヤロー解散や造船疑獄などによりすで吉田内閣の人気は下降していたのです。さらに、造船疑獄の捜査に法務大臣の指揮権が発動され野党の反発を招きました。野党が結束して吉田内閣の不信任案を提出しようとしたところ、吉田が辞意を表明。1954年12月10日に第5次吉田内閣は総辞職しました

鳩山一郎内閣は神武景気の真っ只中だった

吉田茂の後に総理大臣となったのが当時吉田のライバルと目されていた鳩山一郎です第3次まで続いた鳩山内閣はおよそ2年間政権を担当してその間は神武景気の真っ只中でした。鳩山内閣では、日ソ共同宣言や日本の国際連合加盟などが行われました。

さらに、1955(昭和30)年に保守合同が実現して自由民主党が結成されました鳩山一郎が初代総裁に就任しています同じ年に日本社会党も再統一を実現させると自民党と社会党で国会の大勢を占める55年体制が生まれたのです。1993(平成5)年の総選挙により8党連立の細川護熙内閣が成立するまで、55年体制は維持されました。

石橋湛山内閣から岸信介内閣へ

鳩山一郎が政権の座から降りると自民党総裁選挙で当選した石橋湛山が総理大臣となりました。ところが、石橋は就任して間もなく病に倒れ医師からしばらく安静が必要と診断されます。それを聞いた石橋は、総理大臣辞任を決断。石橋内閣はわずか2ヶ月でその役目を終えたのです

石橋湛山の後は首相臨時代理を務めていた岸信介が引き継ぎました。岸内閣の人事も、石橋内閣の閣僚をそのまま継承した形になっています。神武景気が終息した1957(昭和32)年6月は第1次岸内閣の頃でした。その数ヶ月後、岸内閣は新長期経済計画を閣議決定しています。

神武景気の後に何が起きた?

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果たして、神武景気の後に何が起きたのでしょうか。

なべ底不況

神武景気は国際収支の悪化により次第に勢いを失います。そのため、政府や日本銀行は強力な金融引き締め策を実行しました。ところが、産業界は減益となって資金不足に陥りました。神武景気で設備投資が過剰になり、在庫が急増して景消費が追い付かなくなったのです。

神武景気の後に起きた不景気は「なべ底不況」と名付けられました。鍋の底を這うように不景気が続くと予測されていたことから、その名が付いています。しかし、なべ底不況が長期化するという予想は外れました。なべ底不況からは1年で脱却してその後は好景気が続くことになるのです

高度経済成長

1960年代前後の日本は実質経済成長率が年平均で10%を超えていた高度経済成長を遂げていました。神武景気を始めとする好景気が、何度も繰り返し訪れていたのです。産業界では技術革新が起こり新しい設備を導入した企業がさらに規模を拡大させ国際競争力を手にしました

1960(昭和35)年には池田勇人内閣が所得倍増計画を発表。10年で国民所得を倍にするのが目標でしたが、それ以上の成果を得られたのです。さらに、1972(昭和47)年に田中角栄が『日本列島改造論』を掲げて総理大臣となると全国で工業化が進みました新幹線や高速道路の開通が相次ぎ日本は列島改造ブームに沸いたのです

\次のページで「神武景気以外に覚えておきたい日本の好景気は?」を解説!/

神武景気以外に覚えておきたい日本の好景気は?

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最後に、神武景気以外にも覚えておきたい日本の好景気を3つ紹介します。

1.岩戸景気:「天の岩戸神話」が由来の好景気

岩戸景気とは1958(昭和33)年7月から1961(昭和36)年12月までの42ヶ月間続いた好景気の名前です岩戸景気の前に起きた神武景気の31ヶ月間を超えたため神武天皇より古いとされる「天の岩戸神話」より名付けられました。「投資が投資を呼ぶ」という言葉が生まれたほど、企業が競い合うかのように設備投資していたのです。

1959(昭和34)年に当時の明仁皇太子と美智子妃のご成婚でミッチーブームが起きました「三種の神器」は飛ぶように売れ中でも特にカラーテレビが爆発的に売れたそうです池田勇人が所得倍増計画を発表したのも岩戸景気の頃でした。この頃から、高度経済成長がさらに加速します。

2.いざなぎ景気:戦後最長の好景気

いざなぎ景気は1965(昭和40)年11月から1970(昭和45)年7月までの57ヶ月間続き戦後最長の好景気となりました岩戸景気を超えたため天の岩戸神話よりさらに古いとされるイザナギノミコトから名付けられています。日本神話では、イザナギノミコトが日本列島を作ったとされているのです。

1960年代半ばになると日本の国際収支は黒字に転じました。その結果、1968(昭和43)年には日本の国民所得(GNP)が当時の西ドイツを抜き世界2位にまで上昇しています。さらに、いざなぎ景気では消費が拡大して、カラーテレビ・クーラー・カーの「3C」が普及するようになりました。

3.バブル景気:実体経済からかけ離れた泡のような好景気

1986(昭和61)年11月から1991(平成3)年5月までの55ヶ月間続いた好景気をバブル景気と呼びます。「バブル経済」という、実体経済からかけ離れて資産価値が高騰する経済状態を示す言葉は、バブル期以前からすでにありました。中身がないのに大きく膨らみやがて破裂する様子を泡に例えたものです

当時の過剰投機や地価高騰は、まさに泡のようだったと断言して良いでしょう。一時は日経平均株価が史上最高値になりましたがバブル景気からの後退は深刻なものでしたバブル景気後の日本は不況が続き「失われた10年」という言葉も生まれました。今も「失われた30年」が続いているとする意見さえもあります。

神武景気を迎えた日本は高度経済成長を実現した

1954年に、戦後初めての好景気である「神武景気」が到来しました。日本史上で例を見ない景気だということから、初代天皇の名を取って「神武景気」と名付けられています。神武景気は2年半ほど続きましたが、その後も岩戸景気やいざなぎ景気などが起きました。オイルショックを迎えるまで、日本は高度経済成長を続けたのです。

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現代社会

なぜ戦後初の好景気は「神武景気」と名付けられた?「岩戸景気」「いざなぎ景気」も行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、神武景気について学んでいこう。

神武景気といえば、戦後初めて日本が迎えた好景気です。しかし、なぜそんな名前になったのか、詳しく知らない人もいるのではないでしょうか。

「神武景気」という名前になった理由を、当時の内閣やキーワードとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

神武景気の前の日本はどのような経済状況だった?

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はじめに、神武景気の前の日本がどのような経済状況だったのか、簡単に振り返ってみましょう。

戦後インフレとドッジライン

終戦直後の日本ではハイパーインフレーションが発生していました。戦争に巨額の国家予算を投じていたのに加え、生産設備の焼失で国内の生産力が低下していたことなどが原因です。政府は新円切替などで対応しましたがそれでもインフレは収まりませんでした

1949(昭和24)アメリカの銀行家だったジョゼフ・ドッジがGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の金融政策顧問に就任して日本のインフレ対策に取り組みます。そして、総予算の均衡化・復興金融金庫の廃止・1ドル=360円の単一為替レート設定などが内容のドッジラインを策定しました

朝鮮特需

ドッジラインを反映させる形で日本政府は戦後インフレの収束に努めました。その結果、ハイパーインフレは解消され国家財政が健全化してます。ところが、国家予算の支出を大幅に減らしたことで一転してデフレーションが発生。企業が相次いで倒産して、失業者が急増しました。

このデフレは結果として朝鮮特需により解消されました。1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争で、国連軍が日本に大量の物資やサービスを発注したことで、日本国内の産業を復興させるきっかけとなったのです。その後日本の経済は徐々に拡大して1954(昭和29)年から発生した神武景気に繋がっていきます

神武景気を2つのキーワードとともに解説

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それでは、神武景気について、2つのキーワードとともに解説していきましょう。

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