
簡単でわかりやすい「林銑十郎」越境将軍と呼ばれた理由と悪名高い「食い逃げ解散」の理由を歴史好きライターが詳しく解説
林銑十郎はなぜ食い逃げ解散を断行したのか
なぜ林は「食い逃げ解散」を断行したのでしょうか。彼は「政党の連中に懲罰を与える」と述べ、「議会刷新」を名目としていたといいます。総選挙によって、軍部に有利な政党を作ろうと考えたのでしょう。
これには社会的背景があります。大正時代に企業家や財閥の力が増すと、政府は軍人よりも彼ら望む政策を優先するようになりました。また日露戦争による増税が国民経済を圧迫しており、「軍人は税金泥棒だ」という考え方が蔓延していたのです。
当時の軍人たちはこれによる被害者意識を持っており、政党政治に恨みを持っていました。「食い逃げ解散」はこうした恨みの産物で、林銑十郎は首相という立場からこの恨みを晴らそうとしたのでしょう。
林銑十郎の晩年と数少ない功績
内閣総辞職後、林は1943年の1月半ばに風邪をこじらせて脳内出血を発症します。その後は東京の自宅で療養していましたが悪化して2月4日に逝去しました。享年66歳。
林銑十郎内閣は4カ月程度で総辞職した、当時としては稀に見る短命内閣でしたが、その間に何の実績もなかったわけではありません。1937年4月には「奇跡の人」として有名な世界的偉人、ヘレン・ケラーが来日した際に歓迎晩餐会を開いています。
また、首相としての功績とは別ですが、彼はイスラム教に精通していました。イスラム教徒ではなかったものの、在日イスラム教徒のためにさまざまな施設を建てたり協会誌を発刊したりしています。
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林銑十郎は陸軍のエリートだが首相になって失敗
林銑十郎は昭和初期の陸軍のエリート軍人で、陸軍大臣や首相の座にも就いています。特に戦場での活躍ぶりは目覚ましく、後世の評価はともかく「越境将軍」としての名声の高さもかなりのものでした。
しかし首相になると悪名高い「食い逃げ解散」を断行して失敗。たった4カ月で退陣しました。そのめちゃくちゃな政治運営は、身内であるはずの陸軍からも見捨てられるほどのひどさで、政治家としては完全失格だったと言えるでしょう。