簡単でわかりやすい「林銑十郎」越境将軍と呼ばれた理由と悪名高い「食い逃げ解散」の理由を歴史好きライターが詳しく解説
陸軍大臣・林銑十郎
ここまで見てきた通り、林銑十郎が朝鮮軍の「越境」を行っても処罰されず、後で追認されたばかりか国民から称賛させるに至ったのは「運の良さ」ゆえでした。さらに林は、この朝鮮越境で得た名声を背景にして斎藤実・岡田啓介の内閣で陸軍大臣を務めます。
しかし彼の大臣就任の前後で、軍部では皇道派と統制派という二つの派閥が抗争しており、林もまたこの抗争とは無縁ではいられませんでした。以下ではそのあたりの経緯を説明します。
皇道派と統制派の抗争激化
林銑十郎は1932年4月に大将へ進級し、陸軍三長官の一つである教育総監兼軍事参議官に就任します。さらに1934年1月には齋藤内閣の陸軍大臣に就任し、その後の岡田内閣でも陸相を務めました。
ここで、林の周囲が不穏な空気に満ちてきます。彼の権力基盤は弱かったため、皇道派の親友である真崎甚三郎大将の協力を得てきたのですが、二人の関係は悪化していました。そこで林は、政策最高職員である陸軍省軍務局長のポストに、統制派の永田鉄山少将を起用します。
皇道派と統制派は、その主張の違いからかねてより対立しており、陸軍内でも抗争状態にありました。林が、世話になっていた真崎ではなく永田を起用したことで、両派の対立は激化します。
二・二六事件では運よく命拾い
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そして1935年7月には、林は盟友であり皇道派の首領である真崎甚三郎大将を更迭しました。この措置に皇道派が激怒し、同年8月12日に軍務局長・永田鉄山が白昼堂々、局長室で斬殺されるという相沢事件が発生します。
永田は林のブレーン的存在であり、気落ちした林は陸軍大臣のポストを川島義之に譲りました。そしてその後、暴走した皇道派の軍人による二・二六事件が発生し、首相の岡田啓介を始めとする閣僚たちが襲撃・惨殺されます。
この時、林はすでに陸軍大臣ではなくなっていたので運よくターゲットから外されました。ただ、真崎甚三郎の更迭に関与した渡辺錠太郎教育総監は、機関銃で撃たれた上に銃剣で切りつけられて亡くなっています。
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テロと混乱の時代の林銑十郎
林が総理大臣になったのは1937年のことでした。当時の日本政治は課題が山積しており、さらに陸軍は統制派と皇道派に分かれて派閥争いに明け暮れているという状況です。二・二六事件で皇道派の勢いは少し弱まったものの、実は彼らは林を首相にすることで、陸軍に有利な政策を進めようと目論んでいました。
以下を見ていくと分かりますが、林銑十郎が首相の座についたのはほとんど成り行きであり、二・二六事件で難を逃れたのと同様に、彼の「強運」のおかげもあったと言えるでしょう。
国の内外で問題だらけ
二・二六事件によって、国内政治は停滞します。まず、政党政治家たちは、首相になって陸軍に逆らえば軍人のテロで殺されるという恐怖心を抱くようになりました。1929年の浜口首相襲撃(のち死亡)、五・一五事件の犬養首相暗殺に二・二六事件と続いてきたので、こうした心理は当然のことです。
しかし陸軍を抑えて海軍をならしていかないと、軍部が暴走するのは目に見えています。また国内経済は外貨不足や円の暴落による輸入物資の高騰、インフレで混乱していました。
さらに外交も問題で、中国問題でソ連・アメリカ・イギリスとの関係もぎくしゃくしています。とにかく誰かがやらねばならないということで首相になったのがもと外務大臣の広田弘毅でした。
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林を首相にしようと目論む皇道派
しかし広田内閣もほぼ軍部の言いなりで、国内外の問題の収拾には至らないまま退陣します。また陸軍内では、林銑十郎を首相に担ぎ上げて陸軍の政策を推し進めようという動きが起きていました。
林を押し上げようとしたのは皇道派の軍人たちです。その中心となっていたは、あの「越境」の仕掛人でもあった石原莞爾らでした。彼らはここでも林をうまく使おうとしたわけです。
石原は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にする(操る)ことができる」と考えていました。林は元々「後入斎」と呼ばれるほど決断が遅く、無口で人の話をよく聞くように見えて、大胆な提案や助言には意外なほど乗る性格でした。それで「扱いやすい」と思われたのでしょう。
「流産」「辞退」で林が首相に
しかし当初は、別の人物を首相にしようという動きの方が活発でした。元老の西園寺公望は、広田内閣の後任として、陸軍を抑えられそうな実力者・宇垣一成を指名しますが、組閣がうまくいかず失敗。幻と消えた宇垣内閣は「流産内閣」と呼ばれます。
次の候補は平沼騏一郎ですが、彼も辞退。この結果を受けて、西園寺も、仕方なく陸軍の石原たちが推す林銑十郎を次の首相として奏薦しました。実際にはこの時、西園寺は次の「切り札」として近衛文麿を首相にすることも考えていたようですが、ここでは指名を控えています。こうして、林銑十郎は第33代首相に就任しました。
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