今回のテーマは「林銑十郎(はやしせんじゅうろう)」についてです。林は昭和初期の陸軍のエリート軍人で、大臣や首相も経験している人物。ただ、現在その評価は著しく低い。
実は、林は昭和の政治をかき乱した張本人と言っても過言ではない。満州事変では死刑でもおかしくない規則違反を行い、首相になると「食い逃げ解散」で国会をめちゃくちゃにした。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

石川県初の首相である林銑十郎

2023年現在で、石川県出身の首相は歴代で三人いますが、林銑十郎はその一人で、同県出身の最初の首相にあたります。

彼は1876年2月23日に現在の金沢市で生を受け、1894年7月に日清戦争が始まると四高補充科を中退して士官候補生となり、陸軍士官学校へ入校しました。林の後年の評判は最悪ですが、陸軍の軍人としては非常に優秀だったとされています。まず最初に、彼のエリート軍人としての道のりを見ていきましょう。

エリート軍人としての道のり

陸軍士官学校に入校した林銑十郎は、1896年11月26日に卒業。当時の官報には士官学校生の卒業成績が掲載されていましたが、第8期歩兵科だった林は206名中92番の成績でした。

そして彼は1897年6月28日に歩兵少尉に任官し、金沢城内に衛戍する歩兵第7聯隊附となります。1903年には陸軍大学校第17期生として45名中12番の成績で卒業しました。

ここから、林のエリート軍人としての道のりがスタートします。ちなみに彼は陸大卒業後に結婚し、妻との間に4男4女をもうけました。

「鬼大尉」から出世コースへ

1904年に日露戦争が始まると、金沢の第9師団が出征し、この時大尉だった林銑十郎は、第9師団の隷下にあたる歩兵第6旅団の副官として従軍します。そしてかの旅順攻囲戦に参加し、盤竜山の東砲台攻撃では、撤退命令を拒否して残兵70名を率いて占領するという快挙を成し遂げました。

この成果が認められた林は「鬼大尉」の異名で呼ばれるようになり、第3軍司令官だった乃木希典大将から個人感状を与えられています。

さらに1911年3月、守備方策の報告のために下士官一人だけをともなって60日間ぶっ通しの徒歩による朝鮮国境踏破を成し遂げました。その後は海外に留学して、昭和初年には陸軍大学校長・教育総監部本部長・近衛師団長と順調に出世コースを歩みます。

「越境将軍」ともてはやされた林銑十郎

ここまでで、林銑十郎が陸軍の軍人として戦場でも活躍し、順調にエリートコースを進んでいった経緯を説明しました。次に、そんな彼が「越境将軍」としてもてはやされるようになるまでの経緯を見ていきましょう。

彼の「越境」行為は重大なルール違反で、林自身も死刑に怯えていました。しかしそんな彼の違反行為は政府に追認され、昭和天皇に対してもごまかされた上に、国民からは称賛されたのです。

このあたりの事情を知ることで、林はとても幸運な人物であり、同時に当時の政治体制には非常にいい加減な「なあなあ」な部分があったことが分かるでしょう。

朝鮮軍司令官として

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1931年9月に満洲事変が勃発します。満州全土の面積はフランスとドイツを合わせた程度のもので、日本列島の二倍はありました。事変を画策した関東軍の石原莞爾たちは、これを一万五千人の兵で制圧しようとします。

しかし、相手は兵数二十万とも五十万ともいわれる張学良軍で、どうしても頭数が足りません。そこで石原は一計を案じ、満州で関東軍が軍事展開している間、本来の任務である居留民保護を「朝鮮軍」にゆだねようとします。

朝鮮軍とは、朝鮮半島に駐留していた日本陸軍のことです。当時、この朝鮮軍の司令官だったのがほかならぬ林銑十郎で、彼は関東軍が軍事展開している間の「穴埋め」を命じられたのでした。

おっかなびっくりの「越境」

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しかし、林率いる朝鮮軍が、朝鮮を「越境」して満州に向かうにはひとつ問題がありました。「穴埋め」自体は可能なのですが、それはいわゆる国外出兵にあたり、朝鮮軍の本来の任務ではありません。

関東軍からの要請とはいえ、天皇陛下の勅命なしに独断でそんな行動を起こせば、いわゆる統帥権干犯にあたり陸軍刑法で死刑または無期の重罪です。この時、林は日記でも「大命ヲ待ツコト無ク越境ヲ命ジタルハ恐懼に堪ヘサルモ」と書いています。

しかし、林はこの「越境」を断行しました。彼にとってもおっかなびっくりの行為です。これはもともと、朝鮮軍の参謀だった神田正種中佐が関東軍の参謀らと通じており、彼らの御膳立てに林が乗った形でした。

国民の絶賛と閣議の追認

朝鮮から中国への「越境」あるいは「国外出兵」により、林銑十郎はしばらくの間、食事も喉を通りませんでした。そもそも日本政府も満州事変については「不拡大」の方針を取っており、最初から「越境はするな」と朝鮮軍に釘を刺していたのです。

ところが、当時の首相・若槻礼次郎「やってしまったものは仕方がない」として林の越境行為を追認しました。予算支出も含めて閣議で事後承認されたのに加え、天皇に対しても「閣議が認めた以上は違法ではない」という結論が伝えられます。

当時の日本は、外国に対する弱腰の外交や慢性的な不況で鬱屈した状態になっており、国民世論も林の行為に対して熱狂。彼を「越境将軍」と呼んで持てはやしました。

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陸軍大臣・林銑十郎

ここまで見てきた通り、林銑十郎が朝鮮軍の「越境」を行っても処罰されず、後で追認されたばかりか国民から称賛させるに至ったのは「運の良さ」ゆえでした。さらに林は、この朝鮮越境で得た名声を背景にして斎藤実・岡田啓介の内閣で陸軍大臣を務めます。

しかし彼の大臣就任の前後で、軍部では皇道派と統制派という二つの派閥が抗争しており、林もまたこの抗争とは無縁ではいられませんでした。以下ではそのあたりの経緯を説明します。

皇道派と統制派の抗争激化

林銑十郎は1932年4月に大将へ進級し、陸軍三長官の一つである教育総監兼軍事参議官に就任します。さらに1934年1月には齋藤内閣の陸軍大臣に就任し、その後の岡田内閣でも陸相を務めました。

ここで、林の周囲が不穏な空気に満ちてきます。彼の権力基盤は弱かったため、皇道派の親友である真崎甚三郎大将の協力を得てきたのですが、二人の関係は悪化していました。そこで林は、政策最高職員である陸軍省軍務局長のポストに、統制派の永田鉄山少将を起用します。

皇道派と統制派は、その主張の違いからかねてより対立しており、陸軍内でも抗争状態にありました。林が、世話になっていた真崎ではなく永田を起用したことで、両派の対立は激化します。

二・二六事件では運よく命拾い

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そして1935年7月には、林は盟友であり皇道派の首領である真崎甚三郎大将を更迭しました。この措置に皇道派が激怒し、同年8月12日に軍務局長・永田鉄山が白昼堂々、局長室で斬殺されるという相沢事件が発生します。

永田は林のブレーン的存在であり、気落ちした林は陸軍大臣のポストを川島義之に譲りました。そしてその後、暴走した皇道派の軍人による二・二六事件が発生し、首相の岡田啓介を始めとする閣僚たちが襲撃・惨殺されます。

この時、林はすでに陸軍大臣ではなくなっていたので運よくターゲットから外されました。ただ、真崎甚三郎の更迭に関与した渡辺錠太郎教育総監は、機関銃で撃たれた上に銃剣で切りつけられて亡くなっています。

テロと混乱の時代の林銑十郎

林が総理大臣になったのは1937年のことでした。当時の日本政治は課題が山積しており、さらに陸軍は統制派と皇道派に分かれて派閥争いに明け暮れているという状況です。二・二六事件で皇道派の勢いは少し弱まったものの、実は彼らは林を首相にすることで、陸軍に有利な政策を進めようと目論んでいました。

以下を見ていくと分かりますが、林銑十郎が首相の座についたのはほとんど成り行きであり、二・二六事件で難を逃れたのと同様に、彼の「強運」のおかげもあったと言えるでしょう。

国の内外で問題だらけ

二・二六事件によって、国内政治は停滞します。まず、政党政治家たちは、首相になって陸軍に逆らえば軍人のテロで殺されるという恐怖心を抱くようになりました。1929年の浜口首相襲撃(のち死亡)、五・一五事件の犬養首相暗殺に二・二六事件と続いてきたので、こうした心理は当然のことです。

しかし陸軍を抑えて海軍をならしていかないと、軍部が暴走するのは目に見えています。また国内経済は外貨不足や円の暴落による輸入物資の高騰、インフレで混乱していました。

さらに外交も問題で、中国問題でソ連・アメリカ・イギリスとの関係もぎくしゃくしています。とにかく誰かがやらねばならないということで首相になったのがもと外務大臣の広田弘毅でした。

林を首相にしようと目論む皇道派

しかし広田内閣もほぼ軍部の言いなりで、国内外の問題の収拾には至らないまま退陣します。また陸軍内では、林銑十郎を首相に担ぎ上げて陸軍の政策を推し進めようという動きが起きていました。

林を押し上げようとしたのは皇道派の軍人たちです。その中心となっていたは、あの「越境」の仕掛人でもあった石原莞爾らでした。彼らはここでも林をうまく使おうとしたわけです。

石原は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にする(操る)ことができる」と考えていました。林は元々「後入斎」と呼ばれるほど決断が遅く、無口で人の話をよく聞くように見えて、大胆な提案や助言には意外なほど乗る性格でした。それで「扱いやすい」と思われたのでしょう。

「流産」「辞退」で林が首相に

しかし当初は、別の人物を首相にしようという動きの方が活発でした。元老の西園寺公望は、広田内閣の後任として、陸軍を抑えられそうな実力者・宇垣一成を指名しますが、組閣がうまくいかず失敗。幻と消えた宇垣内閣は「流産内閣」と呼ばれます。

次の候補は平沼騏一郎ですが、彼も辞退。この結果を受けて、西園寺も、仕方なく陸軍の石原たちが推す林銑十郎を次の首相として奏薦しました。実際にはこの時、西園寺は次の「切り札」として近衛文麿を首相にすることも考えていたようですが、ここでは指名を控えています。こうして、林銑十郎は第33代首相に就任しました。

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林銑十郎内閣はめちゃくちゃ

首相に就任した林銑十郎ですが、彼はあまりやる気がなかったようで「早く片付けて玄人に譲りたい」とこぼしていたそうです。しかも彼は、内閣議会の首相でありながら政党政治や政党政治家を憎んでいました。これは当時の多くの軍人に共通する意識でした。

また最初の組閣段階で、彼が陸軍の操り人形であることは世間にも見透かされており「ロボット首相」などと揶揄されています。そうした状況の中で、かの「食い逃げ解散」は断行されました。

組閣でさっそく大混乱

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さて1937年2月2日に第33代内閣総理大臣となった林は、さっそく石原莞爾を参謀として組閣を進めていきます。しかし林内閣はこの時点からすでに大混乱で、まず参謀であるはずの石原が、あまりの林の頼りなさに業を煮やし、絶縁状を叩きつけました。

陸軍からの支持が得られないと考えた林は、方針を180度転換して陸軍首脳部、平沼騏一郎、近衛文麿などに近い人物を積極的に大臣に起用してバランス人事を行います。ただ、政党からは閣僚を一人も採っていませんでした。彼は政党政治家を忌み嫌っていたのです。

ただ、前内閣が用意していた法案をそのまま処理する手続きの中で、他の政党との摩擦はほとんどありませんでした。

突然の「食い逃げ解散」

重要な法案はほとんど前内閣から持ち越されたものだったので、議会でもスムーズに通過します。法案通過に際しては、林は衆議院に対して平身低頭、非常に腰の低い態度だったため、陸軍による軍拡予算も不承不承ながら受け入れられたのでした。

しかし会期末日の3月31日、林は何の理由もなく議会を解散しました。法案を通過させるだけさせておいて、実際には政策を一切実行しないまま解散するのは食い逃げと同じだということで、「食い逃げ解散」と呼ばれます。

実は、林は前日の3月30日に、急に解散の意志を示していました。もちろん閣僚たちは反対しましたが、林は一人ずつ別室に呼んで解散を承知させる形で、意志を通したのです。

林銑十郎内閣が「めちゃくちゃ」だった理由

ここまでで、首相の座に就いた林銑十郎が「食い逃げ解散」を断行するまでの経緯を見てきました。しかしこの「食い逃げ解散」がいかに無意味でめちゃくちゃなものだったかを理解するには、ある程度の政治の仕組みについての知識が必要です。以下では、林がこの食い逃げ解散によって政治史に悪名を刻んだ理由などを解説します。

食い逃げ解散が「無意味」だった理由

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本来、議会の解散というのは、政府与党と野党の主張が対立した場合に、政府与党の側が解散を命じるものです。そして全国規模の総選挙を行い、解散前よりも議席を増やした党の主張を妥当だと見なすことになります。

つまり、与党と野党が提案するそれぞれの政策に対して、国民による信任投票で「白黒をつける」のが解散総選挙です。戦後になって多少政治の仕組みが変わっても、この原則的な部分は今も変わっていません。

当時、林内閣の出した政策および予算案はスムーズに議会を通過しています。いわば「食い逃げ解散」は、争う理由がないのにケンカを仕掛けたようなもので、そこには正当性も意味もありませんでした。

食い逃げ解散の勝敗は?

前述の通り、林内閣のやっていることに正当性がないのは明らかで、国民的な合意が得られないまま4月30日に総選挙が行われました。結果は民政党が179議席、政友会が175議席、社会大衆党が37議席を確保して既成政党の勢力はそのままでした。

与党はわずかに40名前後の議席を確保しますが、もともと少数与党だったため、勝ったのか負けたのかもよく分からない状態です。

また、野党議員たちも「食い逃げ解散」で負けてはメンツに関わるので、結束して林内閣に対抗していました。よって、議会で過半数を取れていない林内閣は、今後は一切の法案を成立させられないのは間違いありません。よってあとは総辞職するしか道はなく、大局的に見れば与党の惨敗だったと言えるでしょう。

\次のページで「林銑十郎はなぜ食い逃げ解散を断行したのか」を解説!/

林銑十郎はなぜ食い逃げ解散を断行したのか

なぜ林は「食い逃げ解散」を断行したのでしょうか。彼は「政党の連中に懲罰を与える」と述べ、「議会刷新」を名目としていたといいます。総選挙によって、軍部に有利な政党を作ろうと考えたのでしょう。

これには社会的背景があります。大正時代に企業家や財閥の力が増すと、政府は軍人よりも彼ら望む政策を優先するようになりました。また日露戦争による増税が国民経済を圧迫しており、「軍人は税金泥棒だ」という考え方が蔓延していたのです。

当時の軍人たちはこれによる被害者意識を持っており、政党政治に恨みを持っていました。「食い逃げ解散」はこうした恨みの産物で、林銑十郎は首相という立場からこの恨みを晴らそうとしたのでしょう。

林銑十郎の晩年と数少ない功績

内閣総辞職後、林は1943年の1月半ばに風邪をこじらせて脳内出血を発症します。その後は東京の自宅で療養していましたが悪化して2月4日に逝去しました。享年66歳。

林銑十郎内閣は4カ月程度で総辞職した、当時としては稀に見る短命内閣でしたが、その間に何の実績もなかったわけではありません。1937年4月には「奇跡の人」として有名な世界的偉人、ヘレン・ケラーが来日した際に歓迎晩餐会を開いています。

また、首相としての功績とは別ですが、彼はイスラム教に精通していました。イスラム教徒ではなかったものの、在日イスラム教徒のためにさまざまな施設を建てたり協会誌を発刊したりしています。

林銑十郎は陸軍のエリートだが首相になって失敗

林銑十郎は昭和初期の陸軍のエリート軍人で、陸軍大臣や首相の座にも就いています。特に戦場での活躍ぶりは目覚ましく、後世の評価はともかく「越境将軍」としての名声の高さもかなりのものでした。

しかし首相になると悪名高い「食い逃げ解散」を断行して失敗。たった4カ月で退陣しました。そのめちゃくちゃな政治運営は、身内であるはずの陸軍からも見捨てられるほどのひどさで、政治家としては完全失格だったと言えるでしょう。

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日本史

簡単でわかりやすい「林銑十郎」越境将軍と呼ばれた理由と悪名高い「食い逃げ解散」の理由を歴史好きライターが詳しく解説

今回のテーマは「林銑十郎(はやしせんじゅうろう)」についてです。林は昭和初期の陸軍のエリート軍人で、大臣や首相も経験している人物。ただ、現在その評価は著しく低い。
実は、林は昭和の政治をかき乱した張本人と言っても過言ではない。満州事変では死刑でもおかしくない規則違反を行い、首相になると「食い逃げ解散」で国会をめちゃくちゃにした。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

石川県初の首相である林銑十郎

2023年現在で、石川県出身の首相は歴代で三人いますが、林銑十郎はその一人で、同県出身の最初の首相にあたります。

彼は1876年2月23日に現在の金沢市で生を受け、1894年7月に日清戦争が始まると四高補充科を中退して士官候補生となり、陸軍士官学校へ入校しました。林の後年の評判は最悪ですが、陸軍の軍人としては非常に優秀だったとされています。まず最初に、彼のエリート軍人としての道のりを見ていきましょう。

エリート軍人としての道のり

陸軍士官学校に入校した林銑十郎は、1896年11月26日に卒業。当時の官報には士官学校生の卒業成績が掲載されていましたが、第8期歩兵科だった林は206名中92番の成績でした。

そして彼は1897年6月28日に歩兵少尉に任官し、金沢城内に衛戍する歩兵第7聯隊附となります。1903年には陸軍大学校第17期生として45名中12番の成績で卒業しました。

ここから、林のエリート軍人としての道のりがスタートします。ちなみに彼は陸大卒業後に結婚し、妻との間に4男4女をもうけました。

「鬼大尉」から出世コースへ

1904年に日露戦争が始まると、金沢の第9師団が出征し、この時大尉だった林銑十郎は、第9師団の隷下にあたる歩兵第6旅団の副官として従軍します。そしてかの旅順攻囲戦に参加し、盤竜山の東砲台攻撃では、撤退命令を拒否して残兵70名を率いて占領するという快挙を成し遂げました。

この成果が認められた林は「鬼大尉」の異名で呼ばれるようになり、第3軍司令官だった乃木希典大将から個人感状を与えられています。

さらに1911年3月、守備方策の報告のために下士官一人だけをともなって60日間ぶっ通しの徒歩による朝鮮国境踏破を成し遂げました。その後は海外に留学して、昭和初年には陸軍大学校長・教育総監部本部長・近衛師団長と順調に出世コースを歩みます。

「越境将軍」ともてはやされた林銑十郎

ここまでで、林銑十郎が陸軍の軍人として戦場でも活躍し、順調にエリートコースを進んでいった経緯を説明しました。次に、そんな彼が「越境将軍」としてもてはやされるようになるまでの経緯を見ていきましょう。

彼の「越境」行為は重大なルール違反で、林自身も死刑に怯えていました。しかしそんな彼の違反行為は政府に追認され、昭和天皇に対してもごまかされた上に、国民からは称賛されたのです。

このあたりの事情を知ることで、林はとても幸運な人物であり、同時に当時の政治体制には非常にいい加減な「なあなあ」な部分があったことが分かるでしょう。

朝鮮軍司令官として

image by iStockphoto

1931年9月に満洲事変が勃発します。満州全土の面積はフランスとドイツを合わせた程度のもので、日本列島の二倍はありました。事変を画策した関東軍の石原莞爾たちは、これを一万五千人の兵で制圧しようとします。

しかし、相手は兵数二十万とも五十万ともいわれる張学良軍で、どうしても頭数が足りません。そこで石原は一計を案じ、満州で関東軍が軍事展開している間、本来の任務である居留民保護を「朝鮮軍」にゆだねようとします。

朝鮮軍とは、朝鮮半島に駐留していた日本陸軍のことです。当時、この朝鮮軍の司令官だったのがほかならぬ林銑十郎で、彼は関東軍が軍事展開している間の「穴埋め」を命じられたのでした。

おっかなびっくりの「越境」

image by iStockphoto

しかし、林率いる朝鮮軍が、朝鮮を「越境」して満州に向かうにはひとつ問題がありました。「穴埋め」自体は可能なのですが、それはいわゆる国外出兵にあたり、朝鮮軍の本来の任務ではありません。

関東軍からの要請とはいえ、天皇陛下の勅命なしに独断でそんな行動を起こせば、いわゆる統帥権干犯にあたり陸軍刑法で死刑または無期の重罪です。この時、林は日記でも「大命ヲ待ツコト無ク越境ヲ命ジタルハ恐懼に堪ヘサルモ」と書いています。

しかし、林はこの「越境」を断行しました。彼にとってもおっかなびっくりの行為です。これはもともと、朝鮮軍の参謀だった神田正種中佐が関東軍の参謀らと通じており、彼らの御膳立てに林が乗った形でした。

国民の絶賛と閣議の追認

朝鮮から中国への「越境」あるいは「国外出兵」により、林銑十郎はしばらくの間、食事も喉を通りませんでした。そもそも日本政府も満州事変については「不拡大」の方針を取っており、最初から「越境はするな」と朝鮮軍に釘を刺していたのです。

ところが、当時の首相・若槻礼次郎「やってしまったものは仕方がない」として林の越境行為を追認しました。予算支出も含めて閣議で事後承認されたのに加え、天皇に対しても「閣議が認めた以上は違法ではない」という結論が伝えられます。

当時の日本は、外国に対する弱腰の外交や慢性的な不況で鬱屈した状態になっており、国民世論も林の行為に対して熱狂。彼を「越境将軍」と呼んで持てはやしました。

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