今回のテーマは戦前から戦中にかけて活躍した「近衛文麿」です。彼は家柄よし、見た目よし、頭もよしと三拍子揃った人物で、首相には二度指名され内閣を三度組閣している。「大物政治家」と言って差し支えないでしょう。
しかし彼は、日本が泥沼の戦争に足を踏み入れたそもそものきっかけを作った「負の大物」でもある。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

近衛文麿はどんな人?

まず最初に、近衛文麿(このえふみまろ)とはどのような人物なのかを見ていきましょう。特に注目に値するのは彼の家柄で、近衛家というのはもともと公家の中でも最高位にあたるものでした。それに加えて長身でスタイルがよく、頭も良かったのです。

五摂家筆頭の「近衛家」出身

近衛文麿は家柄・容姿・頭脳・人柄のどれをとっても突出した人物でした。家柄については、もともと近衛家というのが代々関白に任ぜられる家柄だったいわゆる「五摂家」のひとつで、その中でも最も格が高いものだったのです。

彼が生まれたのは1891(明治24)年。五摂家筆頭の近衛家の長男として生を受け、父親は貴族院議長も務めた公爵・近衛篤麿でした。

青年期の文麿は京都帝国大学に在学。大学時代にはマルクス主義者となる直前だった河上肇から指導を受け、哲学者の西田幾多郎にも関心を寄せて若干の関わりを持つなど勉学に励む秀才だったといいます。

政治の世界へ

そんな彼が政治と関わるようになったのは、京都大学在学中に世襲議員として貴族院の議員になったのが始まりでした。また、大学を卒業してからは内務省に在籍し、貴族院では立憲政友会の仲間と「憲法研究会」を設立して改革に取り組んでいます。

そして1933(昭和8)年には42歳で貴族院議長に就任。文麿の国民的人気が急速に高まっていったのはこの頃からで、次期首相候補の下馬評にも上るようになります。彼はいわゆる「聞き上手」で、周囲に多くの人材が集まり、国民的人気も抜群でした。

彼に期待が寄せられたのは、西園寺公望の後に旧公家からは有能な人材が出ていなかったという事情もあったようです。

弱冠45歳で首相に

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それでも、まだ40代前半という若さで首相になるなど普通は考えられません。しかし1936年、二・二六事件で当時の岡田啓介内閣が総辞職すると、元老である西園寺公望は近衛に首相をやるよう大命を下します。

ただ近衛はこの時、健康を理由に固辞。さらに翌年の1937年、軍人上がりの首相たちが次々に就任と退陣を繰り返した果てに、近衛は再度後継首班として指名を受けます。この時、彼は弱冠45歳でした。

名門である近衛家の出身で年若く、おまけに長身でハンサムな近衛が組閣するとあって、国民・政界・軍部・さらには左翼陣営までもが歓迎したといいます。

\次のページで「近衛文麿の第一次内閣の足跡」を解説!/

近衛文麿の第一次内閣の足跡

ここまでで、近衛文麿はどのような人物だったのか、そしてどのような流れで政治の世界に入っていったのかを解説しました。次に、弱冠45歳という若さで首相に就任した近衛が、盧溝橋事件から満州事変に至るまでどのような対応をしたのかを見ていきましょう。このあたりから、すでに近衛はいくつかのつまずきと失敗を重ねることになります。

盧溝橋事件への対応

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近衛が組閣してから1ヶ月ほど経った7月7日に盧溝橋事件が勃発しました。「北支事変」の始まりです(9月に「満州事変」と改称)。ここで、近衛内閣は最初は「不拡大」方針をとって、中国との戦いを拡大させないことにします。

しかしここで、近衛の優柔不断な性格が表れてきました。一度は不拡大の方針をとったはずなのに、杉山元陸相からの要請を受けて中国へ軍隊を派遣することに決めたのです。実はこの頃、現地では停戦協定が結ばれていました。

中国政府は、近衛の派兵方針に怒ります。ここで再び「不拡大」方針をとればよかったのですが、近衛は陸軍の対中強硬策にずるずると引っぱられる形になってしまいました。

悪名高き「国民政府を相手にせず」

この事変をきっかけに、日中戦争が始まります。早めに和平にこぎつけるという選択肢もあったのですが、近衛は陸軍に押されて1938(昭和13)年1月に「国民政府を相手にせず」と明言し、和平を拒絶する道を選びました。

和平が絶望的になったのは、陸軍の独走も大きな原因でした。一時はドイツ大使のトラウトマンを仲介にした和平交渉も試みられたのですが、陸軍が勝手に南京を占領したことで、これも潰れてしまったのです。

その後も、軍のさまざまな勢力が勝手に動いて功を競い、外相の広田広毅はそれを追認するだけで役に立ちませんでした。近衛は慌てて内閣改造を試みますが、軍に毅然とした態度を示せないまま退陣します。

第二次・第三次近衛文麿内閣の実績

ここまでで、近衛文麿が満州事変~日中戦争でどのような対応をとったのかを説明しました。彼は一応和平工作を考えていたのですが、陸軍の邪魔もあって頓挫し、事態をうまく処理できないまま退陣しています。

しかし近衛には再登板の意欲があり、再び首相に指名されるのをじりじりと待っていました。そして第二次近衛内閣では、西欧列強と同盟を結んでアメリカと対峙するという選択肢が採られます。

第二次近衛内閣の発足

内閣退陣後は枢密院議長の職にあった近衛ですが、第二次近衛内閣への期待は相変わらず高く、また彼自身も再登板に向けて新体制運動に取り組んでいました。そして三つの内閣が短期間で次々に退陣し、また近衛に出番が回ってきます。

近衛は1940(昭和15)年7月22日に内閣をスタートさせました。この時陸相に起用されたのが東條英機、外相に起用されたのが松岡洋右です。

第二次内閣では、まず日独伊三国同盟に調印して、さらに挙国一致の新体制である「大政翼賛会」を発足。これにより政党は全て解散しました。さらに翌年には日ソ中立条約を締結し、彼の構想する、日独伊ソの4国ブロックを築いてアメリカと対峙するという計画が実現に近づきます。

\次のページで「アメリカの怒りを買った第三次近衛内閣」を解説!/

アメリカの怒りを買った第三次近衛内閣

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ただ、近衛も本気でアメリカとの戦争を考えていたわけではなく、対米交渉を続けていました。資源や戦力の面で、アメリカと戦争をしても勝ち目はないと分かっていたからです。ハワイでルーズベルト大統領と首脳会談を行う構想もあったと言われています。

その後、近衛は対米交渉を進めるために一度総辞職し、1941(昭和16)年7月18日、対米強硬論者だった松岡洋右だけを交代した第三次内閣を発足させました。

ところが、今度は日本軍が南部仏印(フランス領インドシナ)に進駐したことでアメリカの怒りを買います。対日石油輸出の全面ストップ、在米日本資産の凍結などの措置が取られ、政局は取り返しのつかない事態になりました。

迷走の果ての総辞職

それでも近衛は、まだアメリカと中国との話し合いを模索していました。ところがここで、「内閣総辞職か開戦か」の二択を迫ってきたのが陸相・東條英機です。近衛は9月6日の御前会議で、「10月上旬になっても要求が貫徹されるめどが立たなければ、ただちに対米開戦を決意する」という内容で基本方針を定めていました。そこを東條につっつかれたのです。

この方針を決定した当時の近衛は、もはやどうすればいいか分からず迷走状態だったと言われています。10月16日に、近衛はついに内閣を投げ出しました。

彼は総辞職の直前、「政界を引退して僧侶になりたい」と漏らしていたそうです。

太平洋戦争時の近衛文麿の和平工作

ここまでで、三度も組閣した近衛文麿が、首相として事態を処理することができずに迷走し、あげく政権を投げ出してしまうまでの経緯を見てきました。しかし彼は、首相の椅子から下りたことでかえって自由になったのか、その後も和平工作の中心的存在となって活躍します。

彼はまず、あくまでも戦争を推し進めようとする東條英機内閣を倒すことを考えました。その一方で「近衛上奏文」として有名な文章を天皇に上奏しており、これが後に「責任逃れの陰謀論」と言われることになるのです。

和平工作へ

第三次近衛内閣が退陣し、その後を継いだ東條英機内閣によって太平洋戦争が始まります。権力の座から退いた近衛は、なぜかここで急に良識的な見方に立ち戻って終戦工作のために動き始めました。

東條英機は、開戦直後に日本が連戦連勝している間は良かったのですが、その後の戦局の悪化にともなって圧政を強いていきます。参謀総長などの役職を兼任し、「それは憲法違反だ、日本は負けっぱなしだ」と批判する人には弾圧を加えました。

しかし、やがてサイパン島が落ちて日本が空襲の脅威にさらされ、いよいよ日本の敗戦が現実味を帯びてきます。ここで「もう東條ではだめだ」という共通認識のもと、近衛が中心になって種々の和平工作が行われるようになりました。

東條倒閣と戦後処理

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「和平工作」と「東條倒閣」はワンセットでした。倒閣には元駐英大使だった吉田茂、陸軍皇道派、海軍大将の小林躋造らが動き、重臣の岡田啓介もこれに呼応。近衛文麿の秘書である細川護貞は、東條暗殺も計画していました。

ちなみに細川は、近衛がなぜ東條倒閣の時に目が覚めたように活躍できたのかについて、「痔」が原因だったと述べています。近衛は痔が悪い時は気力が全くなく、手術後は人が変わったようになったとか。

痔の手術がもっと早ければ、戦争も避けられたし、体調が回復したからこそ和平工作に勤しむこともできたのだろう、と細川は説明しています。こうして東條内閣は総辞職に追い込まれ、戦後処理の問題も視野に入ってきました。

近衛上奏文は責任逃れの陰謀論?

さて、近衛は1945(昭和20)年2月14日、国体維持のための早期和平を主張する「近江上奏文」を天皇に上奏します。そこには「大東亜戦争は共産主義者の陰謀によって仕組まれたものだ」と書かれていました。

近衛曰く「志那事変を長引かせて日本国内の混乱を招いたのも軍部内の共産主義者で、これらの一味を一掃すれば軍部の性格も変わり日本も救われるだろう」とのことでした。ちなみにこの上奏文を書かせたのは吉田茂で、このため吉田は逮捕されました。

上奏文は1948(昭和23)年に公開されましたが、当初から関心は持たれず、その後も長らく「被害妄想」「幼稚な陰謀史観」「責任逃れ」などと批判されています。

終戦から入閣へ

鈴木貫太郎内閣によって終戦となり、玉音放送が流れた1945(昭和20)年8月15日の二日後に内閣は総辞職しました。後任は初の皇族出身の首相である東久邇宮稔彦王で、ここで近衛は副総理格である無任所相として入閣します。

さすがにこの時の彼の入閣は風当たりが厳しいものでした。単なる名門出身で人脈が広いというだけで、何の功績もないどころか日本を泥沼の戦争に導いたのだから当然です。もはや、かつての人気は完全に失われていました。

それでも戦後処理では一定の役割を果たしており、国務大臣としてマッカーサーから憲法改正の検討を依頼されたりしています。もっともマッカーサーは昭和天皇と信頼関係を築いていたので、近衛の存在は不要でした。

\次のページで「近衛文麿の死とその後の評価」を解説!/

近衛文麿の死とその後の評価

ここまでで、日本が太平洋戦争に突入してからの近衛の動向などを見てきました。次は終戦後の話になりますが、占領軍から逮捕司令が下ると、近衛は自宅で青酸カリを飲んで自決しています。以下では、彼が自決した前後の経緯と、その後の歴史的評価について見ていきましょう。

逮捕される直前に自決

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近衛文麿に、占領軍から逮捕指令が発せられたのは12月6日のことです。その出頭期限である12月16日の未明、近衛は自宅で青酸カリを飲み服毒自殺します。享年54歳。

遺書には「僕は志那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、いわゆる戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受けることは耐え難い事である」と書かれていました。

ちなみに、東條英機も9月11日、戦犯として逮捕される直前にピストル自殺を図りますが失敗に終わっています。武人でありながら自決に失敗という醜態を晒した東條に比して、五摂家筆頭の貴公子でありながら見事に自決を遂げた近衛の方が、ある意味で世間からは高く評価されました。

死後の評価

東條英機と比べて「潔く自決した悲劇の宰相」というイメージが強いためか、近衛文麿の評価は戦後もあまり悪くありませんでした。しかし、昭和期末に昭和天皇が近衛のことを酷評していることが明らかになり、これがきっかけで彼への評価は大きく変わりました。

現在では、「国民政府を相手にせず」の宣言で日本の国際的な立ち位置を決定的に悪くして日中戦争の泥沼に陥り、国民の生活を窮乏に追い込んで、陸軍の暴走を止めることもできなかった無能の首相として昭和の政治史に名を残しています。

思慮深いように見えて行動が軽率、しかしあとになって必ず後悔する「お公家様」というのが、多くの評者の間での共通した評価です。

「近衛文麿」は日本が戦争に至る流れのきっかけを作った元首相

近衛文麿は戦前~戦中にかけての日本の元首相です。満州事変への対応に失敗して日中戦争に足を踏み入れ、その後も陸軍の暴走を抑えられず、またアメリカとの関係も修復できないまま内閣を二度投げ出しました。戦後は戦犯とされ、逮捕直前に服毒自殺しています。

彼は公家の中でも最高位の近衛家の出身で、名門望族・頭脳明晰・容姿端麗と三拍子揃っていました。期待も高かったのですが、現在は日本の政治史に悪名を刻んでいると言ってもいいでしょう。

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日本史

簡単でわかりやすい「近衛文麿」首相になった経緯や政策の失敗・その後の評価を歴史好きライターが詳しく解説

今回のテーマは戦前から戦中にかけて活躍した「近衛文麿」です。彼は家柄よし、見た目よし、頭もよしと三拍子揃った人物で、首相には二度指名され内閣を三度組閣している。「大物政治家」と言って差し支えないでしょう。
しかし彼は、日本が泥沼の戦争に足を踏み入れたそもそものきっかけを作った「負の大物」でもある。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

近衛文麿はどんな人?

まず最初に、近衛文麿(このえふみまろ)とはどのような人物なのかを見ていきましょう。特に注目に値するのは彼の家柄で、近衛家というのはもともと公家の中でも最高位にあたるものでした。それに加えて長身でスタイルがよく、頭も良かったのです。

五摂家筆頭の「近衛家」出身

近衛文麿は家柄・容姿・頭脳・人柄のどれをとっても突出した人物でした。家柄については、もともと近衛家というのが代々関白に任ぜられる家柄だったいわゆる「五摂家」のひとつで、その中でも最も格が高いものだったのです。

彼が生まれたのは1891(明治24)年。五摂家筆頭の近衛家の長男として生を受け、父親は貴族院議長も務めた公爵・近衛篤麿でした。

青年期の文麿は京都帝国大学に在学。大学時代にはマルクス主義者となる直前だった河上肇から指導を受け、哲学者の西田幾多郎にも関心を寄せて若干の関わりを持つなど勉学に励む秀才だったといいます。

政治の世界へ

そんな彼が政治と関わるようになったのは、京都大学在学中に世襲議員として貴族院の議員になったのが始まりでした。また、大学を卒業してからは内務省に在籍し、貴族院では立憲政友会の仲間と「憲法研究会」を設立して改革に取り組んでいます。

そして1933(昭和8)年には42歳で貴族院議長に就任。文麿の国民的人気が急速に高まっていったのはこの頃からで、次期首相候補の下馬評にも上るようになります。彼はいわゆる「聞き上手」で、周囲に多くの人材が集まり、国民的人気も抜群でした。

彼に期待が寄せられたのは、西園寺公望の後に旧公家からは有能な人材が出ていなかったという事情もあったようです。

弱冠45歳で首相に

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それでも、まだ40代前半という若さで首相になるなど普通は考えられません。しかし1936年、二・二六事件で当時の岡田啓介内閣が総辞職すると、元老である西園寺公望は近衛に首相をやるよう大命を下します。

ただ近衛はこの時、健康を理由に固辞。さらに翌年の1937年、軍人上がりの首相たちが次々に就任と退陣を繰り返した果てに、近衛は再度後継首班として指名を受けます。この時、彼は弱冠45歳でした。

名門である近衛家の出身で年若く、おまけに長身でハンサムな近衛が組閣するとあって、国民・政界・軍部・さらには左翼陣営までもが歓迎したといいます。

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