簡単でわかりやすい「山縣有朋」出自や軍のトップになれた理由・内閣総理大臣になってからの業績も歴史好きライターが詳しく解説
日本初の「総選挙」「国会」を成功
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第一次山縣内閣の成立は1889年末の12月24日で、第一回(つまり日本史上初)の総選挙が差し迫っているタイミングでした。山縣としてはこれを成功させて、日本が近代化を成し遂げたさまを西欧諸国に見せつけたいところだったと言えます。しかし、山縣の嫌悪する反政府系の政党・政派(今で言えば野党)も勢いがあり、総選挙の結果、300議席中174議席を反政府系が占めることになりました。
こうして、帝国議会は第一回目からさっそく紛糾します。山縣は首相として、制度確立・殖産興業・軍備強化が喫緊の課題であることを訴えますが予算審議は難航。政府は当初、解散することも考えていましたが、第一回目の議会からいきなり解散では西欧諸国に格好がつきません。最終的には何とか議会を通過しました。
しかし審議の激しさに嫌気がさし、山縣は国会の終了直後に政権を投げ出してしまいます。
第二次山縣内閣成立から退陣まで
第二次山縣内閣が成立したのは、第一次内閣を投げ出してから8年後のことでした。
この他、山縣内閣は、後々まで影響を与えたいくつかの法律やルールを成立させています。例えば文官任用令を改正して、政党政治家が勅任の文官になれないようにしました。また1900年5月には陸軍省・海軍省官制を改正し、軍部大臣になれるのは現役の大将か中将に限られるというルールを定めます。後に、軍人が政治を台無しにするきっかけになった悪名高い「軍部大臣現役武官制」です。
さらに、日清戦争後に起こった農民運動や労働運動に対抗するため、1900年3月に治安警察法(のちに制定された治安維持法とは別)を公布。その年の10月に再び退陣しました。
「元老中の元老」として君臨した山縣有朋
山縣は、その後も「黒幕」「元老」として大正11年まで政界に君臨しました。口うるさくて取っつきにくい人柄で、大正天皇からも煙たがられ、民衆の評判も最悪。「宮中某重大事件」では評価を地に落とし、葬儀も寂しいものでした。
そんな背景もあり悪役扱いされがちな山縣ですが、宰相としての功績はかなりのものです。なんだかんだ言っても、「元老の中の元老」という異名で呼ばれているのはそれなりの理由があると言えるでしょう。