今回は明治時代の超大物・山縣有朋(やまがたありとも)がテーマです。三代目の内閣総理大臣も務めた人物ですが、長らく「悪役」のイメージを負わされ続けてきた人でもある。
ただ最近はその評価も見直されており、山縣は日本の近代日本の基礎となる部分を確立したのに加えて、当時の国際社会での日本の評価を引き上げた極めて優秀な人物だったと言われている。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

明治維新に関わる前の山縣有朋

まず最初に、明治政府の重鎮となる前の山縣有朋について見ていきましょう。彼は長州藩出身ですが、武士としての位はとても低い家柄でした。こうした点も、彼を倒幕や明治維新へと駆り立てた原因となったようです。

下級武士の家系の出身

まず、山縣有朋という人物を説明する上で欠かせないのが「身分」です。江戸時代の武士には石高に基づくランク付けがありました。例えば、20石程度だと下級武士としてみなされたと言います。

しかし、下級武士にもさらに下がいました。まず「足軽」がそうで、さらにその下が「中間」と呼ばれる武家屋敷の使用人です。こうした人も一応、分類上は武士ということになります。

山縣有朋は、このような「中間」層の出身でした。厳密に言えば蔵元付中間組という層にあたります。後に原敬が、山縣のことを「あいつは足軽だから」と揶揄したという逸話がありますが(ちなみに原敬は名門出身)、本当は山縣は足軽どころかそれ以下の身分だったのです。

山縣を明治維新に駆り立てた逸話

こんなエピソードもあります。彼が少年の頃、雨の中で上士とすれ違った際、上士の袴に泥水がはねたため泥の中で手をついて土下座をさせられたというのです。これが本当かどうかは不明ですが、いずれにせよ、武士の中でも最下層に近い身分だったことが、彼を倒幕と明治維新に駆り立てた原因の一つになったのは間違いないでしょう。

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松下村塾から奇兵隊へ

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前項までで、山縣有朋の出自について解説しました。彼の生まれ育った家柄と身分差別が、その後の明治維新に向かう原動力になったのは間違いないでしょう。

次に、彼が「軍人」としての経験を積んで、幕末の志士たちと交流していった流れを見ていきましょう。実は山縣もあの松下村塾の出身で、そこから高杉晋作および奇兵隊との縁ができていきます。そして数々の戦争に身を投じていった経験が、後に「軍人政治家」として出世し君臨していく足がかりになったのです。

山縣有朋が軍のトップに上り詰めるまで

山縣がのし上がっていくきっかけになったのは、かの松下村塾で吉田松陰の門下に入ったことでした。彼はもともと1838(天保9)年、長門国萩城下川島庄の生まれですが、21歳の時には藩から京都へ派遣されて尊王攘夷思想の洗礼を受けています。そして藩に帰ってから久坂玄瑞の紹介で松下村塾へ入門したのです。

彼が塾生だった期間はごく短いものでしたが、吉田松陰の影響は強く、生涯に渡って師と仰いでいたといいます。

こうした縁もあって、山縣は志士たちと行動を共にするようになりました。さらに奇兵隊の幹部にもなり、軍勢を率いて倒幕運動にあたります。1864(元治元)年と1866(慶応2)年の長州戦争、さらには戊辰戦争でも活躍しました。

大村益次郎の死から兵部大輔へ

さて、1868年に明治維新が達成され、日本で新たな軍政を確立しようとしたのは大村益次郎です。彼も幕末期に長州藩に出仕し、長州征伐と戊辰戦争で指揮を執った優秀な軍人政治家でした。現在の防衛相にあたる兵部省の大輔(次官)だった大村はしかし、反対派に暗殺されてしまいます。

その後は前原一誠が継いだものの、彼は一年足らずで辞職。こうしたこともあって、いわば押し出されるような形で、山縣は軍のトップである兵部大輔の地位を手に入れたのでした。

その後、彼は陸軍中将・そして近衛都督へととんとん拍子に出世していき、日本の新たな陸軍を創設する中心的役割を負っていくことになるのです。

徴兵制の施行

彼は、大村益次郎が果たせなかった帝国陸軍建設を実行し、まず徴兵制を施行しました。彼はもともと奇兵隊での経験や、西欧諸国の兵制を視察した際の知見を備えた人物でしたが、徴兵制の根底にも彼なりの強力な「平等思想」があったと言えます。

山縣は旧武士層を「抗顔座食」の士と批判したこともあり、武士の身分的特権は打破すべきであり、そうすることで不当な身分差別をなくすことにつながると考えていたのです。徴兵制はそうした思想・信念の現実化したものでもありました。

彼のこうした信念は珍しいものではなく、当時の明治維新の功労者たちのうち、下級武士出身の者たちは皆、同じ考えを持っていたといいます。

「山城屋事件」の発生

彼はとんとん拍子で出世したものの、完全に順風満帆だったわけではなく、1872年には山城屋事件というスキャンダルが起きています。これは、陸軍省の御用商人だった山城屋和助が山縣から陸軍省官金の不正融資を受けたという疑惑を江藤新平らに追及されたもので、山城屋は自殺し山縣は辞職に追い込まれました。

しかし驚くべきことに、山縣はその後たった2カ月で初代陸軍卿として復職しています。これは、明治政府の人間たちが「山縣抜きでは日本陸軍の創設が遅れてしまう」と考えたからでした。山城屋事件は、かえって山縣有朋という人物に対する信頼感を際立たせる結果になったと言えるでしょう。

山縣有朋は「民衆の敵」か?

ここまでで、山縣有朋が松下村塾の門下生から奇兵隊の幹部となり、そこからの「軍人」としてのキャリアが後の「軍人政治家」としての出世につながっていった経緯を解説しました。

明治政府の軍部のトップとなった山縣は、強い信念とこだわりをもって活躍します。しかしその言動には、後に民衆からの評判を落とすエリート主義や軍閥政治第一主義などの側面もありました。以下では、山縣のそうした側面とそれに対する評価について解説します。

山縣が愛した「国民」像

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山縣有朋は、しばしば「民衆の敵」として語られてきました。これについては半分正解、半分間違いと言えます。彼が民衆から不人気で評判も悪かったのは確かですが、一方で山縣は民衆を愛する人間でもありました。特に、国家や政府のために尽くし、戦争の際には命を投げ出して戦うような民衆について、彼は「愛すべき国民」と考えていたと言えます。

一方でその逆、反政府の人々や政府の批判者は、山縣にとって唾棄すべき存在でした。

特に、政党政治の実現をめざす自由民権運動は、彼にとって相容れないものだったと言えます。日本は、主に長州・薩摩の一部のエリートが実権を握る藩閥政治の方が適しているという考えが彼の中にはありました。

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竹橋騒動の発生

そうした、山縣のいわば「民権運動アレルギー」がもっともよく表れていたのが、竹橋騒動です。これは近衛兵たちの反乱事件で、西南戦争時の近衛砲兵隊に対する論功行賞の遅れと給与の引き下げが原因で発生したものですが、山縣はこの騒動の背後には、軍人たちへの民権論の浸透があるとにらんでいました。

そこで山縣が中心となって作られた軍人勅諭では、「兵力は国家を保護し国権を維持するのが役割であり、兵士は世論に惑わされず、政治にかかわらず、ただ一途に自分の本分の忠節を守れ。義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽いと思え(意訳)」と書き記しています。

山縣有朋の「軍事・政治」分離思想

ここまでで、山縣有朋がどのように明治政府の軍勢トップまで上り詰めたのか、そしてその思想信条はどのようなものだったのかを見てきました。次に、そんな「軍人政治家」の山縣はどんな施策を行ったのかを解説します。

最も特徴的で、後年まで大きく影響したのは、彼の「軍事・政治」の分離思想です。前項の竹橋騒動でも垣間見えましたが、彼は軍人は政治に関わるべきでなく、政治家は軍事に関わるべきでないと考えていました。ではその考えに基づき、彼はどのように動いたのでしょうか。

参謀本部の設置

彼はもともと軍事と政治を完全に分かつことを是としていました。特に、「政治が軍事に介入する」のを防ぐことについては徹底していたと言えます。

彼は、1878年に参謀本部を設置しました。これは政治が軍事に介入することを防ぐためで、参謀本部長は軍事に関して天皇をサポートする最高機関であり、陸軍卿や政府からも独立した存在として位置づけたのです。

独立された軍令権は、後に大日本帝国憲法第11条で、政府も議会も干与(関与)できない統帥大権として規定されました。こうして「政治家の軍事への介入」は厳しく戒められます。

「軍人」山縣有朋と政治との関わりは?

反対に「軍人が政治に介入する」ことについては、不徹底だったと言えるでしょう。山縣自身はけっこう政治に関わっています。彼は1882年に参事院議長になったのを皮切りに、その後も数年おきに行政上の重要ポストに就きました。それと同時に、現役の軍人として軍部の要職にもあったのです。

もちろん、軍人による政治への介入を放置していたわけではありません。1881年には、海陸軍刑律の廃止と陸軍刑法・海軍刑法の制定にあわせて、軍人が政治に関する事柄を申し立てたり・講談・論説・広告してはならず、これを破れば禁錮刑に処する、というルールを定めています。

しかし前述の通り、山縣のやり方は、こうしたルールの根底にある思想とは矛盾していました。その後も、軍人が文官の要職に就くというやり方は桂太郎にも引き継がれ、日本の政治で軍人政治家が続出したのはよく知られている通りです。

山縣有朋内閣の業績

ここまでで、明治政府における軍政のトップとしての山縣有朋の思想信条や業績について見てきました。しかし山縣についてよく理解するには、軍人としてだけではなく、政治家としての顔もよく知っておく必要があります。よって、次は彼の内閣総理大臣としての業績も見ていきましょう。彼は伊藤博文・黒田清隆に続く第三代内閣総理大臣も務めています。

地方自治制度の整備

彼は1889年に首相に就任しましたが(第一次山縣内閣)、その直後に行った最大の仕事の一つが「地方自治制度」の確立でした。

当時は江戸時代の地方行政が引き継がれており、国土はバラバラの状態でした。江戸時代の国土のうち四分の一は天領・旗本領・寺社領だった上に各藩の領地も散在しており、責任の所在も不明な状態で行政が行われているのが実情だったのです。

これを少しずつ整理して都道府県と市町村、それに「郡」に分類し、それぞれに近代的な議会を設けさせたのは山縣の業績だと言えるでしょう。

日本政治史上最大の派閥を形成

山縣有朋の派閥、すなわち「山縣閥」日本政治史上最大規模の派閥でした。陸軍内の派閥からスタートして、その勢力は政界・官界・学界はもちろん、枢密院・貴族院・司法省にまで及んでいます。これは後年の吉田茂や田中角栄、竹下登の派閥をも遥かに凌駕する規模でした。

なぜ山縣閥がこれほどの規模になったのかは、本人の性格や人の使い方に理由がありました。山縣は、いわゆる「適材適所」で人を使うのが上手く、仕事ができないからと言って切り捨てる性格ではなかったのです。

これと正反対なのが伊藤博文で、伊藤は自分の才能に自信があったことから「人を上手に使う」という発想がそもそもありませんでした。無能な人はすぐに切り捨てる性格だったのです。よって対照的に「伊藤閥」は形成されませんでした。

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日本初の「総選挙」「国会」を成功

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第一次山縣内閣の成立は1889年末の12月24日で、第一回(つまり日本史上初)の総選挙が差し迫っているタイミングでした。山縣としてはこれを成功させて、日本が近代化を成し遂げたさまを西欧諸国に見せつけたいところだったと言えます。しかし、山縣の嫌悪する反政府系の政党・政派(今で言えば野党)も勢いがあり、総選挙の結果、300議席中174議席を反政府系が占めることになりました。

こうして、帝国議会は第一回目からさっそく紛糾します。山縣は首相として、制度確立・殖産興業・軍備強化が喫緊の課題であることを訴えますが予算審議は難航。政府は当初、解散することも考えていましたが、第一回目の議会からいきなり解散では西欧諸国に格好がつきません。最終的には何とか議会を通過しました。

しかし審議の激しさに嫌気がさし、山縣は国会の終了直後に政権を投げ出してしまいます。

第二次山縣内閣成立から退陣まで

第二次山縣内閣が成立したのは、第一次内閣を投げ出してから8年後のことでした。

この他、山縣内閣は、後々まで影響を与えたいくつかの法律やルールを成立させています。例えば文官任用令を改正して、政党政治家が勅任の文官になれないようにしました。また1900年5月には陸軍省・海軍省官制を改正し、軍部大臣になれるのは現役の大将か中将に限られるというルールを定めます。後に、軍人が政治を台無しにするきっかけになった悪名高い「軍部大臣現役武官制」です。

さらに、日清戦争後に起こった農民運動や労働運動に対抗するため、1900年3月に治安警察法(のちに制定された治安維持法とは別)を公布。その年の10月に再び退陣しました。

「元老中の元老」として君臨した山縣有朋

山縣は、その後も「黒幕」「元老」として大正11年まで政界に君臨しました。口うるさくて取っつきにくい人柄で、大正天皇からも煙たがられ、民衆の評判も最悪。「宮中某重大事件」では評価を地に落とし、葬儀も寂しいものでした。

そんな背景もあり悪役扱いされがちな山縣ですが、宰相としての功績はかなりのものです。なんだかんだ言っても、「元老の中の元老」という異名で呼ばれているのはそれなりの理由があると言えるでしょう。

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日本史

簡単でわかりやすい「山縣有朋」出自や軍のトップになれた理由・内閣総理大臣になってからの業績も歴史好きライターが詳しく解説

今回は明治時代の超大物・山縣有朋(やまがたありとも)がテーマです。三代目の内閣総理大臣も務めた人物ですが、長らく「悪役」のイメージを負わされ続けてきた人でもある。
ただ最近はその評価も見直されており、山縣は日本の近代日本の基礎となる部分を確立したのに加えて、当時の国際社会での日本の評価を引き上げた極めて優秀な人物だったと言われている。日本の近現代史で論文を書いたこともあるというライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

明治維新に関わる前の山縣有朋

まず最初に、明治政府の重鎮となる前の山縣有朋について見ていきましょう。彼は長州藩出身ですが、武士としての位はとても低い家柄でした。こうした点も、彼を倒幕や明治維新へと駆り立てた原因となったようです。

下級武士の家系の出身

まず、山縣有朋という人物を説明する上で欠かせないのが「身分」です。江戸時代の武士には石高に基づくランク付けがありました。例えば、20石程度だと下級武士としてみなされたと言います。

しかし、下級武士にもさらに下がいました。まず「足軽」がそうで、さらにその下が「中間」と呼ばれる武家屋敷の使用人です。こうした人も一応、分類上は武士ということになります。

山縣有朋は、このような「中間」層の出身でした。厳密に言えば蔵元付中間組という層にあたります。後に原敬が、山縣のことを「あいつは足軽だから」と揶揄したという逸話がありますが(ちなみに原敬は名門出身)、本当は山縣は足軽どころかそれ以下の身分だったのです。

山縣を明治維新に駆り立てた逸話

こんなエピソードもあります。彼が少年の頃、雨の中で上士とすれ違った際、上士の袴に泥水がはねたため泥の中で手をついて土下座をさせられたというのです。これが本当かどうかは不明ですが、いずれにせよ、武士の中でも最下層に近い身分だったことが、彼を倒幕と明治維新に駆り立てた原因の一つになったのは間違いないでしょう。

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