今回のテーマは「紫雲丸事故」についてです。1955(昭和30)年5月11日に瀬戸内海で起きた船舶の衝突・沈没事故で、子供を含む168名が亡くなっている。「国鉄五大事故」の一つとしても有名です。
この紫雲丸事故は、前年に発生した洞爺丸事故とあわせて社会に衝撃を与え、瀬戸大橋や明石海峡大橋建設の機運を高めるきっかけにもなった。近代日本の事故・災害史に詳しいライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

紫雲丸事故の概要

まず最初に、紫雲丸事故の概要を見ていきましょう。この事故が発生したのは1955(昭和30)年5月11日の瀬戸内海で、岡山県の宇野港と香川県高松市を結んでいた宇高航路で、紫雲丸と第三宇高丸の二隻の船舶が衝突したというものです。

事故が起きた当時の「宇高航路」

事故が起きた1955(昭和30)年5月11日の早朝、現場となった瀬戸内海は深い霧に包まれていました。瀬戸内海は島が点在することから、陸地に囲まれている箇所に湿った空気がたまると海霧が発生しやすいのです。

午前5時30分、高松地方気象台は、国鉄宇高(うたか)航路に対して、視程50m以下の濃霧が発生するという鉄道気象通報を発表しています。宇高航路は、岡山県玉野市の「宇」野港と、香川県「高」松市を結んでいた航路です。

この、霧深い宇高航路で紫雲丸事故は発生しました。事故を起こすことになる連絡船の「紫雲丸」と「第三宇高丸」は、レーダーやジャイロコンパス、無線電話など、当時としては最新式である航海計器を装備していました。

二隻の船舶が衝突

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二隻が衝突したのは、午前6時56分のことです。紫雲丸は、衝突する16分前の午前6時40分に高松を出発して岡山県宇野に向かっていました。対する第三宇高丸は、午前6時10分に宇野を出航して高松に向かっているという状況でした。

衝突は、紫雲丸の右舷船尾に、第三宇高丸の船首が前方から約70度の角度で突っ込む形で発生しました。本来ならうまくすれ違うべきところで、紫雲丸がいきなり左折してしまったのです。

第三宇高丸から見れば、こちらに向かってきていた紫雲丸が、いきなり曲がって目の前を横切ってきた形でした。その時、紫雲丸は約10ノットで、そして第三宇高丸は約12.5ノットの全速力で航行していたといいます。

小学生を含む168名が死亡

船尾に突っ込まれた紫雲丸は、そのまま浸水し沈没。当時は781名という大人数が乗船しており、うち168名が亡くなるという大惨事になりました。負傷者も、船客107名と乗組員15名あわせて122名に及んでいます。

この事故で最も衝撃的かつ悲惨だったのは、三桁に及ぶ死者数もさることながら、その多くが女性・子供・修学旅行に参加していた生徒たちだったという点でしょう。

先述した168名という死者数のうち2名は紫雲丸の船長と乗組員で、一般の乗客は58名、教師や父母を含む修学旅行の関係者は108名でした。さらに言えばこの108名のうち81名が女の子だったのです。

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第三宇高丸の救助活動

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衝突した第三宇高丸も、紫雲丸を放置していたわけではありません。衝突直後、第三宇高丸の乗組員は「もう紫雲丸は沈没するだろう」と予想していました。そこで、紫雲丸への浸水を極力防ぐために船体を押し続けたり、乗客の救助にもあたったりしています。

ちなみに第三宇高丸の方は船首が破損した程度で、致命的な損傷はありませんでした。

紫雲丸は、衝突からわずか6分程度の午前7時2分に海上からその姿を消しました。その数分の間に、紫雲丸の乗務員たちは沈没を防ごうと必死に作業を行っていましたが、ついに左舷に横転し沈没。この時、紫雲丸の船長は「船長の最後退船」の伝統に従って紫雲丸と運命を共にしています。

事故が起きた理由

この紫雲丸の沈没事故は、社会に大きなショックを与えました。子供の犠牲が多かったことも大きな理由ですが、当時としては最新式の航海機器だった「レーダー」を装備していたにも関わらずこのような惨事が起きたのも衝撃的でした。この事故はなぜ、どのような経緯で起きたのか。そして責任は誰にあるのか。海難審判による判断は注目を集めました。

海難審判による判断は?

当時の海難審判理事所は、事故が発生するとすぐさま職員を高松へ派遣し、第三宇高丸の船体検査や、同船の船長をはじめとする5名の乗組員からの事情聴取などを行いました。

そうして事故からひと月が経った6月11日に審判がスタート。結論を先に言えば、「紫雲丸の船長と第三宇高丸の船長の過失が事故発生の原因である」という裁決に達しています。

この事故の最大の謎は、衝突直前、なぜ紫雲丸は突然左に反転したのかという点でした。しかしこれは船長が亡くなっているので確かめようがなく、さしあたりその直前にレーダーで第三宇高丸の存在が確認されたので、これを避けようとしたのではないかと見られています。

事故が起きた五つの要因

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ただ、紫雲丸が左に曲がった理由は不明ではあるものの、事故が起きた要因ははっきりしていました。

まず、紫雲丸が出航直後に100メートルしか進んでいないのに突然北西に進路変更したこと、次に二隻の船のスピード違反、それから亡くなった紫雲丸の船長が濃霧の中で目視による注意を怠ったこと、そして紫雲丸が衝突直前にいきなりエンジンストップしたこと、最後に衝突直前の同船の突然の左折、の五つです。

こうした点から見ても、二隻の船の船長の責任は明らかでした。また、事故から8年が経った1963(昭和38)年3月19日には高松高等裁判所で刑事裁判も行われ、紫雲丸の航海士と第三宇高丸の船長に有罪判決が出ています。

事故史上における「紫雲丸事故」

ここまでで、紫雲丸事故が起きた経緯と、その後の海難審判について解説しました。次に、紫雲丸事故は日本の事故・災害史上でどのように位置づけられるのかを見ていきましょう。

この事故の前年には青函連絡船・洞爺丸が沈没し千人を超える死者が出ています。続発する海難事故が世間に与えた衝撃と、当時頻発していた鉄道事故などとの繋がりを抜きにして、紫雲丸事故を語ることはできません。

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多かった戦後の事故死者数

実は、終戦直後の1945(昭和20)年前後から高度成長期にかけての時期は、日本史上でもとりわけ船舶・鉄道での事故死者の多さが際立っています。紫雲丸事故もその一つに位置付けられるでしょう。

当時の船舶・鉄道は国鉄によって管理されていたことから、特に被害が大きかった洞爺丸事故・紫雲丸事故、そして鉄道事故の桜木町火災・三河島事故・鶴見事故を合わせて国鉄五大事故と呼ぶこともあります。

他にも、終戦直後に起きた八高線の正面衝突事故や同線の脱線事故でも死者数が三桁にのぼっており、これは戦後の復興にともなう旅客・物資の輸送量の増加に、国鉄の安全管理体制や人員が追い付いていなかったという事情もありました。

洞爺丸に代表される海難事故

戦後の海難事故として有名な洞爺丸事故は、当時日本列島で猛威を振るっていた台風15号の影響で起きたものです。

最初は悪天候のため出航をストップしていた連絡船・洞爺丸は、台風が遠のいたという勘違いから出航し、函館湾内で波浪と強風に襲われ浸水・座礁します。やがて波浪・高波・強風によって船体が横倒しになった洞爺丸は転覆・沈没に至りました。

ちなみにこの台風15号によって周辺の他の船舶も少なからぬ影響を受けたほか、北海道岩内郡岩内町では大規模な火災が発生し(岩内大火)、3,298戸が焼失しています。紫雲丸事故は、この洞爺丸事故とあわせて、戦後の代表的な海難事故として語られることが多いです。

火災・多重衝突事故が相次いだ鉄道事故

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戦後の鉄道事故で有名なものはいくつかありますが、1951(昭和26)年に神奈川県の桜木町駅構内で車両が火災を起こし、106名が死亡した「桜木町火災」がまず挙げられます。

また1962(昭和37)年に東京都荒川区・常磐線三河島駅構内で発生した、列車の二重衝突・脱線事故である「三河島事故」や、その翌年に東海道本線の鶴見駅~新子安駅間で発生した二重衝突事故「鶴見事故」もはずせません。

この三つの鉄道事故と、上記の洞爺丸事故、そして紫雲丸事故をあわせて国鉄五大事故と呼びます。いずれも当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。

紫雲丸が関わったその他の事故

実は、紫雲丸は複数回の事故を起こしており「呪われた船舶」とされることもあります。最初の事故は1950年(昭和25年)3月25日に宇野を出航した鷲羽丸と衝突した事故で、これにより紫雲丸は沈没し7名が死亡しました。その後も1951~1952年の二年の間に接触事故を一回、衝突事故を二回起こしています。

そして五度目の衝突事故が本稿で紹介した第三宇高丸との衝突事故で、「紫雲丸事故」と言えば最も犠牲者数が多いこの事故を指すことが多いです。

さらに言えば、引き揚げられた紫雲丸は修復して「瀬戸丸」と改称して使われ続けました。その後も一度衝突事故を起こし、1966(昭和41)年3月30日に終航となっています。

\次のページで「紫雲丸事故がもたらした影響」を解説!/

紫雲丸事故がもたらした影響

ここまでで、紫雲丸事故の概要と、それ以外の大事故との関係性などを解説しました。次に、紫雲丸事故が具体的に社会に対して与えた影響を見ていきましょう。交通に関わる大事故が発生した場合、一般に、ソフト面とハード面からの安全対策を講じる必要が出てきます。

紫雲丸の場合もそうで、ソフト面として、国鉄は事故の再発防止策と安全対策を強化しました。またハード面としては、瀬戸大橋や明石海峡大橋の建設によって船舶に頼らない輸送・旅客体制を確立しようという機運が高まります。

国鉄による安全対策

事故後、国鉄は宇高連絡船管理部を設置し、海難事故の再発防止のための管理体制を強化しました。これとあわせて、関係者の責任のあり方も明確化されています。

また船舶の安全対策としては、連絡船における救命設備の改善や、船体の構造の変更なども行われました。さらに、航路環境についても上下便の基準航路を完全に分離し、反対方向から来た船舶が正面から行き会うことがないよう整備しています。

これに加えて、気象情報を入手するための体制も整備。事故発生時のための船員教育を推し進めて、非常事態が発生した場合に備えた態勢強化も行いました。

「大橋」の架橋

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紫雲丸事故がもたらした大きな影響として外せないのが、四国と本州をつなぐ「大橋」の開通でしょう。事故を起こした宇高連絡船は、その後悪天候の中での出航を避けるようになり、これによって生じた輸送上の障害が1988(昭和63)年の瀬戸大橋開通へとつながりました。

また、1998(平成10)年に開通した明石海峡大橋も、紫雲丸事故をはじめとする瀬戸内海での船舶事故を受けて一気に建設・開通への機運が高まったとされています。

これらの「大橋」の架橋によって、四国と本州を結んでいた宇高航路は次第に使われなくなり、航路開設から78年目、瀬戸大橋が開通した1998(昭和63)年の4月9日にその役割を終えました。

瀬戸内海で発生した「紫雲丸事故」

紫雲丸事故は、1955(昭和30)年5月11日に瀬戸内海で発生した海難事故です。781名の乗客乗員を乗せていた連絡船「紫雲丸」が衝突して沈没し、小学生を含む168名が亡くなりました。

この前年には、千人以上の死者を出した青函連絡船「洞爺丸」の沈没事故も発生しており、社会に大きな衝撃を与えています。同時期に起きた鉄道事故とあわせて「国鉄戦後五大事故」のひとつに数えられており、瀬戸大橋建設のきっかけにもなりました。

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現代社会

簡単でわかりやすい「紫雲丸事故」発生した経緯や事故原因・その後の影響を歴史好きライターが詳しく解説

今回のテーマは「紫雲丸事故」についてです。1955(昭和30)年5月11日に瀬戸内海で起きた船舶の衝突・沈没事故で、子供を含む168名が亡くなっている。「国鉄五大事故」の一つとしても有名です。
この紫雲丸事故は、前年に発生した洞爺丸事故とあわせて社会に衝撃を与え、瀬戸大橋や明石海峡大橋建設の機運を高めるきっかけにもなった。近代日本の事故・災害史に詳しいライター・ねぼけねこと一緒に解説していきます。

ライター/ねぼけねこ

法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。

紫雲丸事故の概要

まず最初に、紫雲丸事故の概要を見ていきましょう。この事故が発生したのは1955(昭和30)年5月11日の瀬戸内海で、岡山県の宇野港と香川県高松市を結んでいた宇高航路で、紫雲丸と第三宇高丸の二隻の船舶が衝突したというものです。

事故が起きた当時の「宇高航路」

事故が起きた1955(昭和30)年5月11日の早朝、現場となった瀬戸内海は深い霧に包まれていました。瀬戸内海は島が点在することから、陸地に囲まれている箇所に湿った空気がたまると海霧が発生しやすいのです。

午前5時30分、高松地方気象台は、国鉄宇高(うたか)航路に対して、視程50m以下の濃霧が発生するという鉄道気象通報を発表しています。宇高航路は、岡山県玉野市の「宇」野港と、香川県「高」松市を結んでいた航路です。

この、霧深い宇高航路で紫雲丸事故は発生しました。事故を起こすことになる連絡船の「紫雲丸」と「第三宇高丸」は、レーダーやジャイロコンパス、無線電話など、当時としては最新式である航海計器を装備していました。

二隻の船舶が衝突

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二隻が衝突したのは、午前6時56分のことです。紫雲丸は、衝突する16分前の午前6時40分に高松を出発して岡山県宇野に向かっていました。対する第三宇高丸は、午前6時10分に宇野を出航して高松に向かっているという状況でした。

衝突は、紫雲丸の右舷船尾に、第三宇高丸の船首が前方から約70度の角度で突っ込む形で発生しました。本来ならうまくすれ違うべきところで、紫雲丸がいきなり左折してしまったのです。

第三宇高丸から見れば、こちらに向かってきていた紫雲丸が、いきなり曲がって目の前を横切ってきた形でした。その時、紫雲丸は約10ノットで、そして第三宇高丸は約12.5ノットの全速力で航行していたといいます。

小学生を含む168名が死亡

船尾に突っ込まれた紫雲丸は、そのまま浸水し沈没。当時は781名という大人数が乗船しており、うち168名が亡くなるという大惨事になりました。負傷者も、船客107名と乗組員15名あわせて122名に及んでいます。

この事故で最も衝撃的かつ悲惨だったのは、三桁に及ぶ死者数もさることながら、その多くが女性・子供・修学旅行に参加していた生徒たちだったという点でしょう。

先述した168名という死者数のうち2名は紫雲丸の船長と乗組員で、一般の乗客は58名、教師や父母を含む修学旅行の関係者は108名でした。さらに言えばこの108名のうち81名が女の子だったのです。

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