
簡単でわかりやすい「紫雲丸事故」発生した経緯や事故原因・その後の影響を歴史好きライターが詳しく解説

この紫雲丸事故は、前年に発生した洞爺丸事故とあわせて社会に衝撃を与え、瀬戸大橋や明石海峡大橋建設の機運を高めるきっかけにもなった。近代日本の事故・災害史に詳しいライター・ねぼけねこと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ねぼけねこ
法学部出身。某大組織での文書作成・広報部門での業務に10年以上従事し、歴史学・思想史・日本近現代史にも詳しい。
紫雲丸事故の概要
まず最初に、紫雲丸事故の概要を見ていきましょう。この事故が発生したのは1955(昭和30)年5月11日の瀬戸内海で、岡山県の宇野港と香川県高松市を結んでいた宇高航路で、紫雲丸と第三宇高丸の二隻の船舶が衝突したというものです。
事故が起きた当時の「宇高航路」
事故が起きた1955(昭和30)年5月11日の早朝、現場となった瀬戸内海は深い霧に包まれていました。瀬戸内海は島が点在することから、陸地に囲まれている箇所に湿った空気がたまると海霧が発生しやすいのです。
午前5時30分、高松地方気象台は、国鉄宇高(うたか)航路に対して、視程50m以下の濃霧が発生するという鉄道気象通報を発表しています。宇高航路は、岡山県玉野市の「宇」野港と、香川県「高」松市を結んでいた航路です。
この、霧深い宇高航路で紫雲丸事故は発生しました。事故を起こすことになる連絡船の「紫雲丸」と「第三宇高丸」は、レーダーやジャイロコンパス、無線電話など、当時としては最新式である航海計器を装備していました。
二隻の船舶が衝突

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二隻が衝突したのは、午前6時56分のことです。紫雲丸は、衝突する16分前の午前6時40分に高松を出発して岡山県宇野に向かっていました。対する第三宇高丸は、午前6時10分に宇野を出航して高松に向かっているという状況でした。
衝突は、紫雲丸の右舷船尾に、第三宇高丸の船首が前方から約70度の角度で突っ込む形で発生しました。本来ならうまくすれ違うべきところで、紫雲丸がいきなり左折してしまったのです。
第三宇高丸から見れば、こちらに向かってきていた紫雲丸が、いきなり曲がって目の前を横切ってきた形でした。その時、紫雲丸は約10ノットで、そして第三宇高丸は約12.5ノットの全速力で航行していたといいます。

ここで一度、事故が起きた当時の海運の重要性について説明しておこう。当時の日本は終戦直後の混乱期からようやく脱したところだった。さらに昭和25~30年頃までは朝鮮特需による経済的影響もあって、人や物の移動が活発になっていた。
そんな中、事故が起きた宇高航路端国も本州を結ぶ海運の大動脈の一つだったんだ。一日往復約60便が運航されていた。紫雲丸型の客船が三隻、第三宇高丸をはじめとする貨物船も三隻、それぞれ就航していた。
小学生を含む168名が死亡
船尾に突っ込まれた紫雲丸は、そのまま浸水し沈没。当時は781名という大人数が乗船しており、うち168名が亡くなるという大惨事になりました。負傷者も、船客107名と乗組員15名あわせて122名に及んでいます。
この事故で最も衝撃的かつ悲惨だったのは、三桁に及ぶ死者数もさることながら、その多くが女性・子供・修学旅行に参加していた生徒たちだったという点でしょう。
先述した168名という死者数のうち2名は紫雲丸の船長と乗組員で、一般の乗客は58名、教師や父母を含む修学旅行の関係者は108名でした。さらに言えばこの108名のうち81名が女の子だったのです。
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