今回は、伊東深水について学んでいきます。深水は非常に多くの作品を残した日本画家です。中でも、深水の美人画はとても人気があるな。それにしても、なぜ深水の美人画は今でも人気なのでしょうか。

伊東深水の美人画が今でも人気の理由を、日本画の成り立ちとともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

伊東深水とはどのような人物?

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はじめに、伊東深水という人物について、改めて振り返ってみましょう。

明治から昭和まで活躍した日本画家

伊東深水(いとうしんすい)1898(明治31)年に現在の東京都江東区で生まれました。今ではありえないことですが、深水は小学校を3年で退学。看板屋の奉公や活字工として働きました。その後、10代前半から日本画を習うようになり昼に働き夜は絵を描くという生活を続けます

若くして画家としての名声を得た深水は明治から昭和にかけて精力的な創作活動を続けました。しかし、その活動は日本画だけにとどまりませんでした。新版画運動にも参加して木版画でも次々と作品を残したのです。深水は、1972(昭和47)年にその生涯を閉じました。

美人画を描き続けた

伊東深水といえばなんといっても美人画が有名でしょう。深水が活躍していた当時は、見目麗しさを強調する美人画が多く見られていました。しかし、深水は自然で美しく女性らしい表情を描いたのです。そのような深水の作品は、数々の賞を受けるなど高く評価されました。

深水の美人画はあまりにも人気だったため一時期は美人画しか依頼が来ず深水が困惑したという話もあったそうです。しかし、深水は美人画と並行して風景画などの創作も続けそれらの作品も人気があります。美人画家として有名な伊東深水ですが、それ以外の作品も注目されてしかるべきでしょう。

日本画とはどのようなジャンル?

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伊東深水は日本画というジャンルで活躍しましたが、この「日本画」というものをよく知らない人は多いでしょう。ここでは、日本画というジャンルについて、詳しく説明していきます。

日本の伝統的な技法が用いられる

日本画の大きな特徴は千数百年の歴史がある日本の伝統的な絵画様式を用いることです画材にも伝統的な素材などを使用します。墨・岩絵具・胡粉・染料などの天然絵具をニカワで溶き、和紙や絹布の上に筆や刷毛で描くのが、日本画の一般的な技法です。

日本美術の研究でも知られるアメリカの哲学者フェノロサは日本での講演で日本画の特徴について述べました。フェノロサによると、日本画は「写実的表現をしない」「陰影が無い」「輪郭を描く」「色調が濃厚ではない」「表現が簡潔」とのことです。このように、日本画には西洋の絵画に見られない特徴があるといえます。

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「洋画」に対する概念が「日本画」

「日本画」という言葉は実は遠い昔から使われていたわけではありません明治時代の中頃から使われるようになりましたその頃にヨーロッパで描かれた絵画である「西洋画」(または「洋画」)が日本にもたらされそれに対して日本の絵画を「日本画」と呼ぶようになったのです

「日本画」という概念を初めて登場させたのが前出のフェノロサだといわれます。彼が講演で「Japanese painting」と表現したものが翻訳され、「日本画」という言葉になったというのが定説です。その後、「日本画」という言葉は定着しましたが日本画の定義は幅広く分かれるようになっています

注目すべき伊東深水の作品は?

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ところで、伊東深水の作品にはどのようなものがあるのでしょうか。ここでは、画家活動の節目となったであろう、3つの作品について説明していきます。

1.『のどか』

伊東深水が初めて日本画家として名声を得た作品が『のどか』です1912(大正元)年に開催された第12回巽画会展で深水は『のどか』で初入選を果たしました。『のどか』は労働者の父と娘を描いたものです。受賞当時の深水はまだ14歳という若さでした

その頃の深水は、昼に働いてから夜に創作活動をしていました。とても忙しい毎日でしたが、『のどか』の入選で深水に注目が集まるようになります深水は1913(大正2)年にも巽画会で入選しその翌年には再興第1回院展で『桟敷の女』が入選。日本画家としての地位を築くようになりました。

2.『対鏡』

伊東深水の作品は、日本画だけではありません。明治時代後期から昭和まで制作されていた新版画というジャンルの作品も手掛けていますその第1作となったのが1916(大正5)年制作の『対鏡』で新版画運動をリードしていた渡邊庄三郎が版元となりました

『対鏡』は赤・白・黒の色彩が鮮やかな作品です。鏡こそ描かれていませんが、鏡に向かっていると思われる赤い着物の女性が黒髪に手を当てている様子が描かれています。のちの深水の美人画に見られる趣きも見られますが驚くべきことに『対鏡』を描いた深水はまだ18歳でした

3.『指』

伊東深水は1919(大正8)年に好子夫人と結婚しました好子夫人をモチーフにした深水の作品は多く1922(大正11)年に制作された『指』もモデルは好子夫人です。『指』は平和記念東京博覧会に出展され、当時から好評を博しました。なお、『指』は後に切手のデザインにもなっています。

1924(大正13)年に清方塾展へ出品された『湯気』も『指』と同様に好子夫人をモデルとして描かれましたどちらも若い女性を情感豊かに表現しています。特に『指』は、しなやかな指先や透き通るような白い肌などが描かれた、深水初期の代表作です。この頃になると深水の美人画は完成されつつありました

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なぜ伊東深水の美人画は人気なのか?

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では、なぜ伊東深水の美人画は人気があるのでしょうか。ここでは理由を2つに絞って解説します。

1.一般の人にもわかりやすい作風

伊東深水の美人画は確かな線描と豊かな色彩が特徴ですそれでいて女性の繊細さが美しく表現されています。深水の作品はどれも好評で、戦後には大量の作品が複製版画として出回りました。一般の人にもわかりやすい深水の作風は多くの人の心をつかんだのです

一部では、深水の作品を世俗的過ぎるとする意見もあります。しかし、深水の作品は美人画だけではありません古典的な作品から新版画運動に触発されたものまでその作風は幅広いのです伝統的な技法で確かな描写力を用いつつも世間一般にも受け入れられやすい題材を描いた深水の作品は現代でも人気があります

2.作品数が非常に多い

多くの人が伊東深水の作品を目にするのには理由があります。それは、伊東深水が生涯残した作品数が非常に多いからです深水の作品を所蔵する美術館は北から南まで全国にあり東京国立近代美術館などで鑑賞できます。特に意識しなくても、深水の美人画を目にしたことがあるかもしれません。

深水の美人画があまりにも人気だったために美人画しか描けない時期もあり、それに深水が悩んだこともあったとのこと。ですが、戦後の深水は美人画と並行して日本画の人物像なども手掛けるようになりました。1972(昭和47)年に伊東深水は亡くなりましたが、彼の死後も版権所有者監修の複製画が頒布されています

他にも覚えておきたい日本画家は?

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最後に、伊東深水とともに覚えておきたい日本画家を3人紹介します。

横山大観:日本画の巨匠

横山大観(よこやまたいかん)明治時代中期から昭和にかけて活動していた日本画の巨匠です。大観の作品は、日本だけでなく世界中で高い評価を得ました。1937(昭和12)年にはその年に制定された文化勲章の第1回受章者のうちの1人となっています

大観は朦朧体(もうろうたい)と呼ばれる画法を確立しました伝統的な線描技法を用いず色彩の濃淡によって形態や空気や光などを表したものです。大観の朦朧体は、当初それほど評価されていませんでした。しかし、徐々に没線描法が受け入れられるようになり、今では日本画に革新をもたらしたとの定評があります。

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上村松園:美人画で有名な女性日本画家

上村松園(うえむらしょうえん)伊東深水と同様に美人画で有名な日本画家です松園の美人画の特徴はなんといっても女性である松園の手により女性の美を描いたことでしょう。四条派と呼ばれる伝統的な技法に近代的な感覚が加わり、繊細で格調高い作品が人気を博しています。

松園が活躍していた当時は、女性である松園が日本画家を目指すことに好奇の目が向けられていたそうです。しかし、松園が努力を惜しまなかった結果、日本画家として地位を確立するに至りました。さらに驚くべきことは、息子の上村松篁と孫の上村淳之も日本画家となりしかも親子三代で文化勲章を受章したことです

鏑木清方:浮世絵師・随筆家でもある美人画の巨匠

鏑木清方(かぶらききよかた)浮世絵師や随筆家としても活躍した日本画家です。前出の上村松園とともに、「西の松園、東の清方」と並び称されるほど美人画の巨匠として有名でした。浮世絵の技法を生かしながら、気品あふれる女性の姿を描きました。ただし、清方は風俗画や風景画の名作も残しています。

清方は実は伊東深水の師匠です「深水」という画号を贈ったのも清方でした。深水と清方をたどっていくと、江戸時代の浮世絵師である歌川国芳までさかのぼります。彼らの画風は「玄冶店派」(げんじだなは)と呼ばれ、現代でもその技法が引き継がれているのです。

膨大な作品数を誇る伊東深水の美人画は多くの人を魅了した

伊東深水の手によって描かれた美人画は、非常に多くの人を魅了しました。一般の人にもわかりやすい作風で、さらに作品数が膨大で目に付きやすかったのが、人気の原因だと思われます。しかし、深水の作品は伝統的な画法に基づいたものであり、決して世俗的だとする評価に終わるものではありません。深水は多くの弟子を育てるなど、日本画の世界に大きな足跡を残しました。

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現代社会

なぜ伊東深水の美人画が人気なのか?その理由を日本画の成り立ちとともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

なぜ伊東深水の美人画は人気なのか?

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では、なぜ伊東深水の美人画は人気があるのでしょうか。ここでは理由を2つに絞って解説します。

1.一般の人にもわかりやすい作風

伊東深水の美人画は確かな線描と豊かな色彩が特徴ですそれでいて女性の繊細さが美しく表現されています。深水の作品はどれも好評で、戦後には大量の作品が複製版画として出回りました。一般の人にもわかりやすい深水の作風は多くの人の心をつかんだのです

一部では、深水の作品を世俗的過ぎるとする意見もあります。しかし、深水の作品は美人画だけではありません古典的な作品から新版画運動に触発されたものまでその作風は幅広いのです伝統的な技法で確かな描写力を用いつつも世間一般にも受け入れられやすい題材を描いた深水の作品は現代でも人気があります

2.作品数が非常に多い

多くの人が伊東深水の作品を目にするのには理由があります。それは、伊東深水が生涯残した作品数が非常に多いからです深水の作品を所蔵する美術館は北から南まで全国にあり東京国立近代美術館などで鑑賞できます。特に意識しなくても、深水の美人画を目にしたことがあるかもしれません。

深水の美人画があまりにも人気だったために美人画しか描けない時期もあり、それに深水が悩んだこともあったとのこと。ですが、戦後の深水は美人画と並行して日本画の人物像なども手掛けるようになりました。1972(昭和47)年に伊東深水は亡くなりましたが、彼の死後も版権所有者監修の複製画が頒布されています

他にも覚えておきたい日本画家は?

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最後に、伊東深水とともに覚えておきたい日本画家を3人紹介します。

横山大観:日本画の巨匠

横山大観(よこやまたいかん)明治時代中期から昭和にかけて活動していた日本画の巨匠です。大観の作品は、日本だけでなく世界中で高い評価を得ました。1937(昭和12)年にはその年に制定された文化勲章の第1回受章者のうちの1人となっています

大観は朦朧体(もうろうたい)と呼ばれる画法を確立しました伝統的な線描技法を用いず色彩の濃淡によって形態や空気や光などを表したものです。大観の朦朧体は、当初それほど評価されていませんでした。しかし、徐々に没線描法が受け入れられるようになり、今では日本画に革新をもたらしたとの定評があります。

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