今回はノートルダム大聖堂の歴史、芸術的価値、見どころなどを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。世界の文化全般について気になることがあると調べている。今回はノートルダム大聖堂についてまとめてみた。
ノートルダム大聖堂とはどのような建築物?
Edal Anton Lefterov – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
ノートルダム大聖堂はフランスのパリにある建築物。パリのなかでもシテ島というところにあります。ローマ・カトリック教会の大聖堂でゴシック建築の傑作のひとつとして知られるようになりました。1991年にユネスコの世界遺産に登録されたこともあり世界中から観光客がその姿を見るために集まります。
ノートルダム大聖堂があるシテ島
ノートルダム大聖堂はパリの街中にあると思われがちですが、セーヌ川の中州であるシテ島のなかに建てられています。中州であるもののパリ市内でとくに古い歴史があるシテ島。パリ1区と4区に区分されています。シテは都市の発祥を意味する言葉。それを裏付けるようにシテ島にはパリの主要機関が集まっています。
具体的にはノートルダム大聖堂のほかパリ警視庁およびパリ市立病院。もともと教会は病気になった旅人を宿泊させたり看病したりする役割もありました。そのためパリ市立病院の別名は「パリの神の館」。大聖堂と共に発展してきたことが分かります。
不便な暮らしを強いられるシテ島
シテ島はノートルダム大聖堂があることから衛生的な雰囲気がありますがその逆。中州という立地上、住民は狭い土地で生活することを強いられてきました。そのため夜遅くにはトイレの水を流さないなど、独自のルールのもと生活をしてきました。
また、さまざまな制約から路地が狭く入り組み、不衛生な場所ともなりました。そのため19世紀に入るとスラム街化してしまいます。さらには2月革命では民衆の争乱の発生源となったノートルダム。その結果、ナポレオン3世の時代にスラム街が一掃された歴史があります。
フランスの歴史のターニングポイントとなるノートルダム大聖堂
Par Jacques-Louis David — wartburg.edu, Domaine public, Lien
ノートルダム大聖堂があるエリアではフランスの歴史のターニングポイントとなるような出来事が繰り広げられてきました。古代ローマ帝国の繁栄と崩壊そしてフランス革命が主たる出来事と言えるでしょう。歴史の変化のなかでノートルダム大聖堂の位置づけも変わっていきました。
ノートルダム大聖堂がある敷地の変遷
ノートルダム大聖堂がある敷地は古代から神聖なところでした。ローマ時代はローマの主神であるユピテルの神域と位置づけられていました。ユピテルとは、女性の結婚生活を守る神であるユーノーの夫。男性の神であるものの、ときには女性化することもある不思議な神です。
しかしながらローマが崩壊したあとは一転。キリスト教徒はこの敷地をキリスト教化します。彼らが建築したのはバシリカというもの。これは古代キリシアの文化の影響を受けた建築物で、キリスト教の教会堂の建築の基本となりました。何年にもわたって改修や増築が繰り返され、現在の大聖堂の原型ができたのは1345年頃とされています。
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フランス革命で危機にさらされる大聖堂
ノートルダム大聖堂は過去に破壊されたことがあります。それがフランス革命の時期。フランス革命のあとのフランスは宗教的に中立な国家を目指すようになります。政教分離により信教の自由を保障することがライシテ。この概念は今のフランスにも残っています。
政治的な影響力を失ったノートルダム大聖堂は荒廃していきました。歴代の王の彫像は壊され地中に埋められました。このとき破壊された彫刻などは、1970年代に工事をしているときに偶然掘り起こされます。それらは歴史を語る遺物としてクリュニー中世美術館にて保存されるに至りました。
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ノートルダム大聖堂を包括するカトリック教会は王政と深く結びついていました。王権は神による与えられたという王権神授説が国家の基本にあったからです。ところが共和国の市民はカトリック教会の権威を否定。そのためフランス革命のあとは、ノートルダム大聖堂は個人の自由を阻害する存在としてネガティブに捉えられました。
ノートルダム大聖堂の建築の歴史
ノートルダム大聖堂の原型はキリスト教徒により建てられたバシリカ。実際の建築は1163年に始まるとされています。国王ルイ7世の立会いのもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことが出発点。このような起源からも、ノートルダム大聖堂は政教の強いつながりを象徴する建物であることが分かります。
パリの一大事業であるノートルダム大聖堂の建造
1163年から1177年にかけて神体を安置するための内陣が、1180年から主祭壇に向かう通路などが作られました。建築工事のほとんどは司教であるモーリス・ド・シュリーが担当。大聖堂のほとんどが完成したころにモーリスが亡くなります。
残りの工事はユード・ド・シュリーが継承。ユードの功績は建物の正面のデザインを整えたことです。ノートルダム大聖堂の優美で重厚な外観が形作られていきました。また、大聖堂の内部のステンドグラスもこのときに加えられます。ノートルダム大聖堂は12世紀末から13世紀前半にかけての一大事業として進化していきました。
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