ノートルダム大聖堂という建築物を知っているか。ゴシック建築を代表するパリの建築物で、観光名所としても世界的に知られている。2019年に大火災により建築物の一部が消失したことも記憶に新しいでしょう。

今回はノートルダム大聖堂の歴史、芸術的価値、見どころなどを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。世界の文化全般について気になることがあると調べている。今回はノートルダム大聖堂についてまとめてみた。

ノートルダム大聖堂とはどのような建築物?

Notre dame view from Montparnasse Tower.jpg
Edal Anton Lefterov - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ノートルダム大聖堂はフランスのパリにある建築物。パリのなかでもシテ島というところにあります。ローマ・カトリック教会の大聖堂でゴシック建築の傑作のひとつとして知られるようになりました。1991年にユネスコの世界遺産に登録されたこともあり世界中から観光客がその姿を見るために集まります。

ノートルダム大聖堂があるシテ島

ノートルダム大聖堂はパリの街中にあると思われがちですが、セーヌ川の中州であるシテ島のなかに建てられています。中州であるもののパリ市内でとくに古い歴史があるシテ島。パリ1区と4区に区分されています。シテは都市の発祥を意味する言葉。それを裏付けるようにシテ島にはパリの主要機関が集まっています。

具体的にはノートルダム大聖堂のほかパリ警視庁およびパリ市立病院。もともと教会は病気になった旅人を宿泊させたり看病したりする役割もありました。そのためパリ市立病院の別名は「パリの神の館」。大聖堂と共に発展してきたことが分かります。

不便な暮らしを強いられるシテ島

シテ島はノートルダム大聖堂があることから衛生的な雰囲気がありますがその逆。中州という立地上、住民は狭い土地で生活することを強いられてきました。そのため夜遅くにはトイレの水を流さないなど、独自のルールのもと生活をしてきました。

また、さまざまな制約から路地が狭く入り組み、不衛生な場所ともなりました。そのため19世紀に入るとスラム街化してしまいます。さらには2月革命では民衆の争乱の発生源となったノートルダム。その結果、ナポレオン3世の時代にスラム街が一掃された歴史があります。

フランスの歴史のターニングポイントとなるノートルダム大聖堂

Le Sacre de Napoléon, tableau de David, 1805-1808, musée du Louvre. La scène se déroule dans le chœur de la cathédrale tel qu’il se présentait à l’époque, avec la décoration des colonnes conçue par Robert de Cotte en 1698.
Par Jacques-Louis Davidwartburg.edu, Domaine public, Lien

ノートルダム大聖堂があるエリアではフランスの歴史のターニングポイントとなるような出来事が繰り広げられてきました。古代ローマ帝国の繁栄と崩壊そしてフランス革命が主たる出来事と言えるでしょう。歴史の変化のなかでノートルダム大聖堂の位置づけも変わっていきました。

ノートルダム大聖堂がある敷地の変遷

ノートルダム大聖堂がある敷地は古代から神聖なところでした。ローマ時代はローマの主神であるユピテルの神域と位置づけられていました。ユピテルとは、女性の結婚生活を守る神であるユーノーの夫。男性の神であるものの、ときには女性化することもある不思議な神です。

しかしながらローマが崩壊したあとは一転。キリスト教徒はこの敷地をキリスト教化します。彼らが建築したのはバシリカというもの。これは古代キリシアの文化の影響を受けた建築物で、キリスト教の教会堂の建築の基本となりました。何年にもわたって改修や増築が繰り返され、現在の大聖堂の原型ができたのは1345年頃とされています。

フランス革命で危機にさらされる大聖堂

ノートルダム大聖堂は過去に破壊されたことがあります。それがフランス革命の時期。フランス革命のあとのフランスは宗教的に中立な国家を目指すようになります。政教分離により信教の自由を保障することがライシテ。この概念は今のフランスにも残っています。

政治的な影響力を失ったノートルダム大聖堂は荒廃していきました。歴代の王の彫像は壊され地中に埋められました。このとき破壊された彫刻などは、1970年代に工事をしているときに偶然掘り起こされます。それらは歴史を語る遺物としてクリュニー中世美術館にて保存されるに至りました。

ノートルダム大聖堂を包括するカトリック教会は王政と深く結びついていました。王権は神による与えられたという王権神授説が国家の基本にあったからです。ところが共和国の市民はカトリック教会の権威を否定。そのためフランス革命のあとは、ノートルダム大聖堂は個人の自由を阻害する存在としてネガティブに捉えられました。

ノートルダム大聖堂の建築の歴史

image by PIXTA / 97062383

ノートルダム大聖堂の原型はキリスト教徒により建てられたバシリカ。実際の建築は1163年に始まるとされています。国王ルイ7世の立会いのもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことが出発点。このような起源からも、ノートルダム大聖堂は政教の強いつながりを象徴する建物であることが分かります。

パリの一大事業であるノートルダム大聖堂の建造

1163年から1177年にかけて神体を安置するための内陣が、1180年から主祭壇に向かう通路などが作られました。建築工事のほとんどは司教であるモーリス・ド・シュリーが担当。大聖堂のほとんどが完成したころにモーリスが亡くなります。

残りの工事はユード・ド・シュリーが継承。ユードの功績は建物の正面のデザインを整えたことです。ノートルダム大聖堂の優美で重厚な外観が形作られていきました。また、大聖堂の内部のステンドグラスもこのときに加えられます。ノートルダム大聖堂は12世紀末から13世紀前半にかけての一大事業として進化していきました。

\次のページで「ノートルダム大聖堂復興運動」を解説!/

ノートルダム大聖堂復興運動

フランス革命における政教分離のあおりを受けてノートルダム大聖堂が破壊されたことは先に触れました。大聖堂は一時期衰退するものの、フランスを代表する詩人であるヴィクトル・ユーゴーが声を挙げます。「ノートルダムのせむし男」を出版。復興することの意義を訴えました。

「ノートルダムのせむし男」は大聖堂の権威を否定する一面もありますが、同時に歴史的建造物を大切にすることの意義も訴えています。この小説のなかでは大聖堂の建築物の特徴が詳細に記されました。国民の関心が消え去っていた時代、小説が話題となり再び興味の対象になります。

ノートルダム大聖堂の修復の開始

image by PIXTA / 74157966

ユーゴーが大聖堂の保存を訴えたとき、西正面にある3つの扉口は取り壊され、さらには王のギャラリーに配置されていた彫刻の頭部も切り落とされている状況でした。さらにはノートルダムの歴史を語る装飾も削り取られ、まるで廃墟のようになっていました

修復を担当したヴィオレ・ル・デュク

当初、ノートルダム大聖堂の修復を担当した建築家は2名。しかしながら1名がすぐに亡くなったこともあり、ヴィオレ・ル・デュクがひとりで指揮をとりました。裕福な家庭に生まれて絵画の才能を開花。しかしながら正統的な建築教育機関を批判したことにより居場所を失い、フランス各地を放浪したという異端児でもあります。

イタリアを旅行するなかで中世ゴシック建築に注目。それをきっかけに古い建築物の修復に目覚めていきます。ノートルダム大聖堂のほか、パリ市内にある大聖堂、教会、城館などの修復に携わりました。ノートルダム大聖堂を修復する際は、さらに豪華にすることを求める教会関係者との対立を深めました。

復元するのか、さらに美しくするのか

ヴィオレ・ル・デュクらが当初提出した計画案は、本来の大聖堂の姿を忠実に復元するというもの。それが採用されて工事が始まりました。しかしながら徐々に工事の方向性が変化していきます。カトリック教会は大聖堂を復元するだけでは飽き足らず、さらに記念的な建造物として美しく進化させることを望み始めました。

ヴィオレ・ル・デュクはそうした要請を抑え込むことができず、尖塔を発展的に復元することを決定します。塔の長さを10メートルほど伸ばし、先端部分に彫像を付け加えました。彫像のモデルはデュクなど工事の関係者だったこともあり、あとになって批判の対象となります。

火災に見舞われたノートルダム大聖堂

NotreDame20190415QuaideMontebello (cropped).jpg
Wandrille de Préville - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

ノートルダム大聖堂は現在に至るまで改修工事が継続されています。ところが2019年の春、その改修工事が原因で火災が発生。大聖堂の上層部に火が燃え広がったこともあり鎮火に難航、木組み構造であった屋根の部分のほとんどが消失します。修復している最中だった尖塔は崩壊してしまいました。

\次のページで「パリ市民の精神的支柱を失う」を解説!/

パリ市民の精神的支柱を失う

ノートルダム大聖堂は歴史的建造物であると同時にパリ市民にとっては精神的支柱でもありました。そのため燃え広がる火災を前に多数のパリ市民は聖歌を歌いながら大聖堂の無事を祈りました。このとき主に歌われたのは聖歌「アヴェ・マリア」。ノートルダムは「我らの貴婦人」すなわち聖母マリアを意味していることがその理由です。

当時のフランスの大統領であったエマニュエル・マクロンは大聖堂を再建するために国際的に募金を募ることも表明しました。それは精神的支柱に等しいノートルダム大聖堂が消失することによる国民の喪失感を最小限にとどめるためでした。

ノートルダム大聖堂の火災の原因ははっきりしていません。改修工事の関係者のたばこの不始末、もしくは電気系統のトラブルと考えられています。

ただ、これだけの火災が起こったことで大聖堂の骨組みがあらわになり、歴史的な発見もなされました。ノートルダム大聖堂は、さまざまな建造物に先駆けて鉄の骨組みを使っていたことが判明。中世フランスの大聖堂の建築に影響を与えたと推測されました。

収蔵品は関係者により救出

ノートルダム大聖堂のなかには歴史的に貴重な文化財が多数保管されていました。それらの消失を免れるために教会関係者と救急隊員がバケツリレー方式により大聖堂の内部から運び出しました。カトリック教会にとって重要とされるのが聖遺物。受難にかかわる品や、聖人の遺骸あるいは遺品などのことです。

とくに重視されているのが「いばらの冠」と「聖ルイのチュニック」のふたつ。どちらも無事であると報告されました。実際、火災の炎は宝物庫まで広がりませんでした。それにも関わらず、消火作業よりも文化財を運び出すことを優先させたため火災規模が大きくなったという話もあります。

ノートルダム大聖堂の改修工事は継続中

ノートルダム大聖堂はフランス革命のあとから現在に至るまで改修工事が続けられています。ヴィオレ・ル・デュクが修復を開始したときと同じように、元の状態にするのか、現代的なデザインを盛り込むのか、新しい建材を取り入れるのか議論になりました。最終的に火災前の状態に復元することに決定。地質学者などが火災前と同じ石灰岩の採掘を行っているそうです。ノートルダム大聖堂の一般公開は2024年12月から開始。新たな歴史を刻み始めることになりそうです。

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パリ市民の心を支える「ノートルダム大聖堂」の衰退と復興の過程を元大学教員が簡単にわかりやすく解説

ノートルダム大聖堂という建築物を知っているか。ゴシック建築を代表するパリの建築物で、観光名所としても世界的に知られている。2019年に大火災により建築物の一部が消失したことも記憶に新しいでしょう。

今回はノートルダム大聖堂の歴史、芸術的価値、見どころなどを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史や文化を専門とする元大学教員。世界の文化全般について気になることがあると調べている。今回はノートルダム大聖堂についてまとめてみた。

ノートルダム大聖堂とはどのような建築物?

Notre dame view from Montparnasse Tower.jpg
Edal Anton Lefterov – 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

ノートルダム大聖堂はフランスのパリにある建築物。パリのなかでもシテ島というところにあります。ローマ・カトリック教会の大聖堂でゴシック建築の傑作のひとつとして知られるようになりました。1991年にユネスコの世界遺産に登録されたこともあり世界中から観光客がその姿を見るために集まります。

ノートルダム大聖堂があるシテ島

ノートルダム大聖堂はパリの街中にあると思われがちですが、セーヌ川の中州であるシテ島のなかに建てられています。中州であるもののパリ市内でとくに古い歴史があるシテ島。パリ1区と4区に区分されています。シテは都市の発祥を意味する言葉。それを裏付けるようにシテ島にはパリの主要機関が集まっています。

具体的にはノートルダム大聖堂のほかパリ警視庁およびパリ市立病院。もともと教会は病気になった旅人を宿泊させたり看病したりする役割もありました。そのためパリ市立病院の別名は「パリの神の館」。大聖堂と共に発展してきたことが分かります。

不便な暮らしを強いられるシテ島

シテ島はノートルダム大聖堂があることから衛生的な雰囲気がありますがその逆。中州という立地上、住民は狭い土地で生活することを強いられてきました。そのため夜遅くにはトイレの水を流さないなど、独自のルールのもと生活をしてきました。

また、さまざまな制約から路地が狭く入り組み、不衛生な場所ともなりました。そのため19世紀に入るとスラム街化してしまいます。さらには2月革命では民衆の争乱の発生源となったノートルダム。その結果、ナポレオン3世の時代にスラム街が一掃された歴史があります。

フランスの歴史のターニングポイントとなるノートルダム大聖堂

Le Sacre de Napoléon, tableau de David, 1805-1808, musée du Louvre. La scène se déroule dans le chœur de la cathédrale tel qu’il se présentait à l’époque, avec la décoration des colonnes conçue par Robert de Cotte en 1698.
Par Jacques-Louis Davidwartburg.edu, Domaine public, Lien

ノートルダム大聖堂があるエリアではフランスの歴史のターニングポイントとなるような出来事が繰り広げられてきました。古代ローマ帝国の繁栄と崩壊そしてフランス革命が主たる出来事と言えるでしょう。歴史の変化のなかでノートルダム大聖堂の位置づけも変わっていきました。

ノートルダム大聖堂がある敷地の変遷

ノートルダム大聖堂がある敷地は古代から神聖なところでした。ローマ時代はローマの主神であるユピテルの神域と位置づけられていました。ユピテルとは、女性の結婚生活を守る神であるユーノーの夫。男性の神であるものの、ときには女性化することもある不思議な神です。

しかしながらローマが崩壊したあとは一転。キリスト教徒はこの敷地をキリスト教化します。彼らが建築したのはバシリカというもの。これは古代キリシアの文化の影響を受けた建築物で、キリスト教の教会堂の建築の基本となりました。何年にもわたって改修や増築が繰り返され、現在の大聖堂の原型ができたのは1345年頃とされています。

フランス革命で危機にさらされる大聖堂

ノートルダム大聖堂は過去に破壊されたことがあります。それがフランス革命の時期。フランス革命のあとのフランスは宗教的に中立な国家を目指すようになります。政教分離により信教の自由を保障することがライシテ。この概念は今のフランスにも残っています。

政治的な影響力を失ったノートルダム大聖堂は荒廃していきました。歴代の王の彫像は壊され地中に埋められました。このとき破壊された彫刻などは、1970年代に工事をしているときに偶然掘り起こされます。それらは歴史を語る遺物としてクリュニー中世美術館にて保存されるに至りました。

ノートルダム大聖堂を包括するカトリック教会は王政と深く結びついていました。王権は神による与えられたという王権神授説が国家の基本にあったからです。ところが共和国の市民はカトリック教会の権威を否定。そのためフランス革命のあとは、ノートルダム大聖堂は個人の自由を阻害する存在としてネガティブに捉えられました。

ノートルダム大聖堂の建築の歴史

image by PIXTA / 97062383

ノートルダム大聖堂の原型はキリスト教徒により建てられたバシリカ。実際の建築は1163年に始まるとされています。国王ルイ7世の立会いのもと、ローマ教皇アレクサンデル3世が礎石を据えたことが出発点。このような起源からも、ノートルダム大聖堂は政教の強いつながりを象徴する建物であることが分かります。

パリの一大事業であるノートルダム大聖堂の建造

1163年から1177年にかけて神体を安置するための内陣が、1180年から主祭壇に向かう通路などが作られました。建築工事のほとんどは司教であるモーリス・ド・シュリーが担当。大聖堂のほとんどが完成したころにモーリスが亡くなります。

残りの工事はユード・ド・シュリーが継承。ユードの功績は建物の正面のデザインを整えたことです。ノートルダム大聖堂の優美で重厚な外観が形作られていきました。また、大聖堂の内部のステンドグラスもこのときに加えられます。ノートルダム大聖堂は12世紀末から13世紀前半にかけての一大事業として進化していきました。

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