今回は、新円切替について学んでいこう。

2024年に新紙幣が発行される予定ですが、にわかに1946年の新円切替が注目されるようになった。しかし、どの内閣がどうやって新円切替を実行したか、具体的に知らない人は多いのではないでしょうか。

新円切替の詳しい内容を、2024年に予定されている新紙幣発行とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

終戦直後の日本に起きた経済の動き

image by iStockphoto

最初に、終戦直後の日本の経済はどうなっていたのでしょうか。簡単におさらいしておきましょう。

インフレーションの発生

日本は太平洋戦争で莫大な戦費を投入したため財政が深刻な状況に陥ります。さらに、戦後は物資が不足し戦災により生産設備が大打撃を受けました。物がなくなり、さらに物が作れないとなると、需要と供給のバランスが崩れるのは当然です。それらに加え、退役軍人への退職金の支払いなどもかさみました

いろいろな要因が重なったため終戦直後の日本はインフレーションに襲われることになります。しかも、それは1945(昭和20)年から1949(昭和24)年にかけて物価がおよそ70倍にまで上昇した、ハイパーインフレだったのです。それにより、人々が金融機関に殺到して預貯金の引き出しが激しくなりました

人々は闇市で買い出し

終戦直後には物資だけでなく食料にも事欠くようになりました。それは経済の停滞だけが原因ではなく、終戦した1945(昭和20)年の秋が大凶作だったからです。一般市民は食料を買うお金に困っただけでなく。食料自体がないという状況に追い込まれました。

終戦直後に市民が頼ったのは闇市でした。食料の配給はありましたが、それでも足りず、人々は食料を求めて地方の農村へ買い出しに出掛けたのです。やがて、都市部にも闇市は立つようになり食料や日用品などが売られるようになりました。しかし、米は地下ルートでの販売などで価格が高騰し、市場になかなか出回りませんでした。

幣原喜重郎内閣の誕生

image by iStockphoto

続いて、終戦した年に誕生した幣原喜重郎内閣について、簡単に振り返りましょう。

戦後2番目に誕生した内閣

日本は1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えるとその2日後に鈴木貫太郎内閣が総辞職皇族で陸軍大将だった東久邇宮稔彦王を首相とする戦後初の新内閣が発足します。しかし、内閣はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と対立したため、わずか54日間で総辞職することになったのです

東久邇宮稔彦王の後継として白羽の矢が立ったのは幣原喜重郎でした。その時幣原は政界から距離を置いていましたが、外交通や英語力などを買われて首相に抜擢されています。当時はまだ大日本帝国憲法が施行されていたので、昭和天皇から組閣の大命が下る形で幣原内閣が発足しました。

GHQの意向が強く反映された

まずGHQは、日本軍の解体や戦犯の逮捕に着手します。その後、GHQの最高司令官だったマッカーサーは口頭で幣原首相に五大改革を指令しました。大まかに説明すると、婦人参政権の付与・労働組合の奨励・教育の民主化・秘密警察の廃止・経済の民主化の5つを幣原内閣が命じられたのです

さらに幣原内閣は財閥解体や農地改革新憲法の制定などもGHQから命じられました。そのため、幣原内閣はGHQの意向が強く反映されていたといえるでしょう。それらに加え、食糧不足やインフレーションなどにも対応を迫られたため、幣原内閣の政権運営は容易ではなかったことが想像できます。

新円切替では何が行われた?

image by iStockphoto

では、新円切替で何が行われていたのでしょうか。

1.預金封鎖

幣原内閣はGHQから発せられた数々の指令に応じただけでなく、インフレ対策にも迫られました。そのため、1946(昭和21)年2月より新円切替に着手します2月17日にモラトリアム立法で金融緊急措置令を制定。それと同時に、日銀券預入令や臨時財産調査令なども施行されました

新円切替で手始めに行われたのが預金封鎖でしたすべての現金を銀行に預金させた上でその預金を封鎖してしまったのです。しかし、封鎖された預金が全く使えなくなったわけではありません。生活費や事業費などに限り引き出しが許可されていました

2.5円以上の紙幣を無効にする

金融緊急措置令により1946(昭和21)年2月17日より預金が銀行に集められ預金が封鎖されただけでは終わりませんでした3月3日より5円以上の紙幣を使えなくしたのです。1946年当時の初任給は300〜500円でしたので、現在の価値に換算すると、5円札は2000円程度の価値になるでしょう。

旧紙幣を使えなくした代わりに新しい紙幣が程なくして発行されました新しく発行されたのは100円札・10円札・5円札・1円札の4種類です。100円札には聖徳太子、1円札には二宮尊徳の肖像が、それぞれ印刷されました。それらの紙幣はA号券と呼ばれ、今でも使用することができます。

\次のページで「3.証紙を発行」を解説!/

3.証紙を発行

新円切替により従来の紙幣を銀行に預金させ代わりに新しい紙幣を流通させる予定となっていました。しかし、計画は前倒しで実行されたため新紙幣の準備が間に合いませんでした。そこで、新紙幣が準備できるまでの緊急対策として証紙を発行することにしたのです。旧紙幣に証紙を貼付することで、それも新紙幣と見なすものでした。

証紙は10円から1000円までの4種類が発行され全国の金融機関に配布されました。手作業で1枚1枚紙幣に証紙を貼る、徹夜の作業が行われていたそうです。それらの証紙貼付銀行券と呼ばれたものは、新紙幣が広く流通するようになった1946(昭和21)年の10月末まで使用されました

新円切替の後に何が起きた?

image by iStockphoto

新円切替が行われた後は、いったい何が起きたのでしょうか。

1.小銭が貯め込まれる

新円切替で当局が狙っていたのは市中に出回る金融量を減らすことでした。金融量を減らせば貨幣の価値が上がるため、インフレーションが抑え込めるというわけです。しかし、旧紙幣が使えていた間はむしろ市民の消費が増えてしまいました。なぜなら、旧紙幣を使えるうちに使ってしまおうという意識が働いたからです

さらに、1円以下の紙幣や硬貨は新円切替の対象外となったためそれらを手元に貯め込もうとする市民が続出しました。たとえば、タバコ屋で7円のタバコを買うのに10円札を出して、1円札3枚をお釣りにもらう人が列を作ったそうです。そういったことも重なって、次々と店がお釣りを出せなくなる事態が発生しました

2.財産税法の制定

新円切替の目的がインフレーションの抑制だったことは間違いないでしょう。しかし、それ以外にも目的があったのではないかと指摘する意見もあります。それは、財産税法を施行することです財産税法も新円切替と同じ1946(昭和21)年に制定されました。新円切替からおよそ半年後のことでした。

財産税法とは1946年3月3日時点で所有していた預貯金や不動産などに1回限りで税を課したものです課税価額に応じて最高90%の財産税が課せられました。そのため、新円切替によって預貯金が強いられる状況になったのは、もとから財産税の財源を確保するためだったと考察する人もいます。

2024年の新紙幣発行と新円切替との関係

image by iStockphoto

最後に、2024年に予定されている新紙幣発行と、1946年の新円切替との関係を見てみましょう。

渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎が新紙幣の肖像に

2019年4月日本の政府が2024年から紙幣のデザインを変えると発表しました2023年9月現在2024年の7月に新紙幣の発行開始が予定されています。具体的な日時は明らかになっていません。現行の紙幣は2004年からの発行だったので、20年ぶりに紙幣が変わることになったのです。

新しい1万円札の肖像に500もの企業設立に関わった渋沢栄一が選ばれました5000円札には女子教育の先駆者となった津田梅子1000円札には「近代日本医学の父」として知られる北里柴三郎が選ばれています。3人とも、明治時代以降に日本の近代化で大きく貢献した人物です。

紙幣を刷新する理由

2024年まで使われる予定の現行紙幣が2004年から発行されたように、日本ではおよそ20年おきに紙幣を刷新していますその最も大きな理由が偽造防止です。これまでも、紙幣を刷新するたびに最新鋭の印刷技術が導入されていました。2024年発行予定の新紙幣にも3Dホログラムなどが導入される予定です

2024年発行予定の新紙幣に明治時代以降の偉人が肖像に採用されるのは理由があります。やはり、偽造防止が最たる理由です。肖像に採用された3人に偉大な業績があったのはもちろんですが、3人とも精密な写真が残されていますそのような写真のほうが偽造防止に適しているため明治時代以降の偉人3人が選ばれました

新紙幣発行は新円切替とは無関係

2024年から新紙幣が発行される予定となっていますがこれを70年以上も前の新円切替と重ね合わせる意見もあるようです。中には、タンス預金やへそくりなどといったものが使えなくなるとか、預金封鎖が行われるといった予測まで見られます。しかし、それらの意見は憶測の域を超えません

おそらくは新型コロナの世界的流行やロシアのウクライナ侵攻それらにともなう物価上昇などによる社会不安が原因となっているのでしょう。物価高が止まらないという点では、1946年と2023年は似ているともいえます。だからといって2024年からの新紙幣発行は預金封鎖とはつながりませんあくまでも偽造防止目的のデザイン一新です

新円切替で紙幣は一新されたがインフレ対策として効果を発揮せず

1946年の新円切替により預金が封鎖され、新しい紙幣が発行されました。しかし、終戦直後のインフレーション対策としては、あまり効果を発揮しませんでした。それから78年後、2024年にも新紙幣の発行が予定されています。新円切替を連想する意見もあるようですが、偽造防止を目的として紙幣を刷新するのであって、新円切替とは一切関係ありません。

" /> 1946年の新円切替はどのように行われた?実施した内閣やその背景を2024年の新紙幣発行とともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説 – Study-Z
現代社会

1946年の新円切替はどのように行われた?実施した内閣やその背景を2024年の新紙幣発行とともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、新円切替について学んでいこう。

2024年に新紙幣が発行される予定ですが、にわかに1946年の新円切替が注目されるようになった。しかし、どの内閣がどうやって新円切替を実行したか、具体的に知らない人は多いのではないでしょうか。

新円切替の詳しい内容を、2024年に予定されている新紙幣発行とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

終戦直後の日本に起きた経済の動き

image by iStockphoto

最初に、終戦直後の日本の経済はどうなっていたのでしょうか。簡単におさらいしておきましょう。

インフレーションの発生

日本は太平洋戦争で莫大な戦費を投入したため財政が深刻な状況に陥ります。さらに、戦後は物資が不足し戦災により生産設備が大打撃を受けました。物がなくなり、さらに物が作れないとなると、需要と供給のバランスが崩れるのは当然です。それらに加え、退役軍人への退職金の支払いなどもかさみました

いろいろな要因が重なったため終戦直後の日本はインフレーションに襲われることになります。しかも、それは1945(昭和20)年から1949(昭和24)年にかけて物価がおよそ70倍にまで上昇した、ハイパーインフレだったのです。それにより、人々が金融機関に殺到して預貯金の引き出しが激しくなりました

人々は闇市で買い出し

終戦直後には物資だけでなく食料にも事欠くようになりました。それは経済の停滞だけが原因ではなく、終戦した1945(昭和20)年の秋が大凶作だったからです。一般市民は食料を買うお金に困っただけでなく。食料自体がないという状況に追い込まれました。

終戦直後に市民が頼ったのは闇市でした。食料の配給はありましたが、それでも足りず、人々は食料を求めて地方の農村へ買い出しに出掛けたのです。やがて、都市部にも闇市は立つようになり食料や日用品などが売られるようになりました。しかし、米は地下ルートでの販売などで価格が高騰し、市場になかなか出回りませんでした。

幣原喜重郎内閣の誕生

image by iStockphoto

続いて、終戦した年に誕生した幣原喜重郎内閣について、簡単に振り返りましょう。

戦後2番目に誕生した内閣

日本は1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えるとその2日後に鈴木貫太郎内閣が総辞職皇族で陸軍大将だった東久邇宮稔彦王を首相とする戦後初の新内閣が発足します。しかし、内閣はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と対立したため、わずか54日間で総辞職することになったのです

東久邇宮稔彦王の後継として白羽の矢が立ったのは幣原喜重郎でした。その時幣原は政界から距離を置いていましたが、外交通や英語力などを買われて首相に抜擢されています。当時はまだ大日本帝国憲法が施行されていたので、昭和天皇から組閣の大命が下る形で幣原内閣が発足しました。

GHQの意向が強く反映された

まずGHQは、日本軍の解体や戦犯の逮捕に着手します。その後、GHQの最高司令官だったマッカーサーは口頭で幣原首相に五大改革を指令しました。大まかに説明すると、婦人参政権の付与・労働組合の奨励・教育の民主化・秘密警察の廃止・経済の民主化の5つを幣原内閣が命じられたのです

さらに幣原内閣は財閥解体や農地改革新憲法の制定などもGHQから命じられました。そのため、幣原内閣はGHQの意向が強く反映されていたといえるでしょう。それらに加え、食糧不足やインフレーションなどにも対応を迫られたため、幣原内閣の政権運営は容易ではなかったことが想像できます。

新円切替では何が行われた?

image by iStockphoto

では、新円切替で何が行われていたのでしょうか。

1.預金封鎖

幣原内閣はGHQから発せられた数々の指令に応じただけでなく、インフレ対策にも迫られました。そのため、1946(昭和21)年2月より新円切替に着手します2月17日にモラトリアム立法で金融緊急措置令を制定。それと同時に、日銀券預入令や臨時財産調査令なども施行されました

新円切替で手始めに行われたのが預金封鎖でしたすべての現金を銀行に預金させた上でその預金を封鎖してしまったのです。しかし、封鎖された預金が全く使えなくなったわけではありません。生活費や事業費などに限り引き出しが許可されていました

2.5円以上の紙幣を無効にする

金融緊急措置令により1946(昭和21)年2月17日より預金が銀行に集められ預金が封鎖されただけでは終わりませんでした3月3日より5円以上の紙幣を使えなくしたのです。1946年当時の初任給は300〜500円でしたので、現在の価値に換算すると、5円札は2000円程度の価値になるでしょう。

旧紙幣を使えなくした代わりに新しい紙幣が程なくして発行されました新しく発行されたのは100円札・10円札・5円札・1円札の4種類です。100円札には聖徳太子、1円札には二宮尊徳の肖像が、それぞれ印刷されました。それらの紙幣はA号券と呼ばれ、今でも使用することができます。

\次のページで「3.証紙を発行」を解説!/

次のページを読む
1 2
Share: