天下統一をなしとげた豊臣秀吉。日本に飽き足らず海外へ野望を向け、明を征服しようと目論みた。これが朝鮮出兵です。

自らを追い詰めた朝鮮出兵の真の目的ははっきりとは分かっていない。そこでさまざまな仮説と共に、朝鮮出兵の実態について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。最近は韓流ドラマにハマっている。そこでドラマのなかで取り上げられることもある豊臣秀吉の朝鮮出兵について調べてみた。

朝鮮出兵はどうして行われたのか

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天下統一をなしとげた豊臣秀吉は、朝鮮を服従させようと朝鮮に2回にわたって出兵します。1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれました。朝鮮出兵は2回とも失敗で豊臣政権の弱体化を招き、結果的に徳川家康の力を強めました。

豊臣秀吉が生きた時代

室町時代は戦国時代と共に下剋上の時代とも呼ばれます。下剋上とは階級の下の者が権力の座に着くこと。農民出身の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が天下人になったことが代表的な事例です。秀吉は戦乱続きの天下を統一。関白にまで上り詰め、野望を海外に向けるようになりました。秀吉の主君である織田信長は、中国大陸侵略の野心をもっていました。それを身近で見ていた秀吉は信長の夢を実現させようと思ったという説もあります。

当時、海外の大国といえば明。明の力は国内の混乱により弱まっており、ヨーロッパの強国が明の征服を虎視眈々と狙っていました。当時のヨーロッパは大航海時代。海を渡ってアジアにおける覇権を目指します。日本もそのような世界情勢の最中にありました。

そのような世界情勢から秀吉はヨーロッパ列強に先手を打って明を狙ったという説もあります。しかしながら真意は本人にしか分かりません。秀吉の時代は、鉄砲がもたらされ、キリスト教の宣教師たちが多数やってきました。秀吉はヨーロッパ文明の流入を利用しつつも警戒していたのでしょう。

朝鮮出兵を通じた秀吉の野心

鉄砲がもたらされたことで今までの個人戦だった戦闘は集団戦闘に代わりました。鉄砲を作る土地、人、資金を持っている者が勝者。日本中を支配することが可能となりました。秀吉はヨーロッパ文明とキリスト教の力が強大であることを認識していました。だからこそヨーロッパに負けてはならないという焦燥感と対抗意識があったのではないでしょうか。

名門大名たちとは異なり農民の出身というルーツにコンプレックスを抱いていた秀吉。天下統一の総仕上げとして、帝を大帝国明に行幸させるという野望を抱きました。それをなしとげてこそ天下の覇者。帝をも支配することができると思ったのでしょうか。あくまで推測です。

朝鮮出兵に対する取り巻きの本音

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豊臣政権の内部でも、武力で明や朝鮮を征服することに反対する武将たちもいました。しかしながら誰も秀吉に物申すことはできません。秀吉は朝鮮に対して「日本へ服従すること、明への道案内をすること」を命令。当然のことながら拒否されました。そこで武力で服従させるために朝鮮に出兵したのです。

朝鮮出兵することの大名たちの本心

秀吉は1591年に出兵するための船を作り、九州や西国の諸大名たちに兵を集めることを命じます。遠征の本拠地として選ばれたのが肥前国松浦郡の名護屋。現在の佐賀県唐津市です。拠点として名護屋城が築かれました。大坂城に次ぐ大きな城で、そこに20万人の兵を集めさせました。秀吉は養子の秀次に関白の座を譲り明を攻めることに集中。大名たちの経済的そして人的負担は相当なものでした。

日本の国土は限られています。そのため広大な土地を手にしないと、多数の大名たちが納得する土地を恩賞として分け与えることはできません。だからこそ秀吉は明の土地に惹かれたのでしょう。大名たちのなかにも明の征服により土地が得られると期待する者もいました。

徳川家康は「太閤秀吉さまに命令されたとおり関東で城作りに励んでいます。そのために多くの人手が必要です」と言い訳をし、朝鮮に出兵しませんでした。秀吉も、家康が朝鮮出兵して功を立てたら大きな力を得ることになると考え、出兵を強いませんでした。結果を見ると家康のほうが上手だったと言っていいでしょう。

帝は朝鮮出兵をどうとらえていたのか?

時の天皇である後陽成天皇はまだ20歳ほど。秀吉に「明の北京に皇居を作り明の皇帝としてさしあげます」と言われ、出兵を前に北京行幸の随行員の名簿を作っていました。秀吉を信じ頼り切っていたことが分かります。秀吉が自ら兵を率いて朝鮮に渡ると言い出した時は泣いて止めました。

後陽成天皇の本心については異なる見解をする研究者もいます。後陽成は明の皇帝になるつもりはなかったものの、さまざまな形で圧力をかけられたため仕方なく賛成したという見方です。秀吉の死後は、秀吉の影響が少ない皇子に天皇の地位を譲位しようと画策。家康に反対され、中立的だった第三皇子に譲位しました。

朝鮮出兵に関わった武将たち

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Tsukioka Yoshitoshi - http://www.thecoolture.com/earth/animal-friendly/the-tiger-in-asian-art/, パブリック・ドメイン, リンクによる

大名たちの朝鮮出兵に対する反応は2つに分れます。武勲を挙げようと競って朝鮮に渡る者もいれば、要領よく秀吉に調子を合わせるだけで実際には派兵しなかった者もいました。

\次のページで「朝鮮出兵で名をはせた加藤清正」を解説!/

朝鮮出兵で名をはせた加藤清正

第一陣の指揮官である小西行長と加藤清正は競って先陣争いをしました。加藤清正は身長190センチの大男。愛馬も体の高さが2メートル近い大きさだったと伝えられています。山に陣営を構えているときにトラが軍馬を襲撃。清正に仕えている小姓も命を落としました。そこで清正はトラを退治することを決断。清正は自ら鉄砲でトラを仕留めました。

現地でトラを射とめた加藤清正の勇猛さが耳に入ったとき、秀吉は興奮で武者震いしたと言われています。加藤清正はトラを退治したという逸話により、勇猛な武将として讃えられてきました。ちなみに現在は、他の国に乗り込んで貴重な動物を殺して毛皮にすることは許されません。

豊臣政権の後を見据えた徳川家康

朝鮮に兵を出さなかった家康たちの本心は分かりません。秀吉が戦死でもしたら、自分たちの得にならないと考えたのかもしれません。あるいは、秀吉にもう少し生きていてもらわないと自分が上に立つタイミングが狂うと思った可能性もあります。

いずれにせよ大名や武将たちは豊臣政権の後を見据え、出兵するかどうかを判断していました。秀吉に意見できる者は誰もおらず、秀吉が好き放題できる状況でした。とはいえ内心は、朝鮮出兵が豊臣政権の崩壊を早めるのではないかと危惧していたと思われます。

1回目の朝鮮出兵

第一回目の文禄の役では、実際に船に乗って朝鮮に渡った兵士は15万人から20万人。朝鮮ではこの文禄の役は『壬辰の倭乱』と呼ばれました。和人が乱入してきたという意味です。

日本の武力をアピールした文禄の役

朝鮮国王は今のソウルである首都漢城(ハンソン)を放棄。明に援軍を求めます。残った王子は韓流ドラマでさまざまな形で描かれている悲劇の主人公光海君。ひとり戦場に残って日本軍と闘いました。この出来事はのちに、恋愛、確執、民衆との連携と裏切りなどと絡めて、波乱万丈のドラマを生み出しました。

序盤は朝鮮側の乱れに乗り日本の大勝利。加藤清正は朝鮮の2人の王子を捕虜にして漢城を占領。さら破竹の勢いで進軍します。ところが水軍が反撃に出て日本兵の補給路を断ち、明の援軍と共に日本軍を次々に撃破しました。日本兵は十分に食糧を補給できず瞬く間に体力を消耗。また明へ行く道も分からなくなり戦意を消失していきました。

講和交渉の決裂

朝鮮で闘っていた大名たちのあいだには厭戦気分が高まり、撤退に漕ぎつけようと画策し始めます。秀吉はひとまず休戦することを決定。日本兵は朝鮮から引き上げました。参戦した諸大名たちは多数の宝物、仏像、経典、陶磁器を作る陶工、印刷の技術者、朱子学の学者たちを強制連行しました。

そのようななか対馬藩は独自で朝鮮と国交を回復しようとしていました。また、講和交渉にたくさんの数の大名たちが奔走。その成果もあり、朝鮮と明から何度も使者が名護屋城や京都に送られてきました。しかしながら秀吉自身は明に出向くことはなし。小西や加藤ら武将たちが駆け回り、ようやく名護屋城で明の使者と秀吉が対面するに至りました。

秀吉が出した条件は、朝鮮半島の各地に城をつくること、豊臣方の大名たちを城主にすること、明の皇帝の娘を日本の皇室に嫁がせること、朝鮮の南半分を日本に譲渡することなどでした。しかし明はそれらすべてを拒否するのみならず、秀吉を日本国の国王に任命すると臣下扱いしました。それに対して秀吉が激怒。明との交渉は決裂しました。

\次のページで「2回目の朝鮮出兵」を解説!/

2回目の朝鮮出兵

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明を征服する野望を捨てられない秀吉は二回目の派兵を計画。このときも秀吉に意見を言う者はいませんでした。秀吉に何かと物申していた千利休は秀吉によって切腹を強いられたことも影響したのでしょう。多くの大名たちは様子を見るだけでした。

慶長の役の最中に豊臣秀吉が亡くなる

秀吉は1597年に大軍団を組んで朝鮮に送りました。それが慶長の役です。徳川家康は自分の力を温存するためか、自分の兵を派遣しませんでした。朝鮮出兵を巡る豊臣政権内部の対立を利用して、自分が天下人になることを目指していました。

最初から日本軍は苦戦。しかも戦争の首謀者である秀吉が病死してしまいます。朝鮮に渡っていた兵士たちはひとまず帰国。豊臣政権は崩壊の危機を迎えます。秀頼と生母である淀君は家康に政権を移譲することを拒否。大坂城に籠ります。そこで家康は大坂城を大砲で攻撃し豊臣軍を全滅させました。

加藤清正の華麗なる転身

朝鮮出兵で活躍した加藤清正は秀吉が亡くなったあとは家康に接近。関ヶ原の闘いでは九州で西軍勢と戦って功績をあげます。恩賞として小西行長の旧領であった肥後半国を得ました。その結果、江戸幕府が誕生したあとは熊本藩主になりました。

加藤清正は関ヶ原の戦いに直接かかわることを志望。しかしながら島津家の内乱に関わり家康を激怒させ、関ヶ原の戦いに参戦できませんでした。しかしながら九州でしっかり役目を果たし家康に許されます。トラを仕留めたという逸話によりその名を知らしめた清正。豊臣秀吉から徳川家康に上手く乗り換えていることから、世渡りの上手な武将という一面もあるようですね。

加藤清正が九州で戦ったのは朝鮮出兵で先陣争いを繰り広げた小西行長。彼はアウグスティヌスという洗礼名を持つキリシタン大名でもありました。家康側の加藤清正との戦いに敗れて最後は取り押さえられます。このようなとき武将は自害するのが流れですが、キリスト教は自殺は禁止。そのため切腹に応じず、斬首により命を落としました。

日本文化に大きな影響を与えた朝鮮出兵

朝鮮出兵は拉致という形で大陸の文化を伝播させました。このような形での文化の伝播はあってはならないもの。朝鮮内での焼き物や印刷技術は大きく停滞し、戦禍を受けた人々の生活も疲弊します。さらに朝鮮出兵は16世紀における世界最大規模の戦争だったこともあり明も国力を喪失。やがて滅びていきました。日本もまた豊臣政権は崩壊。朝鮮出兵は誰も得しない戦争だったのかもしれません。

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アジアの歴史中国史安土桃山時代戦国時代日本史江戸時代

明の征服を目指す豊臣秀吉の「朝鮮出兵」その実態と影響を元大学教員が簡単に分かりやすく解説

天下統一をなしとげた豊臣秀吉。日本に飽き足らず海外へ野望を向け、明を征服しようと目論みた。これが朝鮮出兵です。

自らを追い詰めた朝鮮出兵の真の目的ははっきりとは分かっていない。そこでさまざまな仮説と共に、朝鮮出兵の実態について、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。最近は韓流ドラマにハマっている。そこでドラマのなかで取り上げられることもある豊臣秀吉の朝鮮出兵について調べてみた。

朝鮮出兵はどうして行われたのか

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天下統一をなしとげた豊臣秀吉は、朝鮮を服従させようと朝鮮に2回にわたって出兵します。1回目は文禄の役、2回目は慶長の役と呼ばれました。朝鮮出兵は2回とも失敗で豊臣政権の弱体化を招き、結果的に徳川家康の力を強めました。

豊臣秀吉が生きた時代

室町時代は戦国時代と共に下剋上の時代とも呼ばれます。下剋上とは階級の下の者が権力の座に着くこと。農民出身の木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が天下人になったことが代表的な事例です。秀吉は戦乱続きの天下を統一。関白にまで上り詰め、野望を海外に向けるようになりました。秀吉の主君である織田信長は、中国大陸侵略の野心をもっていました。それを身近で見ていた秀吉は信長の夢を実現させようと思ったという説もあります。

当時、海外の大国といえば明。明の力は国内の混乱により弱まっており、ヨーロッパの強国が明の征服を虎視眈々と狙っていました。当時のヨーロッパは大航海時代。海を渡ってアジアにおける覇権を目指します。日本もそのような世界情勢の最中にありました。

そのような世界情勢から秀吉はヨーロッパ列強に先手を打って明を狙ったという説もあります。しかしながら真意は本人にしか分かりません。秀吉の時代は、鉄砲がもたらされ、キリスト教の宣教師たちが多数やってきました。秀吉はヨーロッパ文明の流入を利用しつつも警戒していたのでしょう。

朝鮮出兵を通じた秀吉の野心

鉄砲がもたらされたことで今までの個人戦だった戦闘は集団戦闘に代わりました。鉄砲を作る土地、人、資金を持っている者が勝者。日本中を支配することが可能となりました。秀吉はヨーロッパ文明とキリスト教の力が強大であることを認識していました。だからこそヨーロッパに負けてはならないという焦燥感と対抗意識があったのではないでしょうか。

名門大名たちとは異なり農民の出身というルーツにコンプレックスを抱いていた秀吉。天下統一の総仕上げとして、帝を大帝国明に行幸させるという野望を抱きました。それをなしとげてこそ天下の覇者。帝をも支配することができると思ったのでしょうか。あくまで推測です。

朝鮮出兵に対する取り巻きの本音

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豊臣政権の内部でも、武力で明や朝鮮を征服することに反対する武将たちもいました。しかしながら誰も秀吉に物申すことはできません。秀吉は朝鮮に対して「日本へ服従すること、明への道案内をすること」を命令。当然のことながら拒否されました。そこで武力で服従させるために朝鮮に出兵したのです。

朝鮮出兵することの大名たちの本心

秀吉は1591年に出兵するための船を作り、九州や西国の諸大名たちに兵を集めることを命じます。遠征の本拠地として選ばれたのが肥前国松浦郡の名護屋。現在の佐賀県唐津市です。拠点として名護屋城が築かれました。大坂城に次ぐ大きな城で、そこに20万人の兵を集めさせました。秀吉は養子の秀次に関白の座を譲り明を攻めることに集中。大名たちの経済的そして人的負担は相当なものでした。

日本の国土は限られています。そのため広大な土地を手にしないと、多数の大名たちが納得する土地を恩賞として分け与えることはできません。だからこそ秀吉は明の土地に惹かれたのでしょう。大名たちのなかにも明の征服により土地が得られると期待する者もいました。

徳川家康は「太閤秀吉さまに命令されたとおり関東で城作りに励んでいます。そのために多くの人手が必要です」と言い訳をし、朝鮮に出兵しませんでした。秀吉も、家康が朝鮮出兵して功を立てたら大きな力を得ることになると考え、出兵を強いませんでした。結果を見ると家康のほうが上手だったと言っていいでしょう。

帝は朝鮮出兵をどうとらえていたのか?

時の天皇である後陽成天皇はまだ20歳ほど。秀吉に「明の北京に皇居を作り明の皇帝としてさしあげます」と言われ、出兵を前に北京行幸の随行員の名簿を作っていました。秀吉を信じ頼り切っていたことが分かります。秀吉が自ら兵を率いて朝鮮に渡ると言い出した時は泣いて止めました。

後陽成天皇の本心については異なる見解をする研究者もいます。後陽成は明の皇帝になるつもりはなかったものの、さまざまな形で圧力をかけられたため仕方なく賛成したという見方です。秀吉の死後は、秀吉の影響が少ない皇子に天皇の地位を譲位しようと画策。家康に反対され、中立的だった第三皇子に譲位しました。

朝鮮出兵に関わった武将たち

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Tsukioka Yoshitoshi – http://www.thecoolture.com/earth/animal-friendly/the-tiger-in-asian-art/, パブリック・ドメイン, リンクによる

大名たちの朝鮮出兵に対する反応は2つに分れます。武勲を挙げようと競って朝鮮に渡る者もいれば、要領よく秀吉に調子を合わせるだけで実際には派兵しなかった者もいました。

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