
亀戸事件はなぜ関東大震災直後に発生した?その理由を類似する甘粕事件との違いとともに行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説
関東大震災の発生から2〜3日後に起きたのが、今回解説する亀戸事件です。100年前に起きたその事件で10名もの犠牲者を出したが、明らかになっていない部分がとても多い。なぜそのようなことになっているのでしょうか。
亀戸事件が発生した理由などを、類似する甘粕事件とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
死者と行方不明者は合わせて10万人以上
関東大震災は、1923(大正12)年9月1日の正午前に発生しました。震源地は神奈川県西部、最大震度は7、マグニチュード7.9の非常に大規模な地震でした。地震の揺れは北海道から中四国まで観測され、全国各地に津波が押し寄せました。茨城・千葉から静岡・山梨まで、関東大震災の被害は広範囲に及んでいます。
関東大震災による被害が拡大した原因は、地震が発生した時間にありました。ちょうどお昼の時間だったために火を使う機会が多く、火災が各地で発生したのです。震災による死者と被害者は、合わせて推定10万人以上。関東大震災は、明治・大正時代の日本で最も大きな被害を生んだ地震となったのです。
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組閣されたばかりの第2次山本権兵衛内閣が対応
関東大震災への対応をした当時の政府は、第2次山本権兵衛内閣でした。しかし、加藤友三郎前首相が病気のため関東大震災の1週間ほど前に亡くなり、その後任が山本権兵衛に決まったばかりだったのです。関東大震災の翌日、1923(大正12)年9月2日に第2次山本内閣は成立。間もなく震災対応に着手しました。
第2次山本内閣が成立した当日に、首都圏の戒厳令が発出されます。帝都復興院を設置して後藤新平内務大臣が総裁に就任すると、内閣は首都圏の復興に注力しました。しかし、予算が確保できなかったため、復興は思ったようには進みませんでした。さらに、亀戸事件などが発生して、震災直後の首都圏は混迷を極めました。
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