この記事では仙台城と青葉城の違いについてみていきます。結論から言うとどちらも同じ城を表していて、正式名称と通称の違いがあるだけです。正式名称は仙台城で、メディアでも使われることが多い。青葉城は仙台市などの地元の人々から親しまれている呼び方です。城主の伊達政宗のこと、建造当初や現在の状態も歴史好きライターYunaと一緒に解説していきます。

ライター/Yuna

現役ママライターのYuna。仙台に行ったら牛タンが食べたくなる。「今すぐ使える雑学」をコンセプトに解説していく。

仙台城と青葉城のざっくりとした違い

仙台城は宮城県仙台市青葉区にあるお城です。1601年に伊達政宗によって築城され、現在の仙台市を一望できる青葉山の標高約130メートルの場所にあります。

2003年に国の指定文化財「仙台城跡」と認定されるまで、青葉城の呼称で親しまれてきました。現在の仙台城は石垣が残るのみで寂しい印象がありますが、石垣の保存状態が良く歴史的価値も高い近世を代表する城跡なんです。

仙台城はどんなお城?

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現在の仙台城は城郭が残っていませんが、健在だった頃の仙台城は約2万坪という広大な敷地を誇っていました。当時の仙台城は標高が高い青葉山に築城され、森や川などに囲まれた自然の要塞だったのです。

そんな仙台城を建てさせた伊達政宗は、2つの理由から天守閣を建てませんでした。天守閣の建築には莫大な費用がかかる上に、戦国の世を平定した徳川幕府から警戒されないためだったと言われています。

初代仙台藩主の伊達政宗が建造したお城

現在の仙台市の繁栄は、伊達政宗による仙台城の築城によって始まりました。一般的なお城のイメージで浮かぶ天守閣は作らず、約600人ほど収容可能な大広間が中心に置かれます。高低差を補うために長い柱と貫などで固定する懸造りが施され、その他にも5つの櫓がありました。

伊達政宗は仙台城とともに城下町の発展にも着手。仙台藩の経済と食文化の発展にも貢献した功績から、武将だけでなく政治家としての側面も後世で評価されています。

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本丸跡に現存しているのは石垣のみ

青葉山頂上にある仙台城本丸跡の見どころは3つ。1つ目は大広間の跡地です。仙台城の中心にあった大広間の広さを体感できる跡地で、礎石が置かれて部屋割りなども再現されています。

2つ目は天守台。快晴なら仙台市と太平洋が、夜は石垣や伊達政宗公騎馬像のライトアップや仙台市の夜景を一望できます。3つ目は全長179メートルにおよぶ石垣です。重厚な見た目ながらも美しい反りが特徴で、よく観察すると修復工事で復元された石垣とそれ以外の石の見た目が違うのがわかります。

仙台城にはどんな歴史がある?

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伊達政宗は関ヶ原の戦いの直後、徳川幕府に敵対関係にあった上杉氏に対抗するための砦を求めていました。関ヶ原の戦いが行われた1600年9月の翌年、1601年1月から仙台城の建築が着手されます。完成後の仙台城は政務や生活の拠点として、伊達の歴代藩主13人によって治められました。

明治時代には廃城令によって政府の管轄となった仙台城は本丸内を取り壊され、後の1882年の火災で敷地のほとんどが焼失しました。

上杉氏との合戦に備え建造

伊達政宗が仙台城を建造した理由は、徳川幕府と緊張関係にあった上杉氏との合戦に備えるためでした。攻めにくく守りやすい立地に青葉山が選ばれ、関ヶ原の戦いから約2年後には一応の完成を見せたといいます。伊達政宗の没後は2代目藩主の忠宗が青葉山の麓に二の丸を造営。幕末までの政務は二の丸中心に行われ、合戦に備えて築城した当初とは違う用途で利用されました。

廃城令と焼失が重なり現在の姿に

仙台城が現在の石垣のみ残る姿になるまで、3つの経緯に分けられます。1873年に明治政府から廃城令が布告され、本丸が取り壊しに。仙台城を含めて全国で43城が対象になりました。次に1882年、二の丸付近で火災が発生。ほとんどの建物が焼失する被害が及びます。

そして1945年の太平洋戦争中、アメリカ軍が仙台を空襲しました。空襲によって大手門や脇櫓、三の丸付近が焼失。明治政府の廃城令と焼失を繰り返し、現在の仙台城跡地になったのです。

仙台城のアクセスと周辺観光スポット

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仙台市を訪れたら、観光は外せませんよね。仙台城跡や周辺スポットには歴史や自然を感じられる場所が豊富です。

仙台城跡は約17メートルの高さを誇る石垣は迫力満点。地震で一部損壊し、修復されたばかりの伊達政宗の騎馬像も見逃せません。仙台城跡の周辺スポットでは仙台市緑の名所に数えられる青葉山公園や、自然植生のモミの林が残る東北大学植物園など自然に癒やされるスポットが満載です。

\次のページで「仙台城跡に行くなら観光バスるーぶる仙台で」を解説!/

仙台城跡に行くなら観光バスるーぶる仙台で

仙台駅から仙台城までのアクセスは、観光シティループバス「るーぶる仙台」がおすすめ。臨時停留所の「仙台城跡」で下車すれば約26分で到着します。仙台城の他にも、仙台市中心部の観光スポットをめぐるのに最適です。1日乗車券を購入すると、沿線に並ぶ施設で使える特典も。

仙台駅からの乗車は、西口を出てバスターミナルの16番のりばへ。「るーぷる仙台」のマークが入った赤いバス停と、レトロな見た目の車両が目印です。

仙台城跡周辺の伊達政宗縁の地

仙台城跡を訪ねるのに最適な観光バス、「るーぶる仙台」に揺られながら伊達政宗縁の地をめぐるコースを紹介します。

まずは仙台駅からバスで13分の瑞鳳殿前へ。70歳で生涯を閉じた伊達政宗が眠る霊屋で、豪華絢爛な廟建築を見ることができます。バス停に戻り約13分先の仙台城跡に立ち寄ったら、最後に大崎八幡宮前で下車しましょう。大崎八幡宮は伊達政宗によって建造され、国宝に指定された社殿や国の重要文化財に指定された長床などが見どころです。

仙台城へ行って伊達政宗縁の地をめぐろう

仙台城の城郭は残念ながら残されていません。自然豊かな青葉山に建てられた仙台城は、伊達家によって治められ仙台藩の政治の中心地でした。政府の管轄になったり火災で消失したり、歴史の流れとともに姿を変えていった仙台城。後に敷地内に建てられた神社や植物園、博物館をめぐれば歴史や自然を感じられます。青葉山の頂上に連なる跡地で仙台市を一望すれば、当時の伊達政宗が見た景色が味わえるかもしれませんね。

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簡単でわかりやすい仙台城と青葉城の違い!伊達政宗公騎馬像が目印?歴史好きライターが詳しく解説

この記事では仙台城と青葉城の違いについてみていきます。結論から言うとどちらも同じ城を表していて、正式名称と通称の違いがあるだけです。正式名称は仙台城で、メディアでも使われることが多い。青葉城は仙台市などの地元の人々から親しまれている呼び方です。城主の伊達政宗のこと、建造当初や現在の状態も歴史好きライターYunaと一緒に解説していきます。

ライター/Yuna

現役ママライターのYuna。仙台に行ったら牛タンが食べたくなる。「今すぐ使える雑学」をコンセプトに解説していく。

仙台城と青葉城のざっくりとした違い

仙台城は宮城県仙台市青葉区にあるお城です。1601年に伊達政宗によって築城され、現在の仙台市を一望できる青葉山の標高約130メートルの場所にあります。

2003年に国の指定文化財「仙台城跡」と認定されるまで、青葉城の呼称で親しまれてきました。現在の仙台城は石垣が残るのみで寂しい印象がありますが、石垣の保存状態が良く歴史的価値も高い近世を代表する城跡なんです。

仙台城はどんなお城?

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現在の仙台城は城郭が残っていませんが、健在だった頃の仙台城は約2万坪という広大な敷地を誇っていました。当時の仙台城は標高が高い青葉山に築城され、森や川などに囲まれた自然の要塞だったのです。

そんな仙台城を建てさせた伊達政宗は、2つの理由から天守閣を建てませんでした。天守閣の建築には莫大な費用がかかる上に、戦国の世を平定した徳川幕府から警戒されないためだったと言われています。

初代仙台藩主の伊達政宗が建造したお城

現在の仙台市の繁栄は、伊達政宗による仙台城の築城によって始まりました。一般的なお城のイメージで浮かぶ天守閣は作らず、約600人ほど収容可能な大広間が中心に置かれます。高低差を補うために長い柱と貫などで固定する懸造りが施され、その他にも5つの櫓がありました。

伊達政宗は仙台城とともに城下町の発展にも着手。仙台藩の経済と食文化の発展にも貢献した功績から、武将だけでなく政治家としての側面も後世で評価されています。

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