
野上弥生子と夏目漱石はどのような関係だった?野上弥生子の生涯や代表作とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
1.『海神丸』
野上弥生子という名前が世に知れ渡るきっかけとなった作品が『海神丸』です。1922(大正11)年に発表されると、たちまち評判となりました。実際に発生した海難事故を作者が自ら取材して、『海神丸』という作品のベースにしています。文庫本では70ページほどしかない作品ですが、それを感じさせない迫力があると評判です。
物語は、題名と同じ名前の小さな帆船の中で進みます。嵐にあった海神丸は難破して、太平洋の上を数十日間漂流。食料が尽きた船長以下4名は限界を迎え、その中からありえないことを思い付く者が現れます。『海神丸』は、追い込まれた人間が見境ない行動に出る恐ろしさを描いた傑作です。
2.『大石良雄』
大石良雄は播磨赤穂藩の家老で、吉良邸討ち入りでは中心的役割を果たしました。「大石内蔵助」という名前で覚えている人も多いでしょう。大石内蔵助(良雄)を始めとする赤穂四十七士は、多くの作品でモチーフになりました。1926(昭和元)年の野上弥生子作『大石良雄』も、その1つに含まれます。
ただし、野上弥生子が書いた大石内蔵助は、英雄然とした大石内蔵助ではありませんでした。大石良雄という1人の人間として、思い悩み苦しむ姿が描かれています。武士としての責任と人生への打算との間で、大石は板挟みになるのです。等身大の大石内蔵助が描かれた『大石良雄』は、これまで多くの人に親しまれてきました。
3.『真知子』
『真知子』は1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて執筆されました。当時はプロレタリア文学が流行していましたが、野上弥生子の『真知子』はそのことに背を向けていたかのような作品です。主人公の真知子は、今の言葉にすれば「セレブ」とでもいえるでしょう。
昭和初期と現代とでは価値観が大きく変わりましたが、主人公は自由奔放なお嬢様として描かれています。しかし、結婚や社会問題で悩む、1人の女性として共感できるようにもなっているのです。『真知子』は発表当初、多くの若者の共感を呼び、支持されました。
1.『迷路』
『迷路』は野上弥生子の代表作ともいえる長編で、1949(昭和24)年から1956(昭和31)年まで雑誌で連載されていました。しかし、『迷路』はそれ以前から執筆が始まっていたのです。1936(昭和11)年から執筆されていましたが、戦争のために中断。戦後に執筆が再開され、20年かけてようやく完結しました。
『迷路』は左翼運動から転向した若い男が主人公です。軍歌の足音が近付きつつある中で日常を過ごし、やがて戦争に巻き込まれるまでを壮大なスケールで描いています。戦争に向き合う日本人をつぶさに描いた『迷路』は、戦争文学の最高峰と称賛する人がいるほどの大作です。
2.『秀吉と利休』
『秀吉と利休』は、題名の通り豊臣秀吉と千利休という、歴史上実在した2人の人物について著したものです。この作品で野上弥生子は女流文学賞(現在は終了)を受賞しましたが、その時すでに79歳でした。驚くべきは、それからさらに20年も作家生活を続けたことです。
『秀吉と利休』の舞台となっている時期は、千利休の晩年。天下人として我が春を謳歌する秀吉と、あくまでも茶道を追求する利休とが、対照的に描かれています。そして、秀吉がなぜ利休に切腹を命じたのか、興味を持って読み進められるでしょう。政治と芸術という、相反するものを緻密に表現した作品となっています。
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3.『森』
野上弥生子が最後に書いた作品が『森』で、完結せずに絶筆しました。野上弥生子は99歳まで生きたので、『森』は100歳を直前に迎えた作家によって書かれた作品ということになります。その事実を抜きにしても、『森』は若い女性の生き方を瑞々しく描いた傑作です。
『森』は1985(昭和60)年まで書かれた作品でしたが、1900(明治33)年の東京が舞台となっています。野上弥生子にとっては、ちょうどその頃が10代半ばだったため、主人公の女性とは重なる部分があったでしょう。虚構の人物だけでなく、実在した人物も物語に加わることで、当時の社会や文化がより深く描写されています。
夏目漱石の教えを受けた野上弥生子は80年以上作家として活躍した
野上弥生子は夫の野上豊一郎を通じて、夫の師である夏目漱石と関わりを持つようになります。夏目漱石が彼女の作品を高く評価したことがきっかけで、野上弥生子は文壇デビューを果たしました。以来、80年の長きに渡り、野上弥生子は作家生活を貫き通したのです。夏目漱石から贈られた、「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」という言葉を、彼女は終生大切にしたと伝えられます。