今回は、野上弥生子について学んでいこう。

野上弥生子は昭和60年まで作家として活動していた。しかし、彼女が夏目漱石と関わりがあったと聞けば、驚く人は多いでしょう。夏目漱石といえば、明治時代の文豪というイメージが強いからな。

野上弥生子と夏目漱石はどのような関係だったのか、彼女の生涯や代表作とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

野上弥生子はどのような作家だったのか

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はじめに、野上弥生子はどのような作家だったのか、改めて見ていくことにしましょう。

作家生活は80年以上に及ぶ

野上弥生子(のがみやえこ)1885(明治18)年に大分県臼杵市で生まれました文壇デビューは1907(明治40)年発表の『縁』。それ以降、1985(昭和60)年に亡くなるまで作品を世に送り出し続けました。デビュー前も含めると、野上弥生子の作家生活は80年以上にも及びます。

野上弥生子の作品に見られるのは幅広い社会的視野と文化的な教養ですそれらを写実的に表現し知的に物語を進めていますヒューマニズムを鮮明に描き続けたことが評価され1971(昭和46)年には文化勲章を受章。野上弥生子の作品は、今も人々の興味を惹き付けて離しません。

実家は醤油メーカー

野上弥生子の実家は江戸時代より続く醸造所でした。その醸造所は、現在ではフンドーキン醤油という、西日本でトップシェアを誇る醤油メーカーに成長しています。野上弥生子の作品には醸造所が実家である主人公が登場するものもありますが間違いなく野上弥生子の実家をモチーフにしていたでしょう

野上弥生子の作品に影響を与えた人物として夫である野上豊一郎の存在は欠かせません野上豊一郎は英文学者で能楽にも秀でていました。野上弥生子の作品には能が取り上げられることもありましたが、夫から知見を得ていたと見て間違いありません。

野上弥生子と夏目漱石の関係は?

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では、野上弥生子と夏目漱石には、どのような関係があったのでしょうか。

夫を通じて指導を仰ぐ

野上弥生子の夫である野上豊一郎は夏目漱石の門下生でした。野上弥生子が夏目漱石と直接会う機会は少なかったそうですが、書簡を通じて指導を仰いだようです。そして、夏目漱石からの推薦を受け1907(明治40)年に『縁』を雑誌『ホトトギス』に発表。文壇デビューを果たしました。

また、1913(大正2)年には野上弥生子が創作の合間にギリシャ神話やローマ神話を翻訳したものが出版されました『伝説の時代』という題名が付けられその序文は夏目漱石によるものです。現在では、『ギリシア・ローマ神話』という題名で読むことができます。

\次のページで「「漫然として年をとるべからず」」を解説!/

「漫然として年をとるべからず」

野上弥生子が作家としてデビューする前に書いた作品を夏目漱石に見てもらったことがありました。その返事は長い手紙として書かれ、中にはこのような言葉があったのです。「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず文学者として年をとるべし」と記されていました。

普段の生活でも油断してはならない。常に研鑽を続けて、作家としての意識を持って何事にも注目せよ、といった意味になるでしょう。その手紙の後程なくして野上弥生子は文壇デビューを迎えました。そして、夏目漱石から贈られた言葉を終生大切にしてきたそうです

家族思いだった野上弥生子

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ところで、野上弥生子はとても家族を大切にしていたようです。そんな彼女の人柄が分かるエピソードを、2つほど紹介していきましょう。

家事の合間に執筆活動

野上弥生子が長きに渡って作家生活を続けられたのは無理のない執筆ペースを守っていたからかもしれません。彼女は多くの長編小説を残しましたが、毎日200字詰め原稿用紙で2〜3枚多くて5〜6枚までしか書かなかったそうです。あくまでも自分のペースを守り続けていました。

そうせざるをえなかったのは3人の子供を産んで育てたからでもあるでしょう家事や子育てにも一切妥協せずそのような環境でも執筆や勉強の時間を確保していたのです。毎日の忙しい合間を縫って、野上弥生子は自らの筆で、次々と名作を生み出していました。

三つの訓

野上弥生子の実家であるフンドーキン醤油株式会社には今も「三つの訓」が受け継がれています。もともとは、野上弥生子が、弟で創業者の息子である小手川金次郎に贈った言葉です。「お味噌の味は良いですか」「お給料は充分に払えていますか」「銀行の借入金は全部返しましたか」といったものとなっています。

はじめに味噌の味を問うたのはおそらく「家業を大事にしなさい」という姉からの戒めでしょう。会社の借入金よりも先に従業員の給料を案じたのは、細やかな気遣いができる野上弥生子らしいともいえます。「三つの訓」を記した書は今でも会社に飾られているようです

戦前に書かれた野上弥生子の作品

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ここからは、戦前に書かれた野上弥生子の作品を3つ紹介しましょう。

\次のページで「1.『海神丸』」を解説!/

1.『海神丸』

野上弥生子という名前が世に知れ渡るきっかけとなった作品が『海神丸』です。1922(大正11)年に発表されるとたちまち評判となりました実際に発生した海難事故を作者が自ら取材して『海神丸』という作品のベースにしています。文庫本では70ページほどしかない作品ですが、それを感じさせない迫力があると評判です。

物語は、題名と同じ名前の小さな帆船の中で進みます。嵐にあった海神丸は難破して太平洋の上を数十日間漂流食料が尽きた船長以下4名は限界を迎えその中からありえないことを思い付く者が現れます。『海神丸』は、追い込まれた人間が見境ない行動に出る恐ろしさを描いた傑作です。

2.『大石良雄』

大石良雄は播磨赤穂藩の家老で吉良邸討ち入りでは中心的役割を果たしました。「大石内蔵助」という名前で覚えている人も多いでしょう。大石内蔵助(良雄)を始めとする赤穂四十七士は多くの作品でモチーフになりました1926(昭和元)年の野上弥生子作『大石良雄』もその1つに含まれます

ただし、野上弥生子が書いた大石内蔵助は英雄然とした大石内蔵助ではありませんでした。大石良雄という1人の人間として、思い悩み苦しむ姿が描かれています。武士としての責任と人生への打算との間で大石は板挟みになるのです。等身大の大石内蔵助が描かれた『大石良雄』は、これまで多くの人に親しまれてきました。

3.『真知子』

『真知子』は1928(昭和3)年から1930(昭和5)年にかけて執筆されました。当時はプロレタリア文学が流行していましたが、野上弥生子の『真知子』はそのことに背を向けていたかのような作品です。主人公の真知子は今の言葉にすれば「セレブ」とでもいえるでしょう

昭和初期と現代とでは価値観が大きく変わりましたが、主人公は自由奔放なお嬢様として描かれています。しかし、結婚や社会問題で悩む1人の女性として共感できるようにもなっているのです。『真知子』は発表当初、多くの若者の共感を呼び、支持されました。

戦時中から戦後に書かれた野上弥生子の作品

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最後に、戦時中から戦後に書かれた、野上弥生子の作品を3つ紹介していきます。

1.『迷路』

『迷路』は野上弥生子の代表作ともいえる長編で1949(昭和24)年から1956(昭和31)年まで雑誌で連載されていました。しかし、『迷路』はそれ以前から執筆が始まっていたのです。1936(昭和11)年から執筆されていましたが戦争のために中断戦後に執筆が再開され20年かけてようやく完結しました

『迷路』は左翼運動から転向した若い男が主人公です軍歌の足音が近付きつつある中で日常を過ごしやがて戦争に巻き込まれるまでを壮大なスケールで描いています。戦争に向き合う日本人をつぶさに描いた『迷路』は、戦争文学の最高峰と称賛する人がいるほどの大作です。

2.『秀吉と利休』

『秀吉と利休』は題名の通り豊臣秀吉と千利休という歴史上実在した2人の人物について著したものですこの作品で野上弥生子は女流文学賞(現在は終了)を受賞しましたがその時すでに79歳でした。驚くべきは、それからさらに20年も作家生活を続けたことです。

『秀吉と利休』の舞台となっている時期は千利休の晩年天下人として我が春を謳歌する秀吉とあくまでも茶道を追求する利休とが対照的に描かれています。そして、秀吉がなぜ利休に切腹を命じたのか、興味を持って読み進められるでしょう。政治と芸術という相反するものを緻密に表現した作品となっています

3.『森』

野上弥生子が最後に書いた作品が『森』で完結せずに絶筆しました野上弥生子は99歳まで生きたので『森』は100歳を直前に迎えた作家によって書かれた作品ということになります。その事実を抜きにしても、『森』は若い女性の生き方を瑞々しく描いた傑作です。

『森』は1985(昭和60)年まで書かれた作品でしたが1900(明治33)年の東京が舞台となっています。野上弥生子にとっては、ちょうどその頃が10代半ばだったため、主人公の女性とは重なる部分があったでしょう。虚構の人物だけでなく実在した人物も物語に加わることで当時の社会や文化がより深く描写されています

夏目漱石の教えを受けた野上弥生子は80年以上作家として活躍した

野上弥生子は夫の野上豊一郎を通じて、夫の師である夏目漱石と関わりを持つようになります。夏目漱石が彼女の作品を高く評価したことがきっかけで、野上弥生子は文壇デビューを果たしました。以来、80年の長きに渡り、野上弥生子は作家生活を貫き通したのです。夏目漱石から贈られた、「もし文学者たらんと欲せば漫然として年をとるべからず、文学者として年をとるべし」という言葉を、彼女は終生大切にしたと伝えられます。

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現代社会

野上弥生子と夏目漱石はどのような関係だった?野上弥生子の生涯や代表作とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、野上弥生子について学んでいこう。

野上弥生子は昭和60年まで作家として活動していた。しかし、彼女が夏目漱石と関わりがあったと聞けば、驚く人は多いでしょう。夏目漱石といえば、明治時代の文豪というイメージが強いからな。

野上弥生子と夏目漱石はどのような関係だったのか、彼女の生涯や代表作とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

野上弥生子はどのような作家だったのか

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はじめに、野上弥生子はどのような作家だったのか、改めて見ていくことにしましょう。

作家生活は80年以上に及ぶ

野上弥生子(のがみやえこ)1885(明治18)年に大分県臼杵市で生まれました文壇デビューは1907(明治40)年発表の『縁』。それ以降、1985(昭和60)年に亡くなるまで作品を世に送り出し続けました。デビュー前も含めると、野上弥生子の作家生活は80年以上にも及びます。

野上弥生子の作品に見られるのは幅広い社会的視野と文化的な教養ですそれらを写実的に表現し知的に物語を進めていますヒューマニズムを鮮明に描き続けたことが評価され1971(昭和46)年には文化勲章を受章。野上弥生子の作品は、今も人々の興味を惹き付けて離しません。

実家は醤油メーカー

野上弥生子の実家は江戸時代より続く醸造所でした。その醸造所は、現在ではフンドーキン醤油という、西日本でトップシェアを誇る醤油メーカーに成長しています。野上弥生子の作品には醸造所が実家である主人公が登場するものもありますが間違いなく野上弥生子の実家をモチーフにしていたでしょう

野上弥生子の作品に影響を与えた人物として夫である野上豊一郎の存在は欠かせません野上豊一郎は英文学者で能楽にも秀でていました。野上弥生子の作品には能が取り上げられることもありましたが、夫から知見を得ていたと見て間違いありません。

野上弥生子と夏目漱石の関係は?

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では、野上弥生子と夏目漱石には、どのような関係があったのでしょうか。

夫を通じて指導を仰ぐ

野上弥生子の夫である野上豊一郎は夏目漱石の門下生でした。野上弥生子が夏目漱石と直接会う機会は少なかったそうですが、書簡を通じて指導を仰いだようです。そして、夏目漱石からの推薦を受け1907(明治40)年に『縁』を雑誌『ホトトギス』に発表。文壇デビューを果たしました。

また、1913(大正2)年には野上弥生子が創作の合間にギリシャ神話やローマ神話を翻訳したものが出版されました『伝説の時代』という題名が付けられその序文は夏目漱石によるものです。現在では、『ギリシア・ローマ神話』という題名で読むことができます。

\次のページで「「漫然として年をとるべからず」」を解説!/

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