
朝鮮通信使が滞在した清見寺と日光東照宮

今では朝鮮通信使の辿ったルートが顧みられることはほとんどありません。また韓国にも詳しい記録は残されていません。現在あるのは静岡の清見寺と日光の東照宮です。朝鮮通信使一行がどのように想いを馳せ、どのような志を秘めてこの地に滞在したのでしょうか。
1.清見寺
静岡市清水区にある清見寺は、古代においては清見が関の鎮護として、鎌倉以降は臨済宗の寺として栄えました。鎌倉時代に中国から禅宗が伝わると天台宗から禅宗に改めました。室町時代には足利尊氏から崇拝されていたものの、戦国時代には大きな戦禍を受けました。今川家の人質として幼少期を過ごした家康。勉学に励んだのが清見寺でした。今でも「手習いの部屋」が残っています。
鎖国政策を取っていた江戸時代。清見寺は朝鮮通信使と琉球通信使の一行を受け入れて善隣外交の窓口となりました。第一回目の朝鮮通信使が将軍秀忠に謁見したのち立ち寄ったのが清見寺。家康自ら接待。茶でもてなしたり、自ら舟を出したり、美保の松原鑑賞でもてなしたりしました。そのときは絢爛豪華な南蛮船も同行しました。
清見寺にはこのときに通信使が残した漢詩が残っています。それが蓬莱島、十洲、三山の3つ。ユートピアを意味する言葉と共に景色の素晴らしさと家康の接待を称えました。琉球通信使も清見寺を訪れ、琉球国王の王子が駿府城の家康に謁見した直後に亡くなると、清見寺の墓所に葬りました。
2.日光東照宮
朝鮮通信使は3回は日光東照宮を訪れました。東照宮が完成した直後で4代将軍家綱が誕生したころです。警備の人員を入れると1000人以上の大集団。日光の今市には通信使が宿泊するための豪華な施設をたてました。現在の今市には朝鮮通信使来日400年を記念する石碑が立てられています。
朝鮮側から東照宮へのお返しは鐘でした。それは「朝鮮の鐘」と呼ばれています。鐘の側面には「朝鮮国王が東照宮に収めるためのもの」と彫られました。さらに花瓶、香炉、燭台も納められました。この三つは1812年に火災で焼け、現存するのは日本で再現したものです。
実はソウルの世界遺産である「昌徳宮」から日本の世界遺産である「日光東照宮」までの朝鮮通信使の辿ったルートを世界遺産にするという動きが出ています。つまり世界遺産から世界遺産までのルートを世界遺産にする試みです。日本と韓国の政治状況は決していいとは言えません。
善隣外交のシンボルだった朝鮮通信使
朝鮮通信使は、江戸幕府の威厳を示すという一面は確かにありました。同時に情勢が目まぐるしく変わるなか安定した国家間交流を維持するためになくてはならないものでした。朝鮮通信使との交流があったからこそ、江戸幕府は長きにわたる政権を維持できたのでしょう。今、国家のあいだの衝突があちらこちらで勃発。朝鮮通信使が残したものを振り返ってみる価値は十二分にあるのではないでしょうか。