
朝鮮通信使がたどったルート

1392年に李成桂によって成立したのが朝鮮王朝。その朝鮮王朝の宮中において使節団の正使・副使・従事官の三使が国王に挨拶をしたあと、都がある現在のソウルである漢陽を出発。釜山浦へ下って永嘉台から乗船、日本の護送船団と合流して対馬へ向かいました。使節団を送る費用は朝鮮にとっても一歩間違えば国が亡びるほどの規模でした。
瀬戸内海経由で朝鮮通信使が来日
対馬、壱岐、現在の福岡県の筑前藍島を経て、現在の山口県下関市にあたる赤間関に到着。対馬藩や西国大名の護送船を加え大船団となり、瀬戸内海へ入ります。瀬戸内海ではペースダウン、港で潮待ちや風待ちをしながら大坂へ向かいました。そのあいだの生活費はすべて日本側が持ちました。
朝鮮側はその見返りとして多額の謝礼や珍しい品々を配ります。どちらの出費も相当なものとなりました。大坂に着くと使節団の船団関係者100人は大坂に残留。長旅で傷んだ船の修理をして帰りに備えました。
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江戸へ向かう朝鮮通信使
使節団は大坂で幕府が準備した川御座船に乗り、淀川をさかのぼり淀に上陸。京都、大津、草津、そして彦根へ向かいます。このとき利用する街道は当時、朝鮮人街道と呼ばれていました。そこを抜けたら中山道を経由して東海道へ入ります。
江戸では大名屋敷は大門を開け、美しい幕を垂らして待機。通路に臨んだ家々は、きらびやかな金屏風を立てて歓迎しました。これらはすべて徳川幕府の権威をアピールするためのもの。復路は同じルートを戻り、往復で半年にも及ぶ長旅を終えました。
ここで朝鮮の歴史について少し触れます。16世紀末、明国では農民の反乱が続発。国内は混乱していました。また1616年に中国東北部で後金(後の清国)が建国されるなど中国大陸の情勢は切迫。今まで明と友好関係を保っていた朝鮮では、明派と後金派に分かれ対立が激しくなり、日本とは友好関係を維持する必要性に迫られていました。
朝鮮通信使の財政的な限界
The artist is Tōei Hanegawa. Collection of The City of Kobe Museum of Art, the Hajime Ikenaga Gallery – Kobe City Museum 朝鮮通信使来朝図/xQEnum2m7ihcEA — Google アートプロジェクト and http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/077.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
これほど壮大な旅に使節団も幕府も莫大な費用を投入しました。幕府側の総額はおよそ100万両。それは幕府の年間予算70万両から80万両を上回る、国家予算を軽くオーバーするものでした。当時は幕府の威厳もあり反対する声はあがりませんでしたが、現実は限界までいっていたようです。
京都五山に与えた影響
壮大な幕府のセレモニーに諸大名は献身的に協力しました。異国からの大使節団から得ること、学ぶことが多かったからです。朝鮮人参、絹織物、虎の皮、筆、墨、生きた馬、鷹などは、大名から商人に至るまで憧れの品でした。朝鮮通信使は京都の寺院にも大きな影響を与えます。特に京都五山と呼ばれる臨済宗の寺社は、朝鮮通信使の影響を受けて、仏典のみならず儒学を研究するようになりました。
京都五山と称されるのが南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺。鎌倉時代から室町時代にかけて禅僧たちが、漢詩、漢文、日記などの分野で文学の隆盛を築きました。通信使一行もこの寺々に立ち寄り学問に大きく貢献しました。
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