みんなは朝鮮通信使を知っているか?朝鮮国王が日本の将軍に対して派遣した外交使節団のことで、江戸時代を通じて12回にわたって来日した。政治的な交流はもちろん日本に多くの文化をもたらした。

朝鮮通信使は日本にどのような変化をもたらしたのでしょうか。日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。日本文化にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は日朝の友好の過去である朝鮮通信使について調べてみた。

日本と朝鮮の交流を促した朝鮮通信使

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不明 - http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

朝鮮通信使とは足利・豊臣・徳川幕府の時代に、朝鮮国王が日本の将軍に対して派遣した外交使節団のこと。厳密には江戸時代、12回にわたって来日した使節団のことを指します。日本に多くの文化をもたらし、当時の歌舞伎や絵画にも大きな影響を与えました。

江戸時代の文化人にとっては先進的な大陸文化と触れ合える貴重なチャンス。日本と朝鮮が対等な立場で善隣外交を実施した歴史的にも稀有な事柄です。

朝鮮通信使の由来

室町時代、倭寇と呼ばれる海賊集団の多くは日本人が関与。朝鮮王朝は足利幕府に対して倭寇を取り締まるよう要請する使節団を送りました。目的はそれだけではありません。交易を促進することを要請する意図もありました。幕府もその要請に応じ、倭寇の取り締まりを開始。朝鮮がお礼に大蔵経、その他の貴重な経典、書物などを寄贈しました。これが朝鮮通信使の始まりです。

しかしながら豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵で両国の関係は敵国同士となり外交団の派遣は途絶。それぞれの文化に触れ合う機会は消滅しました。徳川家康は国交を回復しようと目論み、対馬の第19代の島主に働きかけます。家康の意向を受けた島主の外交努力や対馬藩の後押しが功を奏して1607年に第一回の使節団の派遣が実現しました。

朝鮮との交流の実現

家康は単に隣国と仲良くしようと思ってこの難しい事業に取り組んだのではありません。西国の諸大名が朝鮮との密貿易により、富と力を蓄えることを防いだのです。徳川政権の威厳を示すセレモニーとして、さらには密貿易を許さないという示威のメッセージとして朝鮮通信使の再開を図りました。

対馬藩においても家老と藩主が対立。藩主は国書を偽造して家老がそれを暴露するという事件が起こりました。朝鮮側は国書が偽造であることを見抜いていたものの無視。対馬藩内から内部告発がありましたが幕府も無視。使節団の派遣を実現させました。徳川幕府といえば鎖国政策が有名。近隣諸国との外交は途絶えていると思われがちですが、朝鮮とは友好関係を築いて先進的な大陸文化を取り入れていました。

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朝鮮通信使がたどったルート

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1392年に李成桂によって成立したのが朝鮮王朝。その朝鮮王朝の宮中において使節団の正使・副使・従事官の三使が国王に挨拶をしたあと、都がある現在のソウルである漢陽を出発。釜山浦へ下って永嘉台から乗船、日本の護送船団と合流して対馬へ向かいました。使節団を送る費用は朝鮮にとっても一歩間違えば国が亡びるほどの規模でした。

瀬戸内海経由で朝鮮通信使が来日

対馬、壱岐、現在の福岡県の筑前藍島を経て、現在の山口県下関市にあたる赤間関に到着。対馬藩や西国大名の護送船を加え大船団となり、瀬戸内海へ入ります。瀬戸内海ではペースダウン、港で潮待ちや風待ちをしながら大坂へ向かいました。そのあいだの生活費はすべて日本側が持ちました。

朝鮮側はその見返りとして多額の謝礼や珍しい品々を配ります。どちらの出費も相当なものとなりました。大坂に着くと使節団の船団関係者100人は大坂に残留。長旅で傷んだ船の修理をして帰りに備えました。

江戸へ向かう朝鮮通信使

使節団は大坂で幕府が準備した川御座船に乗り、淀川をさかのぼり淀に上陸。京都、大津、草津、そして彦根へ向かいます。このとき利用する街道は当時、朝鮮人街道と呼ばれていました。そこを抜けたら中山道を経由して東海道へ入ります。

江戸では大名屋敷は大門を開け、美しい幕を垂らして待機。通路に臨んだ家々は、きらびやかな金屏風を立てて歓迎しました。これらはすべて徳川幕府の権威をアピールするためのもの。復路は同じルートを戻り、往復で半年にも及ぶ長旅を終えました。

ここで朝鮮の歴史について少し触れます。16世紀末、明国では農民の反乱が続発。国内は混乱していました。また1616年に中国東北部で後金(後の清国)が建国されるなど中国大陸の情勢は切迫。今まで明と友好関係を保っていた朝鮮では、明派と後金派に分かれ対立が激しくなり、日本とは友好関係を維持する必要性に迫られていました

朝鮮通信使の財政的な限界

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The artist is Tōei Hanegawa. Collection of The City of Kobe Museum of Art, the Hajime Ikenaga Gallery - Kobe City Museum 朝鮮通信使来朝図/xQEnum2m7ihcEAGoogle アートプロジェクト and http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/meihin/077.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

これほど壮大な旅に使節団も幕府も莫大な費用を投入しました。幕府側の総額はおよそ100万両。それは幕府の年間予算70万両から80万両を上回る、国家予算を軽くオーバーするものでした。当時は幕府の威厳もあり反対する声はあがりませんでしたが、現実は限界までいっていたようです。

京都五山に与えた影響

壮大な幕府のセレモニーに諸大名は献身的に協力しました。異国からの大使節団から得ること、学ぶことが多かったからです。朝鮮人参、絹織物、虎の皮、筆、墨、生きた馬、鷹などは、大名から商人に至るまで憧れの品でした。朝鮮通信使は京都の寺院にも大きな影響を与えます。特に京都五山と呼ばれる臨済宗の寺社は、朝鮮通信使の影響を受けて、仏典のみならず儒学を研究するようになりました。

京都五山と称されるのが南禅寺、天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺。鎌倉時代から室町時代にかけて禅僧たちが、漢詩、漢文、日記などの分野で文学の隆盛を築きました。通信使一行もこの寺々に立ち寄り学問に大きく貢献しました。

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朝鮮通信使が富商の屋敷で受けた歓待

朝鮮通信使一行は下船後、多くの富商の屋敷で大歓待を受けます。このときのご馳走は記録によると、馬の乳、ぶどう、大きな栗、梨、干し柿などでした。周辺の庶民は塀の外に張り付き、異国からの使節団を見物していたことも伝わっています。

贅沢を極めた歓待のお礼に通信使たちは曲芸、踊り、歌などを披露しました。異国の芸能は日本の芸能にも大きな影響と感動を与えました。江戸幕府の将軍が替わるたびに朝鮮使節団は日本を訪問。将軍への祝辞を述べ、珍しい品々を献上しました。使節団はその返礼として、銀、鎧、兜、金屏風などをもらいました。

朝鮮通信使をめぐる日朝の事情

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日本では享保と天明時代に大きな飢饉に見舞われます。その結果、幕府の財政は破綻寸前。銀山が枯渇して主要輸出品がなくなりました。朝鮮側にとっても交易の収益が激減。さらに朝鮮は秀吉の朝鮮出兵にてたくさんの人民が捕虜として連れ去られます。交渉をするものの全員を連れ戻すことは不可能でした。

ヨーロッパ諸国のアジア進出

ヨーロッパの列強は、征服あるいは交易関係を持つために競ってアジアにやってきました。鎖国政策を取っている幕府にも列強の圧力が到来。強力な帝国であった清国の衰亡も後押ししてアジアは不安定な状況に陥りました。

このような事情もあり、財政の節約のために江戸ではなく対馬で使節団を迎えることに変更。その規模も3分の2に縮小されました。朝鮮通信使の派遣を続ける気持ちはあったのですが計画だけで終わりました。

江戸幕府の終焉

第12代将軍家慶が亡くなったあとペリーが浦賀に来航。開国を迫ったことで鎖国政策は終わりました。イギリスがインドを併合、英仏軍が北京を占領していた時期です。明治維新が起こり江戸幕府は敗退。朝鮮との対等な外交関係は終わり、代わりに征韓論が沸き上がります。

征韓論のほうが勢いをつけるなか、対馬藩は通信使を待ち続けました。それは単に交易の利益のためではありません。対馬藩は長年にわたって隣国との友好を守ってきました。それを絶やしたくないという想いがあったのです。

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朝鮮通信使が滞在した清見寺と日光東照宮

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今では朝鮮通信使の辿ったルートが顧みられることはほとんどありません。また韓国にも詳しい記録は残されていません。現在あるのは静岡の清見寺と日光の東照宮です。朝鮮通信使一行がどのように想いを馳せ、どのような志を秘めてこの地に滞在したのでしょうか。

1.清見寺

静岡市清水区にある清見寺は、古代においては清見が関の鎮護として、鎌倉以降は臨済宗の寺として栄えました。鎌倉時代に中国から禅宗が伝わると天台宗から禅宗に改めました。室町時代には足利尊氏から崇拝されていたものの、戦国時代には大きな戦禍を受けました。今川家の人質として幼少期を過ごした家康。勉学に励んだのが清見寺でした。今でも「手習いの部屋」が残っています。

鎖国政策を取っていた江戸時代。清見寺は朝鮮通信使と琉球通信使の一行を受け入れて善隣外交の窓口となりました。第一回目の朝鮮通信使が将軍秀忠に謁見したのち立ち寄ったのが清見寺。家康自ら接待。茶でもてなしたり、自ら舟を出したり、美保の松原鑑賞でもてなしたりしました。そのときは絢爛豪華な南蛮船も同行しました。

清見寺にはこのときに通信使が残した漢詩が残っています。それが蓬莱島、十洲、三山の3つ。ユートピアを意味する言葉と共に景色の素晴らしさと家康の接待を称えました。琉球通信使も清見寺を訪れ、琉球国王の王子が駿府城の家康に謁見した直後に亡くなると、清見寺の墓所に葬りました。

2.日光東照宮

朝鮮通信使は3回は日光東照宮を訪れました。東照宮が完成した直後で4代将軍家綱が誕生したころです。警備の人員を入れると1000人以上の大集団。日光の今市には通信使が宿泊するための豪華な施設をたてました。現在の今市には朝鮮通信使来日400年を記念する石碑が立てられています。

朝鮮側から東照宮へのお返しは鐘でした。それは「朝鮮の鐘」と呼ばれています。鐘の側面には「朝鮮国王が東照宮に収めるためのもの」と彫られました。さらに花瓶、香炉、燭台も納められました。この三つは1812年に火災で焼け、現存するのは日本で再現したものです。

実はソウルの世界遺産である「昌徳宮」から日本の世界遺産である「日光東照宮」までの朝鮮通信使の辿ったルートを世界遺産にするという動きが出ています。つまり世界遺産から世界遺産までのルートを世界遺産にする試みです。日本と韓国の政治状況は決していいとは言えません。

善隣外交のシンボルだった朝鮮通信使

朝鮮通信使は、江戸幕府の威厳を示すという一面は確かにありました。同時に情勢が目まぐるしく変わるなか安定した国家間交流を維持するためになくてはならないものでした。朝鮮通信使との交流があったからこそ、江戸幕府は長きにわたる政権を維持できたのでしょう。今、国家のあいだの衝突があちらこちらで勃発。朝鮮通信使が残したものを振り返ってみる価値は十二分にあるのではないでしょうか。

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アジアの歴史室町時代戦国時代日本史江戸時代

江戸時代の日朝交流を促進させた「朝鮮通信使」がもたらした文化的・政治的影響について元大学教員が簡単に分かりやすく解説

みんなは朝鮮通信使を知っているか?朝鮮国王が日本の将軍に対して派遣した外交使節団のことで、江戸時代を通じて12回にわたって来日した。政治的な交流はもちろん日本に多くの文化をもたらした。

朝鮮通信使は日本にどのような変化をもたらしたのでしょうか。日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。日本文化にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は日朝の友好の過去である朝鮮通信使について調べてみた。

日本と朝鮮の交流を促した朝鮮通信使

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不明 – http://www.rekihaku.ac.jp/e_gallery/edozu/l12.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

朝鮮通信使とは足利・豊臣・徳川幕府の時代に、朝鮮国王が日本の将軍に対して派遣した外交使節団のこと。厳密には江戸時代、12回にわたって来日した使節団のことを指します。日本に多くの文化をもたらし、当時の歌舞伎や絵画にも大きな影響を与えました。

江戸時代の文化人にとっては先進的な大陸文化と触れ合える貴重なチャンス。日本と朝鮮が対等な立場で善隣外交を実施した歴史的にも稀有な事柄です。

朝鮮通信使の由来

室町時代、倭寇と呼ばれる海賊集団の多くは日本人が関与。朝鮮王朝は足利幕府に対して倭寇を取り締まるよう要請する使節団を送りました。目的はそれだけではありません。交易を促進することを要請する意図もありました。幕府もその要請に応じ、倭寇の取り締まりを開始。朝鮮がお礼に大蔵経、その他の貴重な経典、書物などを寄贈しました。これが朝鮮通信使の始まりです。

しかしながら豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵で両国の関係は敵国同士となり外交団の派遣は途絶。それぞれの文化に触れ合う機会は消滅しました。徳川家康は国交を回復しようと目論み、対馬の第19代の島主に働きかけます。家康の意向を受けた島主の外交努力や対馬藩の後押しが功を奏して1607年に第一回の使節団の派遣が実現しました。

朝鮮との交流の実現

家康は単に隣国と仲良くしようと思ってこの難しい事業に取り組んだのではありません。西国の諸大名が朝鮮との密貿易により、富と力を蓄えることを防いだのです。徳川政権の威厳を示すセレモニーとして、さらには密貿易を許さないという示威のメッセージとして朝鮮通信使の再開を図りました。

対馬藩においても家老と藩主が対立。藩主は国書を偽造して家老がそれを暴露するという事件が起こりました。朝鮮側は国書が偽造であることを見抜いていたものの無視。対馬藩内から内部告発がありましたが幕府も無視。使節団の派遣を実現させました。徳川幕府といえば鎖国政策が有名。近隣諸国との外交は途絶えていると思われがちですが、朝鮮とは友好関係を築いて先進的な大陸文化を取り入れていました。

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