古代ギリシャではポリスと呼ばれる都市国家がいくつも存在し、ポリス間での戦争もよく起こっていた。そのなかでも「ペロポネソス戦争」は大規模な戦争だった。なにせ、古代ギリシャを代表するアテナイとスパルタの間に起こった大戦争だからな。
今回は「ペロポネソス戦争」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャで起こった大戦争「ペロポネソス戦争」についてまとめた。

1.違いはなんだ?主役の「アテナイ」と「スパルタ」

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ペロポネソス戦争は古代ギリシャを代表する二つの都市「アテナイ(アテネ)」と「スパルタ」の戦争です。同じギリシャ内にありながら、二つの都市はどう違ったのでしょうか?この章では「アテナイ」と「スパルタ」について比較しながら解説していきます。

古代ギリシャの都市国家「ポリス」代表はアテナイ・スパルタ

古代のギリシャは大きな国を作るに適した土地ではありませんでした。というのも、古代ギリシャの土地は痩せており、夏は乾燥気味で、生産できる作物は限られていたのです。食べ物がなければ、人間は増えません。生まれたとしても、苦しい土地で餓死するか、食べ物を求めて別の土地に移動しなければなりませんからね。

そんななか、紀元前800年ごろにギリシャ人が集まって定住をし、「ポリス」と呼ばれる「都市国家」を形成し始めます。「ポリス」は「国家」よりも「集団」とイメージしたほうがいいかもしれません。

また、ギリシャの国土は平地も少なく、ポリスは大小含めて200ほど。領地もそこに住む人々の数もそれぞれです。しかし、アテナイとスパルタだけは例外的に広いポリスでした。

ギリシャ本土から地中海全域へ!「植民都市」建設

ポリスを作ったうえで、さらに彼らは地中海に進出して「植民都市」を建設します。これは現代でいう「植民地」とは違い、別の土地に市民を派遣して新しく建設するというものでした。ポリスの植民活動は広く、東は小アジア、西はフランスのマルセイユあたり、南はアフリカと次々に植民都市を建てていったのです。

ただ、植民活動は地中海貿易で活躍するフェニキア人や、その保護をするペルシア帝国との抗争を産むことになります。

植民都市と貿易で裕福に!「アテナイ」は民主主義へ

植民都市と貿易によって古代ギリシャの経済が発展。平民たちも裕福になっていきました。そして、平民たちは自腹で武装を整えて重装歩兵となり、都市の防衛に参加するようになります。

侵略されて負けたらおしまいですからね。命を懸けてポリスを守るのは非常に重要なことで、けれど、武装しなければ防衛には加われません。武器も防具も基本的には自分で揃えなくてはいけませんから、市民が裕福になって武装できるようになったのは、たいへん重要なことでした。結果、平民たちの地位は向上し、ポリス内での発言権が高まっていったのです。

発言権を得た平民たちはポリスの王や貴族たちに反発し、平民の参政権を求めました。今回の主役となる一方の「アテナイ」では、「クレイステネスの改革」により民主政が確立されます。

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ひとりひとりが優秀な戦士!?軍国主義の「スパルタ」

もう一方の主役「スパルタ」は、アテナイと違って、戦士団を強固な支配階級とする共同体でした。

というのも、スパルタは奴隷(ヘイロータイ)や半自由市民(ペリオイコイ、奴隷と市民の中間的な存在。自由身分であるが、市民権がない)が多く、たびたび彼らの反乱が起こったのです。スパルタの奴隷はたくさんいて、スパルタ市民よりも四倍ほど多かったとか。奴隷たちの反乱を抑えるため、スパルタ市民はひとりひとりが強い戦士でなければなりません。もちろん、女性もです。

スパルタに生まれた市民は子供のころから厳しい訓練を受け、結果として、市民すべてが非常に優れた戦士になりました。

優秀なスパルタ戦士の育て方!?厳しすぎるスパルタ教育

「スパルタ人の子どもは親のものではなく、生まれた瞬間からスパルタという国家のもの」という考えのもと、子どもは生まれたときに検査を受け、もしも弱点があれば可哀相なことに山に捨てられてしまうのです。検査に合格した子どもも、七歳になると親元を離れて国の養育所に入ります。養育所で他のスパルタ人の子どもたちと共同生活をしながら厳しく育てられました。

女の子であっても変わりありません。女性は丈夫で元気な子どもを産むという大切な役目を持っていますから、幼いころから体育訓練を受けます。そうしたスパルタ人の女性は、他のポリスの女性たちと違って権利と地位が認められました。

また、スパルタの戦士は共同体の一員だということを重視しますから、装飾品の禁止や、食事は必ず一緒にしなければならない共同食事制など大人になっても守らなければならない決まりがいくつもあります。

2.「ペロポネソス戦争」勃発!デロス同盟VSペロポネソス同盟

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ペロポネソス戦争を語るにあたり、先に「ペルシア戦争」について軽く触れなければなりません。紀元前499年、エーゲ海を挟んだ向こうのアケメネス朝ペルシア帝国がギリシャへと侵攻を始めます。ペルシア帝国は強大な国で、対抗するにはギリシャのポリスが一丸となる必要がありました。アテナイとスパルタは共に戦争を主導する立場としてペルシア戦争に参加します。

ペルシア戦争は、ギリシャ連合軍の勝利となりました。しかし、ペルシア戦争はあくまで防衛。ペルシア帝国が滅んだわけではありません。戦争のダメージが回復すれば、またペルシアがギリシャに攻め入ってくる可能性があったのです。

本当に対ペルシアのため?アテナイ「デロス同盟」を結成

ペルシア戦争中、アテナイはペルシア再来襲に備えてエーゲ海周辺のポリスとの間に「デロス同盟」を結んでその盟主となりました。同盟本部はエーゲ海に浮かぶデロス島に置かれます。

「同盟を結んでペルシアに対抗しよう」として結成されたデロス同盟ですが、実際にペルシアと戦える艦隊を出したのはアテナイだけで、他の同盟ポリスは納入金を納めるだけでした。その納入金の管理も、同盟の執行権もアテナイ人が握っています。やがて、納入金はアテナイのために使われるようになり、アテナイはデロス同盟を通じて他のポリスを支配するようになったのです。

スパルタとペロポネソス半島が結んだ「ペロポネソス同盟」

一方、スパルタはペルシア戦争以前の紀元前6世紀までにペロポネソス半島の諸ポリスとの間に「ペロポネソス同盟」を結んで盟主となっていました。ペロポネソス同盟の完成により、強大な軍事力を背景にしたスパルタはギリシャで屈指のポリスとなったのです。

しかし、ペルシア戦争ではアテナイを中心としたデロス同盟が主導権を握っていました。戦争の功績からアテナイは軍事のスパルタと対等な位置づけとなり、スパルタにとってアテナイとデロス同盟は脅威を覚える存在となりました。その結果、ペロポネソス同盟とデロス同盟の関係は次第に悪化していき、「ペロポネソス戦争」の火種となってしまったのです。

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二大ポリス大激突!「ペロポネソス戦争」開戦

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紀元前435年のこと。コリントス人の植民都市エピダムノスのいざこざ絡みにより、コルキュラとコリントのふたつのポリスが対立。このとき、コルキュラはアテナイへ、コリントはスパルタへと支援を頼みます。これがペロポネソス戦争の口実となり、ペロポネソス同盟がアテナイのあるアッティカ地方へ侵入したことで以降27年にも及ぶ「ペロポネソス戦争」が始まったのです。

アテナイの籠城は失策か?予想外に起こった疫病

スパルタの侵入に対し、アテナイは城壁外の田園の住民をもすべて市内に強制的に入れて門を閉ざしました。アテナイは海戦が得意でしたから、籠城する一方で海からペロポネソス同盟の本国へ攻撃する、という作戦をとったのです。

ところが、ここでアテナイにとって予想だにしないことが起こります。狭い城壁内に強制的に壁外の人々を押し込んだことで、市内の衛生状況が悪化。アテナイで疫病が蔓延し始めたのです。その被害はすさまじく、疫病では市民の六分の一が死亡したとか。さらに盗みなども起こって治安は悪化の一途をたどります。

内側はボロボロでありましたが、得意な海戦は優位に進んでいました。紀元前425年にはスパルタ軍を投降させたほどです。このとき、スパルタ側は停戦を提案したのですが、アテナイは戦争続行派が応じずに戦争が続きます。ここで終わっていれば、アテナイにとってもよかったかもしれないのですけどね…。

和平を結んだのに!?アテナイのシチリア遠征失敗

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紀元前421年、戦争を続けていた派閥のトップが戦死したことで、和平が結ばれます(ニキアスの平和)。しかし、その平和はアテナイで再び戦争派が台頭し始めたことでわずか8年しかもちませんでした。

アテナイは大艦隊を率いて遠いシチリアに遠征を開始。ところが、スパルタとシラクサの連合軍に敗北を喫してしまいます。アテナイの敗北を知ったデロス同盟のポリスが次々に同盟から離脱するというたいへんな事態に発展しました。

海戦が得意なアテナイですが、スパルタは宿敵だったはずのペルシアから援助を受けて海軍を強くしていたのです。それで「海はアテナイ一強からスパルタへと勢力が移った」というわけでした。

アテナイの海軍壊滅!ペロポネソス戦争終結

最後の海戦となった「アイゴスポタモイの海戦」では海軍さえも壊滅させられてしまいます。制海権をスパルタに奪われ、食料調達の航路さえ断たれたアテナイにもはや逆転の目はなく…。紀元前404年、アテナイはペロポネソス同盟によって包囲されたことで降伏。デロス同盟は解体し、ペロポネソス戦争はここにようやく終結を見せたのでした。

3.古代ギリシャ世界への影響は?ペロポネソス戦争その後

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ペロポネソス戦争での勝利にわくスパルタ。しかし、ペロポネソス戦争は古代ギリシャに大きな影を落としていたのです。戦争によってスパルタには富がもたらされました。けれど、その富は均等に分配されるものではありません。こうして、スパルタ人たちの間に貧富の差がもたらされたのです。

スパルタは共同体を重視します。みんな同じで、みんな仲間。だから、食事はつねに一緒に摂るし、装飾品を身に着けて他の人と差をつけたりしないのです。ところが、貧富の差が見えるようになり、スパルタ市民の結束力にヒビが入ってしまいました。それによってスパルタの厳格な軍国主義は大打撃を受けたのです。

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平和は続かない!?忍び寄るペルシア帝国

27年にも及ぶペロポネソス戦争が終わり、スパルタが古代ギリシャの覇権を握ることになりました。しかし、敗北したとはいえアテナイは未だ有力ポリスのひとつです。それにテーバイやコリントスなど他の有力ポリスもスパルタがギリシャを支配するのは面白くありません。

なかでも、ペルシア帝国はスパルタを中心にギリシャがまとまるのを恐れました。そこでペルシア帝国はスパルタに対抗しようとするポリスへ援助を行い、再び古代ギリシャを戦争の災禍へと叩き落したのです。物理的に攻めてダメなら、まず内側から腐らせてやろう、という作戦だったのでしょうね。

そうして、ギリシャで覇権を争う戦争が続き、やがてはギリシャ全土の衰退へと繋がってしまうのでした。

覇権をかけた戦い!アテナイとスパルタの「ペロポネソス戦争」

ペルシア戦争後、対ペルシア帝国のためアテナイは「デロス同盟」を結成。しかし、先に存在していたスパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」と対立。ついには同盟同士で「ペロポネソス戦争」が始まってしまいます。古代ギリシャの二大ポリスが覇権をかけた戦いは、スパルタが勝利しました。けれど、スパルタを中心に古代ギリシャがまとまることを恐れた宿敵ペルシア帝国は、再び戦争を起こすようペロポネソス戦争終結後に各ポリスに支援を行います。戦争の続く古代ギリシャは続く戦争のために、ペロポネソス戦争以降徐々に衰退の道を辿ってしまうのでした。

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世界史古代ギリシャ

簡単にわかる「ペロポネソス戦争」!古代ギリシャの大戦争?アテネとスパルタ勝ったのはどっちだ?歴史オタクがわかりやすく解説

古代ギリシャではポリスと呼ばれる都市国家がいくつも存在し、ポリス間での戦争もよく起こっていた。そのなかでも「ペロポネソス戦争」は大規模な戦争だった。なにせ、古代ギリシャを代表するアテナイとスパルタの間に起こった大戦争だからな。
今回は「ペロポネソス戦争」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャで起こった大戦争「ペロポネソス戦争」についてまとめた。

1.違いはなんだ?主役の「アテナイ」と「スパルタ」

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ペロポネソス戦争は古代ギリシャを代表する二つの都市「アテナイ(アテネ)」と「スパルタ」の戦争です。同じギリシャ内にありながら、二つの都市はどう違ったのでしょうか?この章では「アテナイ」と「スパルタ」について比較しながら解説していきます。

古代ギリシャの都市国家「ポリス」代表はアテナイ・スパルタ

古代のギリシャは大きな国を作るに適した土地ではありませんでした。というのも、古代ギリシャの土地は痩せており、夏は乾燥気味で、生産できる作物は限られていたのです。食べ物がなければ、人間は増えません。生まれたとしても、苦しい土地で餓死するか、食べ物を求めて別の土地に移動しなければなりませんからね。

そんななか、紀元前800年ごろにギリシャ人が集まって定住をし、「ポリス」と呼ばれる「都市国家」を形成し始めます。「ポリス」は「国家」よりも「集団」とイメージしたほうがいいかもしれません。

また、ギリシャの国土は平地も少なく、ポリスは大小含めて200ほど。領地もそこに住む人々の数もそれぞれです。しかし、アテナイとスパルタだけは例外的に広いポリスでした。

ギリシャ本土から地中海全域へ!「植民都市」建設

ポリスを作ったうえで、さらに彼らは地中海に進出して「植民都市」を建設します。これは現代でいう「植民地」とは違い、別の土地に市民を派遣して新しく建設するというものでした。ポリスの植民活動は広く、東は小アジア、西はフランスのマルセイユあたり、南はアフリカと次々に植民都市を建てていったのです。

ただ、植民活動は地中海貿易で活躍するフェニキア人や、その保護をするペルシア帝国との抗争を産むことになります。

植民都市と貿易で裕福に!「アテナイ」は民主主義へ

植民都市と貿易によって古代ギリシャの経済が発展。平民たちも裕福になっていきました。そして、平民たちは自腹で武装を整えて重装歩兵となり、都市の防衛に参加するようになります。

侵略されて負けたらおしまいですからね。命を懸けてポリスを守るのは非常に重要なことで、けれど、武装しなければ防衛には加われません。武器も防具も基本的には自分で揃えなくてはいけませんから、市民が裕福になって武装できるようになったのは、たいへん重要なことでした。結果、平民たちの地位は向上し、ポリス内での発言権が高まっていったのです。

発言権を得た平民たちはポリスの王や貴族たちに反発し、平民の参政権を求めました。今回の主役となる一方の「アテナイ」では、「クレイステネスの改革」により民主政が確立されます。

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