今回は、「日大紛争」について学んでいこう。

1960年代になると、全国で大学紛争が発生したな。中でも、万単位の学生が参加するなど大規模になった日大紛争は、他の大学紛争にも影響を与えたぞ。いったいどのようなものだったのでしょうか。

日大紛争の詳しい内容を、大学紛争の歴史とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

大学紛争が起きた背景

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1960年代に入り大学紛争が頻発した背景とはどのようなものだったのでしょうか。

学生数の急増

1960年代後半になると日本で大学生の数が急激に増加しました太平洋戦争が終結した直後に生まれた子供が高校を卒業して大学に進学するようになったからです。第1次ベビーブームを形成した団塊の世代が、学生の数を大いに押し上げました。

さらに、大学進学率の上昇も学生数の増加に一役買っています。終戦後は進学率が上昇を続け、さらに人口の多い団塊の世代が数多く大学に進学したため、大学生が増えたのです。しかも、日大日本大学)は学生運動が盛んだった1960年代当時から国内で最大規模のマンモス校だったため学生と教職員の数を合わせると10万人を超えていました

学生運動の隆盛

戦後になると全日本学生自治会総連合(全学連)や全学共闘会議(全共闘)などといった団体が生まれ学生運動を牽引するようになります。これらの団体は、全国の大学でそれぞれ結成されました。やがて、それらの団体はヘルメットやゲバ棒と呼ばれる角材などで武装し過激さを増していったのです

特に1960年代は社会運動が頻発しました。日米安全保障条約改正を巡る安保闘争やベトナム反戦運動、それに佐藤栄作首相の外国訪問を阻止しようとした羽田事件は、全て60年代に起きたものでした。それらに影響された学生が後に大学紛争へと身を投じたのです

\次のページで「日大紛争が起こるまで」を解説!/

日大紛争が起こるまで

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では、日大紛争が起こるまでに何があったのでしょうか。

巨額の使途不明金が発覚する

1968(昭和43)年に入り日大の教授が裏口入学を取り成したことで多額の報酬を得ていたことが明らかとなりました。さらに、国税局は日大にある多くの学部などを監査多額の使途不明金があったと発表しました。その額は、数十億円にも上ったとされます。

使途不明金は、教職員の手当や大学の運営費などに使われました。使途不明金以外にも定員の3倍も水増し合格にしていたなど当時の日大は運営体制がずさんでした。教育現場にもずさんな状況は現れ、急増する学生数に教職員数が追い付かず、学生は満足な講義を受けられませんでした。

日大全共闘が結成される

巨額の使途不明金やずさんな運営などで学生たちは日大に対する不満が募っていきます。使途不明金が発覚する前から、学生たちは大学の民主化などを求めていましたが、大学側がそれらを抑え込んでいました。大学に質問状を送付しても満足な回答を得られなかったためついに学生の有志一同が動きます

1968(昭和43)年5月学生有志が抗議集会に参加そのメンバーの一部が中心となって日本大学全学共闘会議(日大全共闘)を結成しました。日大全共闘は、理事長以下全理事の辞任・大学の経理を透明化する・大学側と学生の話し合いなどを求めたとされます。

日大紛争の発生から収束まで

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果たして、日大紛争ではどのようなことが起きたでしょうか。発生から収束までを一気に見てみましょう。

ストライキに突入

日大全共闘は理事らとの話し合いを望みましたが全共闘が非合法組織だという理由で却下されます。さらに、大学側は学生の集会を排除するために機動隊の出動を要請しました。数人の学生が公務執行妨害罪で逮捕される事態にまで発展しています。そのことで、学生側に不信感が芽生えたとしても不思議ではありませんでした。

1968(昭和43)年6月になりついに学生がストライキを実行しましたバリケードが頑丈に作られそれは数ある大学紛争の中で最大規模だったといわれます。さらに、運動部や応援団に所属する多くの学生が加わり、些細なことではストライキを排除できないようにしました。

警察官の殉職

集会やストライキに参加していた学生に対しては当初同情的な意見が多かったそうです。大学の腐敗を正そうと行動を起こしていた学生を、労う声が寄せられていました。それでも大学側の態度は変わらず幹部全員の退陣や集会の自由などを受け入れようとしませんでした

しかし、あることがきっかけで、その風潮が一変します。1968(昭和43)年9月バリケード排除のために出動していた警察官が校舎の上の方から落ちてきたコンクリート片を頭に受けて亡くなりましたコンクリート片は立て籠もっていた学生が落としたものでした。死亡者が発生したことで、世間の学生に対する評判が悪くなったのです。

\次のページで「佐藤首相の発言」を解説!/

佐藤首相の発言

1968(昭和43)年10月事態を重く見た佐藤栄作首相は日大紛争を「もはや大学問題ではなく政治問題だ」と評しましたその頃から学生側の勢いが急激に衰えていったのです。一時は1万人以上参加した集会には、それほど人が集まらなくなりました。多くの学生は、自らの就職や進学を心配するようになります。

日大全共闘の幹部には逮捕状が出され日大を離れて潜伏するようになりました11月にはバリケード排除の目的で機動隊が投入され数十名が逮捕。その後も日大全共闘は抵抗を続けますが、1969(昭和44)年3月にリーダー格の学生が逮捕されます。1970年代に入り勢いを失った日大紛争は自然消滅しました

日大紛争のその後

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日大紛争が収束した後は、何があったのでしょうか。

大学紛争は急速に衰退するも新左翼が先鋭化

1960年代の大学紛争は、発生件数だけでなく規模の大きさや手段の激しさなどを見ても、それまでになかったものでした。学生運動に参加することで本気で世の中を変えようとした人が多かったそうです。しかし、大学紛争で暴力事件が続くと学生たちの心は次第に離れていきました。大学紛争は急速に衰退したのです。

その一方で、1970年代には新左翼が先鋭化していきます内ゲバと呼ばれる身内同士の抗争では多くの死者が出るように。銃を所持し、爆弾を製造することもあったほどです。先鋭化した集団はよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件といった社会が動揺する事件を起こしました

理事長による日大の私物化

2021(令和3)当時の日大の理事長が所得税法違反の容疑で逮捕されました。東京地検特捜部が理事長の背任容疑を捜査すると、医療法人から現金を受け取った疑惑が浮上。理事長の自宅を捜査すると、1億円以上の現金が保管されているのを発見したのです。理事長には執行猶予付きの有罪判決が下されました

2021年に発覚した不祥事で、50年前の日大紛争に注目が集まります。実は、逮捕された理事長が日大紛争では大学側に立ってバリケードを排除していたのです。当時の日大の運営を踏襲したかはわかりませんが、理事長による日大の私物化は日大紛争当時を思い起こさせても仕方なかったといえるでしょう

なぜ大学紛争は衰退したのか

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最後に、大学紛争が衰退した原因をまとめて見ていきましょう。

\次のページで「暴力的手段が今の世の中には受け入れられない」を解説!/

暴力的手段が今の世の中には受け入れられない

大学紛争が頻発した1960年代はまだ世の中が寛容的でした大学紛争の現場では暴力的な手段が取られることもありましたがある程度は大目に見られていたのです。若者が有り余るエネルギーを発散していると、世間の大人が許すような風潮さえありました。

しかし、21世紀の今は、法令遵守が優先される時代です。コンプライアンスに厳しい現代では暴力的手段が受け入れられることはありません。さらに、情報化が進んだ現代では気軽に大学紛争のようなものに参加できないでしょう。参加したことが特定されれば一生その経歴は残り、進学や就職などで不利になることが予想されるからです。

経済的に豊かになった

日大紛争が起きた1960年代は日本が高度経済成長の真っ只中でした。しかし、社会情勢が安定していたわけではなくデモや学生運動が多発しています。日本は急速な戦後復興を果たしましたが、まだ戦後から20年が経過したばかり。依然として、社会の変革を求める声が多かったことでしょう。

しかし、日本が豊かになれば日本人は不満を言わなくなるものです。よって、70年代以降に大学紛争が激減したのは、当然の成り行きでした。むしろ、現代では貧富の格差が広がりましたが金銭に余裕がない学生はアルバイトに勤しむようになります。今では学生運動に励む理由がなくなりつつあるかもしれません。

デモの実情を知らない

現代の若者の多くが1960年代に起きた大学紛争の実情を知らないのではないでしょうか日本史の授業では近現代史が軽視されがちで学校で大学紛争に触れぬまま卒業することはあるでしょう。また、60年代の大学紛争は暴力沙汰が多かったため、タブーのように扱われがちです。

ただし、Z世代と呼ばれる若者は社会貢献や社会運動に興味を持っていないわけではありません。SNSによって、今の社会が抱える課題を知る機会が多いからです。よって、Z世代がデモや社会運動を起こす可能性は十分にあります。それは、大学紛争が頻発した当時とはやり方を変え、SNSを有効活用するものになるでしょう。

日大紛争は激化したが全国の大学紛争と同じく急速に鎮静化した

学生の自治などをめぐり、1960年代には大学紛争が頻発しました。中でも大規模だったのが日大紛争で、他の大学に影響を与えたほどでした。始めのうちは学生側に同情する意見が集まりましたが、暴力行為を働いた学生への支持は次第に減り、日大紛争は自然消滅しました。経済的に豊かになった日本で不満を募らせる学生は減り、現代では暴力的手段が受け入れられないため、日大紛争のような大規模な学生運動は影を潜めたのです。

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現代社会

1960年代に頻発した大学紛争に大きな影響を与えた「日大紛争」とは?その詳細を大学紛争の歴史とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、「日大紛争」について学んでいこう。

1960年代になると、全国で大学紛争が発生したな。中でも、万単位の学生が参加するなど大規模になった日大紛争は、他の大学紛争にも影響を与えたぞ。いったいどのようなものだったのでしょうか。

日大紛争の詳しい内容を、大学紛争の歴史とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

大学紛争が起きた背景

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1960年代に入り大学紛争が頻発した背景とはどのようなものだったのでしょうか。

学生数の急増

1960年代後半になると日本で大学生の数が急激に増加しました太平洋戦争が終結した直後に生まれた子供が高校を卒業して大学に進学するようになったからです。第1次ベビーブームを形成した団塊の世代が、学生の数を大いに押し上げました。

さらに、大学進学率の上昇も学生数の増加に一役買っています。終戦後は進学率が上昇を続け、さらに人口の多い団塊の世代が数多く大学に進学したため、大学生が増えたのです。しかも、日大日本大学)は学生運動が盛んだった1960年代当時から国内で最大規模のマンモス校だったため学生と教職員の数を合わせると10万人を超えていました

学生運動の隆盛

戦後になると全日本学生自治会総連合(全学連)や全学共闘会議(全共闘)などといった団体が生まれ学生運動を牽引するようになります。これらの団体は、全国の大学でそれぞれ結成されました。やがて、それらの団体はヘルメットやゲバ棒と呼ばれる角材などで武装し過激さを増していったのです

特に1960年代は社会運動が頻発しました。日米安全保障条約改正を巡る安保闘争やベトナム反戦運動、それに佐藤栄作首相の外国訪問を阻止しようとした羽田事件は、全て60年代に起きたものでした。それらに影響された学生が後に大学紛争へと身を投じたのです

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