今回は、山本権兵衛について学んでいこう。

山本は海軍で頭角を現した後に海軍大臣となり、さらには総理大臣を2度も務めたぞ。ですが、2度とも任期途中で辞任に追い込まれてしまった。いったい何があったのでしょうか。

山本権兵衛内閣が総辞職に追い込まれた2つの事件について、山本権兵衛の生涯とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

海軍を志した山本権兵衛

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まずは、若き日の山本権兵衛が海軍を志した様子を見てみましょう。

西郷隆盛に憧れる

山本権兵衛(やまもとごんべえ・やまもとごんのひょうえ)1852(嘉永5)年に現在の鹿児島市で生まれました。父は薩摩藩士でした。その影響もあって、山本権兵衛は10代で薩英戦争や戊辰戦争に従軍しています。その後に迎えたのが、大政奉還と明治維新でした。

山本権兵衛をはじめ、当時の薩摩藩の人間は、誰もが薩摩藩の英雄である西郷隆盛に憧れていたそうです。西郷隆盛のような人物になりたいと考えていた山本は西郷隆盛の元を直接訪れます西郷に進路を相談すると山本が勧められたのは海軍でした。それ以降、山本は海軍を志すことになります。

勝海舟を頼って海軍入り

山本権兵衛は西郷隆盛から勝海舟を紹介されました。勝海舟といえば、江戸城無血開城などで知られますが、幕府の軍艦奉行なども務めていたのです。そのため、西郷は勝への紹介状を山本に持たせました。なぜか勝は山本の海軍入りを反対しましたが、山本が何度も家を訪れたのに勝が折れた形となり、山本には海軍への道が開かれることになります

1869(明治2)年に山本は東京大学の前身である開成所に入学その後は海軍操練所や海軍兵学寮に進み海軍軍人としての基礎を学びました。明治六年の政変で下野した西郷を追うように、山本は海軍を離れて西郷のいる鹿児島に向かいましたが、西郷の説得で戻ったという話も残っています。

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海軍大臣となった山本権兵衛

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海軍に入った山本権兵衛は、みるみるうちに出世していきます。ここでは、山本が海軍大臣になるまでを簡単に見ていきましょう。

海軍で出世コースを歩む

1874(明治7)年に山本権兵衛は海軍兵学寮を卒業すると海軍では出世コースを歩むようになります3年後の1877(明治10)年には早くも海軍少尉となり1889(明治22)年には海軍大佐にまで昇進しました。巡洋艦「高雄」や「高千穂」の艦長を歴任しています。

山本権兵衛に軍人としての才覚があったのは疑いようがないでしょう。さらに、西郷隆盛の実弟である西郷従道が山本の手腕を高く買っていたようです西郷従道の抜擢により山本は1891(明治24)年より海軍省大臣官房主事となりました。現場から事務方へと回った山本は、大規模な海軍制度の改革に着手し、後に「海軍の父」と呼ばれるようになります。

大臣時代は日露戦争に対応する

山本権兵衛は海軍省大臣官房主事就任時に今でいう「大リストラ」を断行しました。批判の声も上がりましたが、当時海軍大臣だった西郷従道が、自分が責任を取るからといって山本に海軍改革をさせたのです。その西郷が第2次山縣有朋内閣成立時に山本を海軍大臣にと推薦しました。当時山本は47歳と、異例の若さでした。

山本は第2次山縣・第4次伊藤・第1次桂内閣で海軍大臣を務めその長さは7年以上に及びましたその間で最も大きな懸案事項だったのが日露戦争でした。しかし、山本は東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢するなど、ここでも手腕を発揮。日本海海戦で圧勝して、日本を有利へと導きました。

第1次山本権兵衛内閣

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7年以上海軍大臣を務めた後の山本権兵衛には、やがて首相就任の機会が訪れます。ここでは、第1次山本権兵衛内閣について見てみましょう。

憲政擁護運動に後押しされる

海軍大臣を辞任した後の山本権兵衛は、海軍の重鎮として存在感を示していました。やがて、総理大臣候補として名前が挙がるようになります。そのような状況下で起きたのが憲政擁護運動でした1912(大正元)年に長州閥の実力者である桂太郎が3度目の内閣を組織したため藩閥政治に反対する勢力が憲政擁護会を結成したのです

憲政擁護運動は拡大し1913(大正2)年に第3次桂内閣を総辞職にまで追い込みますその後任となったのが山本権兵衛でした。山本は政党出身者ではなかったため、原敬率いる立憲政友会と手を組むことにしました。そのため、第1次山本内閣の閣僚は、立憲政友会の議員が多数を占めています。

行財政改革に注力する

海軍で大胆な改革を行った山本権兵衛は、首相としても行財政改革に注力します。文官任用令を改正して自由任用の範囲を一部拡大国の財政を整理して縮減させました。中でも、軍部大臣現役武官制の改正が第1次山本内閣で行われた重要政策でしょう

軍部大臣現役武官制とは、陸軍大臣と海軍大臣の就任資格を現役の大将と中将に限定したものです。もともとは、政党政治の影響力が軍部に及ぶのを防ぐために制定されました。しかし、軍が政治に介入することを懸念した第1次山本内閣は軍部大臣現役武官制を一部改正大将や中将だけでなく予備役などにも適用されるように変えたのです

シーメンス事件で辞任

1914(大正3)当時ドイツの軍需会社であったシーメンス社が日本の海軍高官へ賄賂を贈っていたことが発覚。さらに捜査が進むと、イギリスのヴィッカーズ社が戦艦「金剛」建造に際して贈賄していたことも明らかとなりました。大規模な汚職事件が次々と発覚したため、世間は政府に責任を追及するようになります。

山本権兵衛がシーメンス事件に関与していたかどうかは定かではありません。しかし、海軍の汚職事件が発覚したことで海軍出身の山本が責任を追及されたのは仕方なかったといえるでしょう。結局、予算が成立できないなどで議会が混乱したため、第1次山本内閣は総辞職せざるをえませんでした

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山本権兵衛が再び首相に就任するまで

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1度は首相を辞した山本権兵衛が、再び首相に返り咲くまでに9年も時間を要しました。ここでは、第1次山本内閣と第2次山本内閣の間に起きた出来事を簡単に振り返ってみましょう。

米騒動の発生

第1次山本権兵衛内閣が倒れると、後任探しは難航しました。結局は、政界を離れてから久しかった大隈重信が組閣することになります。しかし、元老との対立などがあったため、大隈は任期途中で辞任しましたその後を継いだのが陸軍出身の寺内正毅でした

寺内内閣はロシア革命に干渉する目的でシベリア出兵を宣言しました。しかし、そのことが原因で日本国内の米価が急騰して売り惜しみなどが横行します。消費者は反発して、米問屋を打ち壊すなどの事例が多発。米騒動を対処し切れなかった寺内内閣は総辞職に追い込まれました

原敬が暗殺される

寺内正毅の後継総理となったのが立憲政友会総裁の原敬でした。原敬内閣は日本初の本格的政党内閣だったため世間の期待は大きく、原を平民宰相と持ち上げました。しかし、首相就任から2年後に原は東京駅で暗殺されます。主を失った原内閣は、総辞職するしかありませんでした。

その後長らく大蔵大臣を務めた高橋是清が首相になりました。原内閣の閣僚をほとんど引き継いだ形となりましたが、与党内の分裂などがあり、任期はわずか7か月でしたその次に海軍の重鎮だった加藤友三郎が首相に就任。ところが、加藤は任期中に大病を患いそのまま亡くなりました

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第2次山本権兵衛内閣

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山本権兵衛は2度目の首相就任を果たしますが、わずか4か月でその座を追われます。いったい何があったのでしょうか。

加藤友三郎の急死に伴い再任

大日本帝国憲法の下においては首相が公選制で決められるのではなく、元老が推薦した人物を天皇が首相として任命するのが実情でした。加藤友三郎首相が亡くなった後も元老である西園寺公望は後継者探しに奔走していましたそこで白羽の矢が立ったのが山本権兵衛だったのです

西園寺は翌年の衆議院総選挙に備えた選挙管理内閣を想定していたとされます。山本権兵衛は政党色の薄い海軍出身者だったので、適任だったといえるでしょう。第1次山本内閣総辞職から9年後第2次山本内閣は不測の事態を経た後に成立しました

関東大震災からの復興

第2次山本権兵衛内閣は普通選挙法の制定に着手するつもりでした。しかし、想定外の事態により、路線変更を余儀なくされます。1923年(大正12)9月1日に関東大震災が発生したのです。第2次山本内閣が発足したのは、その翌日である9月2日のことでした。

第2次山本内閣は、そのほとんどを震災復興に費やしたと言っていいでしょう。帝都復興院を設置し東京市長だった後藤新平を総裁に任命して復興処理を急がせました支払猶予令や暴利取締令などを制定して混乱の収拾にも取り組んでいます。しかし、戒厳令により不当に在日朝鮮人や社会運動家などが検挙されました

虎ノ門事件の責任を取って辞任

1923(大正12)年12月27日後に昭和天皇となる摂政宮裕仁親王が帝国議会へ向かう途中で無政府主義者に狙撃されました虎ノ門事件が発生したのです。裕仁親王は難を逃れ、犯人もすぐに捕まりました。しかし、皇室関係者が襲われたというニュースに、社会は大いに震撼します。

虎ノ門事件が第2次山本内閣の過失で起きたとは言い切れないでしょう。しかし、大日本帝国憲法の下では天皇が国務大臣を任命していたので皇室の一大事は内閣の一大事ともいえたのです。そのため、虎ノ門事件の責任を第2次山本内閣が取るしかなく、1924(大正13)年の1月7日に第2次山本内閣は総辞職しました

シーメンス事件と虎ノ門事件が山本権兵衛内閣総辞職の原因となった

山本権兵衛は海軍で頭角を現した後、2度も首相に就任しました。しかし、シーメンス事件と虎ノ門事件が発生したために、山本は2度とも任期途中の辞任に追い込まれています。どちらの事件でも、山本自身や内閣に落ち度があったとは言い切れないでしょう。それでも、山本内閣は2度とも責任を取る形で総辞職したのです。

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現代社会

なぜ山本権兵衛は2度も任期途中で内閣総辞職に追い込まれた?原因となった2つの事件を山本権兵衛の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、山本権兵衛について学んでいこう。

山本は海軍で頭角を現した後に海軍大臣となり、さらには総理大臣を2度も務めたぞ。ですが、2度とも任期途中で辞任に追い込まれてしまった。いったい何があったのでしょうか。

山本権兵衛内閣が総辞職に追い込まれた2つの事件について、山本権兵衛の生涯とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

海軍を志した山本権兵衛

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まずは、若き日の山本権兵衛が海軍を志した様子を見てみましょう。

西郷隆盛に憧れる

山本権兵衛(やまもとごんべえ・やまもとごんのひょうえ)1852(嘉永5)年に現在の鹿児島市で生まれました。父は薩摩藩士でした。その影響もあって、山本権兵衛は10代で薩英戦争や戊辰戦争に従軍しています。その後に迎えたのが、大政奉還と明治維新でした。

山本権兵衛をはじめ、当時の薩摩藩の人間は、誰もが薩摩藩の英雄である西郷隆盛に憧れていたそうです。西郷隆盛のような人物になりたいと考えていた山本は西郷隆盛の元を直接訪れます西郷に進路を相談すると山本が勧められたのは海軍でした。それ以降、山本は海軍を志すことになります。

勝海舟を頼って海軍入り

山本権兵衛は西郷隆盛から勝海舟を紹介されました。勝海舟といえば、江戸城無血開城などで知られますが、幕府の軍艦奉行なども務めていたのです。そのため、西郷は勝への紹介状を山本に持たせました。なぜか勝は山本の海軍入りを反対しましたが、山本が何度も家を訪れたのに勝が折れた形となり、山本には海軍への道が開かれることになります

1869(明治2)年に山本は東京大学の前身である開成所に入学その後は海軍操練所や海軍兵学寮に進み海軍軍人としての基礎を学びました。明治六年の政変で下野した西郷を追うように、山本は海軍を離れて西郷のいる鹿児島に向かいましたが、西郷の説得で戻ったという話も残っています。

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