鉄砲伝来はどうしてもたらされたと思うか。鉄砲があったからこそ、織田信長が天下をとり、豊臣秀吉、徳川家康が権力を手にできたのでしょう。

そこで今回は鉄砲伝来が戦国時代に与えた影響やその後の流れを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。日本の歴史にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は鉄砲伝来についてまとめてみた。

鉄砲伝来とはどのような出来事?

Ashigaru using shields (tate).jpg
By Unknown author - A woodblock print from an unknown Japanese book., Public Domain, Link

鉄砲伝来とは、広い意味では16世紀にヨーロッパから東アジアに火器(鉄砲)が伝わったこと。日本に限ると当時は大隅国と呼ばれていた種子島に火縄銃(鉄砲)が伝来したことを指します。火縄銃そのものだけでなく、その製造技術と射撃法、弾丸の作り方も伝わりました。

いつ、誰が、鉄砲をもたらしたのか

記録によると、天文12年(1543)8月25日、大隅国の種子島にある西村の小浦(現在の前之浜)に一隻の商船が漂着。乗客のなかに中国の学者がおり、島の役人のひとりと筆談で何とか事情が判明。この船を種子島の王さまの城がある赤間木の港に寄港することになりました。

この船に乗っていたのはフランシスコとキリシタ・ダ・モッタと名乗る二人の異国の商人。火縄銃(鉄砲)を持っていた二人は城主の前で実演しました。その威力に驚いた城主は火縄銃2丁を購入。家臣に銃の製造と火薬の作り方を学ばせました。

商人と権力者の欲望の的になった鉄砲

火縄銃の当初の呼び名はなんと「種子島」。「種子島」という武器のうわさはあっというまに戦国大名たちや、大儲けを狙う商人の耳に入りました。紀伊国や堺からは商人や大名の意向を受けた鍛冶職人が続々と訪れました。日本における最先端の科学技術は種子島から始まったと言ってもいいでしょう。

当時の日本は戦国時代。紀伊国の根来、近江の国友、和泉の堺など、織田信長は自分の領地に大規模な火縄銃を制作する場所を作りました。当初は「種子島」や「火縄銃」などいろいろな呼び名がありましたが、鉄砲という呼び名が浸透していきました。

鉄砲は個人戦だった戦いを集団戦に変えます。非戦闘員も流れ弾などで命を落とすようになりました。鉄砲隊により多くの敵を一度に殺した者が勝者。たくさんの土地を得て、それによるお金を元手に鉄砲を作ってさらに強くなりました。小大名や地頭たちの多くは敗者となり、鉄砲をたくさん持つ大名が独り勝ちする時代になりました。

鉄砲伝来は大航海時代の終わりにもたらされた

Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria.png
By Ortelius - www.helmink.com, Public Domain, Link

日本の記録による鉄砲伝来と、外国に残された記録とでは、意味付けなどに異なる分があります。つまり鉄砲伝来の意味は視点により異なるということ。ヨーロッパで始まった大航海時代の終わるころに日本に鉄砲が伝わりました。つまり鉄砲伝来は日本だけで完結する話ではないのです。

\次のページで「倭寇の暴れ回る時代」を解説!/

倭寇の暴れ回る時代

日本に鉄砲が伝来した頃、東アジアでは倭寇が大暴れしていました。倭寇というのは13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島から中国大陸にかけて勢力をふるった海賊集団です。日本人もしくは日本人と見なされた人たちが主流となっていた時代。朝鮮や中国側の人々によってつけられた名前が倭寇です。

彼らは武装して交易を行ったため海賊化。14世紀には倭寇の最盛期を迎えました。中国や朝鮮の朝廷はしばしば室町幕府に倭寇の取り締まりを求めていました。しかしながら足利義満が勘合貿易と呼ばれる官制の貿易を開始したころから、倭寇は沈静化されました。

鉄砲は倭寇がもたらしたという説

種子島に初めて鉄砲が伝わる前から、琉球や大隅国には倭寇により火縄銃がもたらされていたという説があります。倭寇に囚われたポルトガル人の商人が逃げ出してジパングに漂着。火縄銃が伝わったという説もあります。とはいえ、こちらも伝聞による記録に過ぎず確証はありません。

火器(銃のような武器)が発明されたのは中国の宋の時代。日本は鎌倉時代でした。中国生まれの火器はアジア周辺のトルコ、イラン、ヨーロッパへ広まり、各地の戦争で使われるようになりました。なかでもポルトガルの銃は優秀。殺傷力が強いことで知られていました。ポルトガル人商人がひと儲けを企んで、密航したり、倭寇と結託したりする可能性は十分あります。

ポルトガル人が鉄砲伝来に関わった?

ある記録では、今のタイであるシャム王国に停泊していた船から3人のポルトガル人が脱出。ジャンク船で中国へ向かう途中に漂流してジパングに到着、そのときに鉄砲も伝わったという説があります。マルコ・ポーロの『東方見聞録』に書かれていたことは本当だったという又聞きのような書き方。伝聞のそのまた伝聞なので真偽ははっきりしません。

種子島への鉄砲伝来は『東方見聞録』が書かれた時期からおよそ250年後。ヨーロッパで大航海時代が終わるころです。この当時の日本では織田信長が天下人となっていました。このときの日本への鉄砲伝来が今までの合戦のかたちを大きく変え、時代を動かした可能性は大いにあります。

鉄砲伝来が引き起こした下剋上

Bronze barreled Japanese matchlock pistol.jpg
By Worldantiques - Own work, CC BY-SA 3.0, Link

下剋上というのは「下位の者が上位の者を押しのけて勢力を得る」こと。とくに南北朝から戦国時代にかけては一揆が続発。旧勢力を打倒して多くの戦国大名が生れ、下剋上は一種の社会現象となりました。各地の守護が大名や将軍をしのぐ勢力をもつこともありました。このとき鉄砲が大きな役割を果たしました。

鉄砲で天下をとった織田信長

織田信長は戦国大名の1人。鉄砲にいち早く注目し、鉄砲隊を作ることで天下を取った人物です。地理的にも穀物生産でも恵まれた領土の経済力で、鉄砲を大量に買い付けました。織田信長および徳川家康連合と武田軍の長篠の戦いでは、信長は3000挺の鉄砲を使って勝利しました。

ここから分かることは、鉄砲を大量に買い付けられる経済力すなわち豊かな土地のある者が勝つということ。信長は15代将軍足利義昭を追放し、足利幕府を滅ぼしましたが、道半ばで明智光秀に討たれて自害しました。これが本能寺の変です。天下の覇者になったのは、本能寺の変で要領よく立ち回り、主君の織田信長の仇討をしたとみなされた豊臣秀吉でした。

下克上の代表格である豊臣秀吉

豊臣秀吉は足軽と呼ばれる下級階層から成りあがった人。下剋上の代表格です。秀吉は自分が足軽階級出身ということから、農民たちや庶民を脅威と見なしていました。鉄砲はもちろん刀や武器になりうる農機具までも百姓が所有することを禁止。武器を所有できるのは武士のみとしました。この身分の差は武力の差となりました。

秀吉の時代から封建制度がスタート。その頃、秀吉は50万挺の銃を保有していました。当時、火薬帝国と呼ばれていたオスマン帝国が保有していたのはその半分の数。日本は世界有数の軍事国家になっていました。

鉄砲伝来、そして戦国時代の終焉

image by PIXTA / 1753445

秀吉の出兵に対する朝鮮の反撃はすさまじく、重臣たちの間にも反対する声が密かではありますが湧き上がりました。とはいえ秀吉は独裁者。誰も何も言えないまま2回目の朝鮮出兵を強行します。しかしながら秀吉は朝鮮出兵を実施した直後に病死。世界征服を視野に入れた朝鮮出兵はうやむやのうちに終わりました。

戦国時代が終わったことによる鉄砲の運命

朝鮮出兵が何のために行われたかは今も謎。秀吉は精神の病にかかっており、判断能力がなかったという説もあります。秀吉が亡くなると、権力の座を待っていた徳川家康が将軍の座に就きました。家康は、豊臣方の家臣や秀吉の愛妾である淀の方、遺児である秀頼に反撃の暇も与えず天下の覇者となりました。

大坂城に立て籠もった豊臣秀頼とその母淀の方が完全敗北したのは、徳川家康が大坂城に何度も大砲を打ち込んだから。家康は密かに大砲を製造する技術をイギリス人の技師に習っていたのです。鉄砲よりも強力な殺傷力のある大砲を所有した家康とくらべて、武器で圧倒的に劣った秀頼と淀の軍。なすすべもなく敗北しました。戦国時代は終わって徳川の時代となりました。

鉄砲は役目を終えた

火縄銃と呼ばれた鉄砲が活躍したのはせいぜい50年ほど。家康がさらに強力な大砲を使用して天下を制すると戦国時代は終わりました。それから鉄砲は徳川幕府の厳しい管理下に置かれ、幕府が管理している倉庫に保管されました。

徳川幕府は強烈な力で大名たちを支配。大名たちを序列化し、江戸に人質を置かせたり大名屋敷を江戸に作らせたりしました。また、大名を参勤交代で江戸に上らせ、多額の資金を使わせました。それにより経済力を削いでいったのです。百姓たちをはじめとする庶民への統制も厳格化。一揆も下剋上も起こらない德川一強時代となり、戦そのものがなくなりました。

\次のページで「鉄砲伝来の過去と未来」を解説!/

鉄砲伝来の過去と未来

image by PIXTA / 83196690

鉄砲伝来の6年後にキリスト教が鹿児島に伝来。仏教伝来と同じく今までの価値観を大きく揺さぶるものでした。日本は島国で外からの影響がなかった国というのは大きな間違いです。

数千年前、日本に漢字が伝来し、さまざまな大陸文化を受けました。戦があちらこちらで起こっていた戦国時代にも、表向きは鎖国政策を取っていた江戸時代にも、さまざまなかたちで外国文化が日本に流れてきていました。

鉄砲伝来の鍵となる中世

中世とは古代と近代のあいだのこと。日本では鎌倉や室町時代、西洋では476年の西ローマ帝国の滅亡から1453年の東ローマ帝国滅亡までのことです。戦国時代は中世の末期。室町幕府の滅亡から秀吉の天下統一の頃までが該当します。この時代に鉄砲が盛んに使われました。

そもそも鉄砲はどこで生まれたのでしょうか。中国で宋の時代です。鉄砲と命名されて中東へそしてヨーロッパへ広がり、戦国時代の日本へ到達しました。そのあいだに400年の月日が流れていました。そして日本は世界でも最大の鉄砲保有国になりました。

今でも身近な鉄砲という名

武器ではなく平和的な食べ物にも「鉄砲」という名前が付けられました。そのひとつが鉄砲漬。ウリの中身をくりぬいて青唐辛子を練りこんだ漬物です。空洞にしたウリを銃身に、ピリリと辛い青唐辛子を弾丸に見立てた食べ物。みなさんのなかにも食べたことある方がいるのではないでしょうか。

また大雨や台風により川の氾濫、勢いよく出水したものも鉄砲水と呼びます。鉄砲を撃つような速さと威力があるから鉄砲水と呼ばれたのでしょう。また鉄砲流しと呼ばれる、材木の運搬方法もあります。谷川を堰き止め、木材を浮かべ、雑炊させてから堰を切って材木を流すやり方。これまで日本人はさまざまな場面や物に鉄砲を重ね合わせたのでしょう。

鉄砲伝来がなければ江戸時代は来なかった

鉄砲伝来は戦国時代の世を引き起こし、下克上をもたらしました。織田信長が天下をとったのは、豊かな土地による経済力から鉄砲を大量に取得できたから。それゆえに徳川家康は江戸幕府を開いたときに鉄砲を倉庫に保管して、厳重管理したのでしょう。現在、世界で使われている火器の威力は鉄砲をはるかに超えるもの。戦国時代に鉄砲が時代の流れを変えたように、現在の武器が世界の流れを変える可能性も十分にあります。歴史は繰り返すことを意識しながら日本史の出来事を見ていくと、今のニュースの見方も変わってくるかもしれませんね。

" /> 戦国時代の下克上をもたらした「鉄砲伝来」江戸時代に至るまでの流れや現在の影響について元大学教員が簡単にわかりやすく解説 – Study-Z
日本史

戦国時代の下克上をもたらした「鉄砲伝来」江戸時代に至るまでの流れや現在の影響について元大学教員が簡単にわかりやすく解説

鉄砲伝来はどうしてもたらされたと思うか。鉄砲があったからこそ、織田信長が天下をとり、豊臣秀吉、徳川家康が権力を手にできたのでしょう。

そこで今回は鉄砲伝来が戦国時代に与えた影響やその後の流れを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。日本の歴史にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は鉄砲伝来についてまとめてみた。

鉄砲伝来とはどのような出来事?

Ashigaru using shields (tate).jpg
By Unknown author – A woodblock print from an unknown Japanese book., Public Domain, Link

鉄砲伝来とは、広い意味では16世紀にヨーロッパから東アジアに火器(鉄砲)が伝わったこと。日本に限ると当時は大隅国と呼ばれていた種子島に火縄銃(鉄砲)が伝来したことを指します。火縄銃そのものだけでなく、その製造技術と射撃法、弾丸の作り方も伝わりました。

いつ、誰が、鉄砲をもたらしたのか

記録によると、天文12年(1543)8月25日、大隅国の種子島にある西村の小浦(現在の前之浜)に一隻の商船が漂着。乗客のなかに中国の学者がおり、島の役人のひとりと筆談で何とか事情が判明。この船を種子島の王さまの城がある赤間木の港に寄港することになりました。

この船に乗っていたのはフランシスコとキリシタ・ダ・モッタと名乗る二人の異国の商人。火縄銃(鉄砲)を持っていた二人は城主の前で実演しました。その威力に驚いた城主は火縄銃2丁を購入。家臣に銃の製造と火薬の作り方を学ばせました。

商人と権力者の欲望の的になった鉄砲

火縄銃の当初の呼び名はなんと「種子島」。「種子島」という武器のうわさはあっというまに戦国大名たちや、大儲けを狙う商人の耳に入りました。紀伊国や堺からは商人や大名の意向を受けた鍛冶職人が続々と訪れました。日本における最先端の科学技術は種子島から始まったと言ってもいいでしょう。

当時の日本は戦国時代。紀伊国の根来、近江の国友、和泉の堺など、織田信長は自分の領地に大規模な火縄銃を制作する場所を作りました。当初は「種子島」や「火縄銃」などいろいろな呼び名がありましたが、鉄砲という呼び名が浸透していきました。

鉄砲は個人戦だった戦いを集団戦に変えます。非戦闘員も流れ弾などで命を落とすようになりました。鉄砲隊により多くの敵を一度に殺した者が勝者。たくさんの土地を得て、それによるお金を元手に鉄砲を作ってさらに強くなりました。小大名や地頭たちの多くは敗者となり、鉄砲をたくさん持つ大名が独り勝ちする時代になりました。

鉄砲伝来は大航海時代の終わりにもたらされた

Detail from a map of Ortelius - Magellan's ship Victoria.png
By Ortelius – www.helmink.com, Public Domain, Link

日本の記録による鉄砲伝来と、外国に残された記録とでは、意味付けなどに異なる分があります。つまり鉄砲伝来の意味は視点により異なるということ。ヨーロッパで始まった大航海時代の終わるころに日本に鉄砲が伝わりました。つまり鉄砲伝来は日本だけで完結する話ではないのです。

\次のページで「倭寇の暴れ回る時代」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: