日本の近代の歴史、そして世界の近代の歴史を勉強していく中で外せないのが、日本による朝鮮半島進出と植民地支配です。現在の朝鮮半島には韓国と北朝鮮という2つの国が存在しているが、日本による植民地支配が行われなければ、現在は1つの国しか朝鮮半島になかったかもしれない。

そんな日本による朝鮮半島進出で頻繁に出てくる言葉が「韓国統監府」と「朝鮮総督府」です。この2つ、混同している人も多いんですね。

今回はそんなややこしい「韓国統監府」と「朝鮮総督府」の違いを、歴史の流れとともに院卒日本語教師の"むかいひろき"と一緒に解説していきます。

ライター/むかいひろき

ロシアの大学に再就職した、日本で大学院修士課程修了の日本語教師。その職務上、言葉や日本の歴史、世界情勢には人より詳しい。その強みを活かして解説を進めて行く。

明治維新後、朝鮮に進出した日本

image by iStockphoto

1867年~1868年にかけて、明治維新によって武士が支配する国家から近代国家へと変貌を遂げた日本。その目はすでに外にも向けられていました。日本は手始めに周辺諸国との関係の再構築を始めます。その中で江戸時代以前から交流のあった朝鮮王朝に対して、近代的な条約による国交樹立を求めましたが、これまで通りの伝統的な交流を望んだ朝鮮王朝は拒絶を続けたのです。

すでに明治維新直後の1873年には、「征韓論」と呼ばれる「朝鮮に出兵し日本の言うことを聞かせよう」という考えが明示政府内で広まっていました。西郷隆盛の下野で一旦は「征韓論」は取り下げられたものの、1875年に日本は軍艦を朝鮮の江華島に派遣して武力挑発(江華島事件)、1876年には「日朝修好条規」という不平等条約を結び、日本は朝鮮を開国させます。

アメリカなど列強に不平等条約を押し付けられた日本が、明治の初めに同じことを朝鮮に対してしたのです

徐々に日本の影響下に置かれる朝鮮

日本の朝鮮半島への進出は、「日朝修好条規」という不平等条約締結では終了しませんでした。「日朝修好条規」締結後、1870年代~1890年代前半の朝鮮では国内の政治的対立が激しくなります。その朝鮮国内の対立に干渉したのが、朝鮮への影響力拡大を狙う日本と、属国である朝鮮への影響力を強化しようとしていた清国(現在の中国を支配していた王朝)でした

朝鮮をめぐる日本と清国の勢力争いは、1894年~1895年の日清戦争に発展します。この日清戦争で日本は世界の大方の予想を覆して大勝。日清戦争の結果、朝鮮における清国の影響力は大幅に低下し、朝鮮は清国の属国から脱し、「大韓帝国(通称:韓国)」と名前を改めます(1897年)。

しかし、日本は戦勝後の朝鮮(のちの韓国)への影響力拡大には失敗してしまいました。そう、あの大国が邪魔をしたのです。

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日露戦争での勝利で歴史がさらに動いた!

統監府庁舎
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日本と清国が朝鮮半島での勢力争いをしていた中、実はもう1つ、朝鮮半島への影響力拡大を狙っていた国がありました。ロシア帝国です。日清戦争後、ロシア帝国は朝鮮皇室に接近し、朝鮮半島での利権を着実に拡大していきました

朝鮮半島に大国であるロシア帝国が進出することは、当時の日本にとっては国家存亡にかかわる危機的状況。最初は日本は外交によって問題を解決しようとしましたが実現せず、日露戦争に発展しました。

この日露戦争の最中から、日本は韓国にさらに圧力をかけ、少しずつ韓国政府から国の支配権を奪い取っていったのです。(「第一次日韓協約」の締結)そして、日露戦争に日本が勝利したことにより、日本の朝鮮への圧力はさらに強まりました

1905年「韓国統監府」の設置

日露戦争に勝利した直後、日本は列強諸国の了承を取り付けたうえで、1905年11月7日に「第二次日韓協約」を韓国と締結します。この条約は、韓国の外交権を日本が握ることを認めさせ、韓国の内政全般を日本政府が実質行うことを認めさせる内容でした。この際、日本が韓国の統治を行うために1905年12月に設置されたのが、「韓国統監府」なのです。

もちろんこの条約に韓国の人々は多いに反発。各地で反日義兵闘争が繰り広げられることになりました。

日本の進出はとどまりを知らず…

朝鮮総督府庁舎
門田房太郞 - 朝鮮博覽會記念寫眞帖, パブリック・ドメイン, リンクによる

「韓国統監府」を設置し、韓国を保護国化した日本。ただ、この時点では「大韓帝国(通称:韓国)」はまだ存在しています。しかし、日本の進出はとどまるところを知りません。1907年にはハーグ密使事件を契機に「第三次日韓協約」を締結。高級官僚に日本人を採用することを認めさせるなど、日本による韓国支配はさらに強化されていきました。

韓国併合「朝鮮総督府」の設置へ(1910年)

ここまでは、一応形としては「大韓帝国(通称:韓国)」を存続させていた日本。しかし、その後も日本は韓国へのさらなる支配権強化を画策します。そして1910年8月22日に「韓国併合ニ関スル条約」を締結し、ついに大韓帝国を消滅させ、日本の植民地としてしまったのです。この出来事は「韓国併合」と呼ばれています。

この「韓国併合」によって設置されたのが「朝鮮総督府」です。なお、「朝鮮総督府」の設置にともない「韓国統監府」は廃止。「朝鮮総督府」は日本による朝鮮支配の要となる機関で、行政・司法の権力がここに集中していました。つまり、「朝鮮総督府」によって1910年8月22日から終戦後の1945年9月9日まで日本による朝鮮半島支配が行われていたのです。

日韓の歴史を振り返るうえで外せない両機関

今回は「韓国統監府」と「朝鮮総督府」の違いについて、歴史の流れとともに解説しました。

「韓国統監府」は1905年12月に日本が設置した機関で、日本が韓国という国を統治するために置かれました。この時点では韓国は存在しており、日本の植民地にはまだなっていません。一方の「朝鮮総督府」は「韓国併合」によって1910年8月に設置された機関で、日本が朝鮮半島を支配するために置かれました。この時点で韓国は消滅しており、日本の植民地となっています。

韓国という国を日本が上から押さえつけるために置かれたのが「韓国統監府」、日本の植民地としての朝鮮半島を支配するために置かれたのが「朝鮮総督府」と考えると良いでしょう。

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雑学

簡単に分かる「韓国統監府」と「朝鮮総督府」の違い!朝鮮半島支配の歴史を院卒日本語教師が分かりやすく解説

日本の近代の歴史、そして世界の近代の歴史を勉強していく中で外せないのが、日本による朝鮮半島進出と植民地支配です。現在の朝鮮半島には韓国と北朝鮮という2つの国が存在しているが、日本による植民地支配が行われなければ、現在は1つの国しか朝鮮半島になかったかもしれない。

そんな日本による朝鮮半島進出で頻繁に出てくる言葉が「韓国統監府」と「朝鮮総督府」です。この2つ、混同している人も多いんですね。

今回はそんなややこしい「韓国統監府」と「朝鮮総督府」の違いを、歴史の流れとともに院卒日本語教師の”むかいひろき”と一緒に解説していきます。

ライター/むかいひろき

ロシアの大学に再就職した、日本で大学院修士課程修了の日本語教師。その職務上、言葉や日本の歴史、世界情勢には人より詳しい。その強みを活かして解説を進めて行く。

明治維新後、朝鮮に進出した日本

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1867年~1868年にかけて、明治維新によって武士が支配する国家から近代国家へと変貌を遂げた日本。その目はすでに外にも向けられていました。日本は手始めに周辺諸国との関係の再構築を始めます。その中で江戸時代以前から交流のあった朝鮮王朝に対して、近代的な条約による国交樹立を求めましたが、これまで通りの伝統的な交流を望んだ朝鮮王朝は拒絶を続けたのです。

すでに明治維新直後の1873年には、「征韓論」と呼ばれる「朝鮮に出兵し日本の言うことを聞かせよう」という考えが明示政府内で広まっていました。西郷隆盛の下野で一旦は「征韓論」は取り下げられたものの、1875年に日本は軍艦を朝鮮の江華島に派遣して武力挑発(江華島事件)、1876年には「日朝修好条規」という不平等条約を結び、日本は朝鮮を開国させます。

アメリカなど列強に不平等条約を押し付けられた日本が、明治の初めに同じことを朝鮮に対してしたのです

徐々に日本の影響下に置かれる朝鮮

日本の朝鮮半島への進出は、「日朝修好条規」という不平等条約締結では終了しませんでした。「日朝修好条規」締結後、1870年代~1890年代前半の朝鮮では国内の政治的対立が激しくなります。その朝鮮国内の対立に干渉したのが、朝鮮への影響力拡大を狙う日本と、属国である朝鮮への影響力を強化しようとしていた清国(現在の中国を支配していた王朝)でした

朝鮮をめぐる日本と清国の勢力争いは、1894年~1895年の日清戦争に発展します。この日清戦争で日本は世界の大方の予想を覆して大勝。日清戦争の結果、朝鮮における清国の影響力は大幅に低下し、朝鮮は清国の属国から脱し、「大韓帝国(通称:韓国)」と名前を改めます(1897年)。

しかし、日本は戦勝後の朝鮮(のちの韓国)への影響力拡大には失敗してしまいました。そう、あの大国が邪魔をしたのです。

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