長州藩が世界を相手に戦争!?「下関事件」
一方、同じく攘夷を強く主張していた長州藩は、下関に砲台を設置して外国船を攻撃しました。攻撃をしかけられたアメリカ、イギリス、フランス、オランダは当然ながら激怒。連合を組んだ四つの国に長州藩もまた完膚なきまでにやられてしまいます。そして、この下関の砲台を占拠される「下関事件」が起こりました。
「薩英戦争」も「下関事件」もなんとか和解する形に持っていけたのですが、薩摩藩と長州藩は身をもって「攘夷など到底無理なことだ」とわからされてしまったのです。
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「薩長同盟」締結!薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允の出会い
攘夷が現実的ではないと突き付けられた薩摩藩と長州藩ですが、実は犬猿の仲といわれるほど関係が悪い。同じく痛い目にあった同士ではあるものの、手を組むなんて絶対に無理な話でした。
そこへ現れたのがあの「坂本龍馬」です。彼は両藩を必死に説得し、なんとか代表者の秘密の会談を取り付けます。このとき両藩の代表として出てきたのが西郷隆盛と木戸孝允でした。ここでようやく登場ですね。さて、二人は話し合って倒幕のために手を取り合うことを誓い、「薩長同盟」が結ばれます。1866年1月のことでした。
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2.「大政奉還」完了!明治維新のはじまり
秘密裏に薩長同盟が結ばれたあと、江戸幕府では十四代将軍徳川家茂が急死。さらに佐幕派(幕府を支持する立場)だった孝明天皇も崩御と江戸幕府は大打撃を受けます。そして、十五代将軍となったのが徳川慶喜でした。
彼は徳川御三家のひとつ水戸藩の出身であり、水戸藩は御三家でありながら尊王派を掲げる少し変わった藩です。そんな素地もあってか、1867年に徳川慶喜は「大政奉還」を行い、政権を天皇に返上しました。これにより、江戸幕府が終わりを告げ、明治政府が誕生するのです。
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明治天皇と明治政府の名だたるメンバーたち
明治政府の中心はもちろん明治天皇。すべての政策は明治天皇の名前で出されます。ところが、このとき明治天皇は15歳くらい。今だと中高生ですね。まだまだ守られるべき子どもであり、政治を主導できません。ということで、明治天皇に代わって政治を回す人間が必要でした。そこで活躍したのが、倒幕に大きく貢献した薩摩藩や長州藩、土佐藩、肥前藩(佐賀県)の人々です。薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩を合わせて「薩長土肥」といいます。
明治政府のメンバーは維新三傑の西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允はもちろんのこと、他にも明治天皇の側近で公家の「岩倉具視」や「三条実美」。長州藩の「伊藤博文」に、土佐藩から「板垣退助」、肥前藩から「大隈重信」と、覚えおいて損のない人物が揃っています。
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明治政府樹立!でも徳川家は滅びてない!?「戊辰戦争」勃発
明治政府が一番に行ったのは「王政復古の大号令」。これは「武士の世が終わり、天皇による政治が復活した」という宣言です。
ただ、ここで注意しなければいけないのは、「江戸幕府は終わったけれど、徳川家が滅びたわけではない」ということ。徳川慶喜もその家臣たちも生きているし、身分はなくなっても相当な財産を持っていました。明治政府にとって彼らは将来的な不安要素だったわけです。
一方の旧幕府側も大政奉還後に徳川家が政治に参加するつもりでいました。けれど、それも王政復古の大号令によって先手を打たれて潰されてしまいます。
このことから旧幕府側が新政府に反発し1868年に「戊辰戦争」が起こってしまったのです。
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西郷隆盛を説得!大決戦を避けて「江戸城の無血開城」
戊辰戦争で、西郷隆盛は明治政府側の指導者のひとりとして参戦していました。そうして、鳥羽・伏見の戦いのあと、旧幕府軍が立てこもる江戸城へと赴いたのです。そこで待っていたのは旧幕府軍の軍艦奉行「勝海舟」。彼は日本が二つに割れて争っている間に外国に介入されて植民地化されてしまうことを危惧していました。そこで、勝海舟は西郷隆盛に江戸城を明け渡す交渉を持ち掛けます。
最初は強硬派だった西郷隆盛も勝海舟の必死の説得に応じ、ついに「江戸城の無血開城」が行われました。戦争がすでに起こっているというのに、江戸が血を流すことなく開かれたことは非常に歴史的価値のある出来事です。
旧幕府軍のなかにはそれでも納得できない人もいます。彼らはさらに東北へ向かい、北海道の箱館で起こった「五稜郭の戦い」で最後を迎え、1869年に戊辰戦争終結となったのです。
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この当時、アジアで植民地化されなかった国は日本とタイのたったふたつだけ。日本は不平等条約を結んでいましたが、植民地とまでならなかったのは、当時の人々のこういった並々ならない思いがあり、さらに植民地化を避けるよう努力を続けたからでしょうね。
明治政府の中心!大久保利通の政策
西郷隆盛が武人的な活躍をする一方、大久保利通は内閣発足前の政府で内務卿(事実上の首相)となって制度の改革を行っていきます。
まず、明治政府は国の中心となるべく、「中央集権化」しなければなりません。地方で力を持っていたのは江戸幕府が設置した「藩」で、その土地とそこに住む人々もまた各地の藩が所有していました。いわゆる「地方分権」体制です。そこで発布されたのが「版籍奉還」と「廃藩置県」。このふたつによって藩の領地と人民を国(天皇)へ返還、ようやく中央集権体制が整ったのでした。
さらに西洋列強に追いつくべく「富国強兵」をスローガンに掲げます。「日本を近代化し、国を豊かに、そして、強くしていこう」という目標ですね。そのためにまずは殖産興業政策を施行して積極的に産業を育てます。世界遺産になった富岡製糸場はこのスローガンによってつくられたんですよ。
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革命家から政府官僚へ!木戸孝允の高い政治力
木戸孝允もまた政府内で活躍しています。明治政府発足後は総裁局顧問となり、政府の最終決裁権を持ちました。
そして、「五箇条の御誓文」を起草。五箇条の御誓文はいわば明治政府の基本方針であり、明治天皇が祖先の日本神話の神々に誓いを立てる形で発表しました。さらに明治政府は新しい世の中をつくるために旧制度を壊し、新しい制度を導入していきます。版籍奉還、廃藩置県、学制、四民平等、憲法制定などなど、木戸孝允は総裁局顧問として意見を言い、決断を下していきました。
「五箇条の御誓文」の五つの文を簡単に現代語訳します。
・会議を開いて多くの意見を聞いて決める。
・国民みんなで心を一つにして、国を治めていこう。
・身分に関係なく、誰もが志をなしとげられるようにしよう。
・昔の習慣はやめて、天然自然の条理に合うように行おう。
・世界から学んで、天皇が治める国が栄えるようにしよう。
時世を読んで日本を変えていった偉人たち
江戸時代末期、黒船来航をきっかけに日本は大きな転換期を迎えます。それまで鎖国してきた日本は世界の情勢を急いで知り、その対応をしなければなりませんでした。しかし、江戸幕府では十分に対応できないという考えもあり、「尊王」「攘夷」「倒幕」が叫ばれるように。「維新三傑」の西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允はそれぞれの藩で外国の圧倒的な強さを身をもって知り、「攘夷」は無理な話であり、同時に世界に追いつかなければならないと悟りました。そうして、倒幕を果たし天皇中心の明治政府を立ち上げます。西洋列強に負けないために、西郷隆盛が内戦を治めに走り、大久保利通と木戸孝允は古い制度をやめて新しい政策を打ち出し、それぞれの力を発揮して現代へと続く日本を作っていったのです。