奈良時代日本史

簡単にわかる「藤原仲麻呂」藤原氏の復権!?橘諸兄との政権争いの結末は?歴史オタクがわかりやすく解説

藤原氏といえば昔の日本を代表する政治家一族です。今回題材にする「藤原仲麻呂」もそのひとりです。ですが、彼は政治家として頂点からどん底まで味わうことになる。一個人の人生の浮き沈みではありますが、やっぱり藤原氏の一員だから、その浮き沈みは歴史の教科書になるってわけです。
今回はその「藤原仲麻呂」について、当時の時代背景や周辺人物を含めて歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回は奈良時代日本の政治家「藤原仲麻呂」について詳しくまとめた。

1.藤原家を再興せよ!藤原南家のご子息「藤原仲麻呂」

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今回のテーマ「藤原仲麻呂」は、苗字のとおり、奈良時代や平安時代に活躍した政治家一族「藤原氏」の一員です。さらに、父は藤原南家の祖・藤原武智麻呂であり、祖父は藤原家を大きく発展させた藤原不比等、曾祖父は中臣鎌足(藤原鎌足)というスーパーエリートでした。藤原仲麻呂本人も藤原南家の嫡男として父・藤原武智麻呂の死後に家督を継いで政治家となるのですが…。

藤原仲麻呂の誕生は、藤原氏が繁栄の道を歩み始めた最初のころ。絶対的に盤石というわけではなかったのです。

藤原氏なのに盤石じゃない?当時の藤原氏と天皇家、政治の関係に迫る

まずは、藤原仲麻呂が政治家として宮中に上がる以前から触れていきましょう。藤原氏が朝廷で台頭するようになったのは祖父の藤原不比等の時代のこと。朝廷で大きな力を持つようになった藤原不比等は、自分の娘「光明子」を聖武天皇の皇后にしようとしていました。

この当時、天皇は複数の夫人を持つのは普通のことです。しかし、天皇の正妻、つまり、皇后だけは天皇家の血を引く特別な女性でなければなりませんでした。なぜなら、昔は夫の天皇の崩御後に皇后が変わって天皇に即位することがあったからです。

光明子が皇后になれば、藤原不比等は皇后の父になるわけですから、政治上の立場も大きくなりますよね。政敵の猛反対もありつつも、藤原不比等の息子たちの代になって、なんとか光明子を立后させ日本初の皇族の血を引かない「光明皇后」が誕生したのです。

藤原氏にエースがいない?藤原氏の後退と橘諸兄の昇進

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しかし、天然痘によって藤原不比等の息子たちは相次いで亡くなってしまい、代わりにその穴を埋めたのが「橘諸兄」でした。橘氏もまた力の強い公家のひとつであり、橘諸兄は光明皇后の異父兄にあたる橘家の後継者だったのです。右大臣(現在の副総理大臣レベルの官職)となった橘諸兄は唐への留学経験のある「吉備真備」らを取り立てて朝廷を運営することに。

ちなみに、天然痘で亡くなった政治家は藤原四兄弟以外にもたくさんいて、この当時は人材不足に悩まされました。しかし、その反面、人材不足解消のために吉備真備など家柄に関係なく出世できた官僚は多かったのです

一方、藤原氏はというと、天然痘の魔の手を免れた藤原武智麻呂の息子・藤原仲麻呂もまた順調に出世を重ねていました。ただ、まだ朝廷の中心に関われるほどではありませんでした。

天然痘の流行により光明皇后は次々と兄を亡くしてしまいました。誰だって家族を失えば悲しみに暮れてしまうというもの。光明皇后はその悲しみや不安から、夫の聖武天皇に大仏建立をお願いしたのです。

頼まれた聖武天皇は自ら僧侶の最高位・大僧都を与えた「行基」に大仏建立を任せます。こうしてできたのが国宝「東大寺盧舎那仏像」、いわゆる「奈良の大仏」です。

2.奈良時代は波乱ばかり!?いとこ孝謙天皇の即位

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奈良時代は天然痘の流行の他にも「藤原広嗣の乱」や飢饉など社会不安が尽きない時代でした。だからこそ聖武天皇は仏教に救いを求め奈良の東大寺を建立。さらに不安から逃げるように三度に渡る遷都を実施しました(遷都の最後は結局平城京へ帰ってくるのですが)。そうしたなか、聖武天皇は光明皇后との間に生まれた皇女に譲位して「孝謙天皇」が即位します。

光明皇太后の信頼から大出世!藤原仲麻呂台頭のはじまり

藤原仲麻呂にとって光明皇后は叔母であり、孝謙天皇はいとこにあたります。藤原仲麻呂は光明皇太后からの信頼が篤く、孝謙天皇からも重用されたことで急速に昇進し、大納言(現代だと主要閣僚あたり)となりました。

同時に、藤原仲麻呂は「紫微中台」の長官と「中衛府」の大将も兼任します。「紫微中台」は光明皇太后の私的財産を管理する組織…だったのですが、実際は光明皇太后の命令を実行する武力を備えた組織でした。要は、朝廷とは別口の政治、軍事機関だったのです。藤原仲麻呂はその長官なので、紫微中台は彼の指揮下にありました。さらに「中衛府」は天皇の親衛軍のひとつ。こちらも権力と武力を持つ組織でした。

左大臣より偉い?橘諸兄を失脚させてトップに!

大納言、紫微中台の長官、中衛府の大将…と、巨大な権力を手に入れた藤原仲麻呂。左大臣・橘諸兄とも肩を並べます。

そうしたなか、755年に「橘諸兄が酒の席で聖武上皇を誹謗した」という密告が上がりました。誹謗内容は不敬であり、また謀反の疑いが含まれるものだとされます。しかし、ウソか真実かはわかりません。聖武上皇は橘諸兄との長年の付き合いから、そんな告げ口には取り合いませんでした。けれど、橘諸兄はそんな話が出てしまったこと自体を恥じて、自ら左大臣を辞職してしまいます。

そして、橘諸兄は引退の翌年に亡くなってしまうのでした。

藤原仲麻呂に対する不満爆発!「橘奈良麻呂の乱」

橘諸兄には「橘奈良麻呂」という息子がいました。しかし、藤原仲麻呂の台頭によって父・橘諸兄が押され、さらに讒言をきっかけに引退したことでさらに藤原仲麻呂に対する橘奈良麻呂の不満は募っていくばかり。そうして、橘奈良麻呂は謀反を企てます。

ところで、このとき孝謙天皇に跡を継げる子どもはいませんでした。それに、基本的に女性天皇は未婚か未亡人であり、たいていが一代限りです。そのために聖武上皇は道祖王を立太子させていました。しかし、聖武上皇の崩御後に道祖王は孝謙天皇の機嫌を損ねたとして廃太子となります。そうして代わりに立太子したのが大炊王、のちの淳仁天皇でした。けれど、大炊王は藤原仲麻呂が後ろ盾となっている人物であり、大炊王が即位すれば藤原仲麻呂の天下が続いてしまうことに…。

だからこそ、橘奈良麻呂は謀反をやめず、同志へ謀反への参加を呼びかけ続けました。

\次のページで「密告により失敗!謀反で得をしたのは誰?」を解説!/

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