
家光は大改修の影響により参拝が困難に
寛永の大造替を行ったのが三代目の将軍の家光。家康の意に反して多額のお金を改修につぎ込みました。その結果、徳川家の財政が苦しくなってしまい、肝心の日光参拝ができなくなるほどでした。その後の歴代将軍もなんとか参拝をするものの回数は激減するというありさまでした。
そこで思い切って大規模な日光参拝を断行したのが徳川吉宗です。享保の改革やテレビドラマなどの影響もあり、質素な倹約家というイメージが強い吉宗ですが、幕府の財政状況が絶望的な状況であるにも関わらず、日光参拝を大々的に行うことを決定しました。
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徳川吉宗が日光参拝に力を入れた理由
徳川家の財政が困窮していた理由は寛美さを追求することによる出費。吉宗は日光参拝を実現するために倹約政策を徹底しました。吉宗は徳川体制は贅沢や腐敗などにより下り坂であることを認識し、さまざまな改革を行いました。
初心に帰ることを重んじていた吉宗にとって、初代将軍の家康の霊廟に参拝することは特別な意味があったのでしょう。質素倹約により作った資金をすべて日光参拝につぎ込み、13万人の大移動を実現しました。しかしながら無理やり人員を動員したことにより、賃金や物価が高騰。日光参拝は当時の経済にも少なからず負の影響を与えました。
徳川吉宗は江戸幕府の再興に貢献した人物として知られています。しかし日光参拝の様子を見ていると疑問が残ることも事実。譜代大名と旗本だけでも約13万3000人。人足は約22万8000人。武士たちも自腹で日光に参拝しました。もちろん農民たちも駆り出され、行列が来る前に道路の整備などをすることに。かなりの労力とお金がつぎ込まれました。
日光東照宮は本当に家康が思い描いたものなのか
日光東照宮は初代将軍の徳川家康の霊廟として建てられました。家康が重視していたのは徳川家が永遠に武士集団のトップに君臨すること。自分が亡くなったあとも神になって徳川家を守ろうとしました。しかしながら歴代の将軍は日光東照宮を年々豪華にしていき、日光参拝による財政的ダメージを蓄積してきました。明治維新は江戸幕府の弱体化が一因。そのひとつに日光東照宮の存在があったのかもしれません。