日光東照宮は栃木県日光市にある神社のこと。観光名所としてその名前を聞いたことがある人も多いでしょう。日本全国に東照宮がありますが、その総本山であるのが日光東照宮です。

ユネスコ世界文化遺産の「日光の社寺」のひとつでもある日光東照宮。その歴史や見どころなどを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。文化遺産にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は日本を代表する世界遺産としても知られている日光東照宮について詳しくまとめてみた。

徳川家康を祀る日光東照宮

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Ray in Manila - Yomeimon (Gate of Sunlight), Nikkō Tōshō-gū, CC 表示 2.0, リンクによる

日光東照宮に祀られているのは徳川家康。言わずと知れた江戸幕府の初代将軍です。ここで家康は東照大権現として神格化されました。徳川家康の霊廟でもあることから、そののちは歴代将軍が定期的に日光に参拝するようになりました。現在はユネスコ世界文化遺産にも「日光の社寺」のひとつとして登録されています。

日光東照宮を建造したのは徳川秀忠

徳川家康が亡くなったのは1616年のこと。当初、家康の遺骨は現在の静岡県にある久能山東照宮に祀られました。ところが二代目の将軍である秀忠は、遺骨を日光に移すことを決定。現在の日光にて改葬されることになりました。そこで家康は朝廷より「東照大権現」という神号を得て神格化されました。

実はこの当時、家康をどのように位置づけるのかで論争が起こっています。秀忠に改葬を命じられた天海僧正は、家康を山王神道で祀るつもりでした。それに対して吉田神道が反対。最終的に山王神道が採用されました。そのため日光東照宮にて家康は神仏習合によって祀られました

日光東照宮を特徴づける神仏習合とは?

日光東照宮では薬師如来を本地仏と位置づけました。仏は実は神の正体であるという神仏習合の考え方です。日本に仏教がもたらされた平安時代、仏教がメインの信仰で神道はサブ的な位置づけとされていました。そこで、菩薩は神の仮の姿であるという考え方が浸透しました。

とはいえ庶民のあいだでは神と仏の区別はありません。そのため理論的な矛盾を解決するために神仏習合という考え方が生まれました。とはいえ神道が仏教に完全に吸収されることはなく、それぞれが役割を分担していました。そのため家康の神格化は神道を崇拝していた朝廷が行っています

日光東照宮で出会える動物たち

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Jean-Pierre Dalbéra from Paris, France - Le chat qui dort du sanctuaire shinto Toshogu de Nikko (Japon), CC 表示 2.0, リンクによる

日光東照宮は江戸幕府の初代将軍である徳川家康を祀っている神社。家康を東照大権現として神格化していることが特徴です。日光東照宮はさまざまな彫刻が施された荘厳な建築物が特徴。とくに目を引くのは動物の彫刻です。動物たちはそれぞれ意味が付与されました。

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日光東照宮の見どころは「動物」

もともとは徳川家康を神格化して祀った神社ですが、今は建造物に彫られた動物が見どころとされています。日光東照宮には五重塔があるのですが、そこに彫られているのが十二支の動物たち。ちなみに五重塔の正面に彫られている寅、兎、龍は、家康、秀忠、家光の3名の干支です。

とくに有名な動物は「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿でしょう。三猿がいるのは「うまや」。神様に仕える馬をつなぐ神厩舎です。実は猿は馬の守り神。世話をしながら守る存在とされています。8面に渡って猿の彫刻があらわしているのは人間の一生。いわゆる風刺として描かれています。

日光東照宮の動物は多種多様

日本で最も美しい門と言われているのは国宝の陽明門。門には多種多様な彫刻が彫られており、一日中見ても飽きないと言われるほど。門にはさまざまな龍が彫られていますが、なかでも有名なものが「目貫きの龍」と言われるものです。この龍は目だけが彫られていません。未完の美しさと永遠性をあらわすために、あえて彫りませんでした。

眠り猫もまた日光東照宮のシンボルともいえる彫り物です。眠り猫がいるのは東回廊の潜門。牡丹の花のなかで眠っている猫が彫られています。日の光を浴びて眠る猫は「日光」という地名を意識してのこと。左甚五郎という伝説的な彫刻職人による作品と言われています。

家康が誕生したのは三河の岡崎城。定説によると1542年12月26日に生まれたとされています。それに従えば家康の干支は寅。日光東照宮の彫刻に寅が多いことは納得できるでしょう。しかしながら実際は1543年に生まれたという説も存在。それが本当であれば自分の勇敢なイメージを守るために寅にこだわったのかもしれませんね。

日光東照宮ができるまで

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1617年に社殿が完成。その後も増築が繰り返されてきました。とくに大々的に改修を行ったのが3代将軍の徳川家光です。家光は日光社参したのちに寛永の大造替を行うことを決断。その理由は1621年に神忌を迎えるからでした。社殿はこの大改修により、さらに荘厳なものとなりました。

寛永の大造替では全国の職人が動員

日光造営のために総奉行の役が置かれました。その役を任命されたのは秋元泰朝。彼は大改修のために全国から宮大工たちを招集しました。たくさんの宮大工たちを取りまとめたのが甲良宗広と彼の門下生たち。唐風のデザインを得意とする大工棟梁です。

甲良宗広の代表作は日光東照宮。カラフルな色彩と多様な彫刻を随所にちりばめました。その荘厳な建築様式は、それ以降の寺社建築の方向性を作ったと言ってもいいでしょう。ちなみに甲良宗広は日光東照宮の他にも増上寺や寛永寺の建造にも深く関わっています。

家康を日光に祀ることになった理由

家康が自分を日光に祀るように遺言を残したことから、日光東照宮の建造がはじまりました。日光に祀るまでの過程も家康は細かく指定。最初は遺体を久能山におさめること。一周忌が過ぎたら日光に移して、神として祀るよう遺言にしたためました。そうすることで家康は日本全土の守り神になると考えたからです。

徳川家康が目指していたのは徳川幕府が永遠に安泰であり続けること。それが実現することで日本の永遠の平和が実現すると考えたのです。日光という場所は天文学により導き出されたもの。北極星の位置にあたると考えました。さらに日光東照宮の表参道は寛永寺の旧本堂につながるとも言われています。

明治維新のあとは論争の火種となった日光東照宮

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日光東照宮は神社とお寺が共存する神仏習合スタイルでした。それが明治維新のあとに状況が一転します。明治政府は神仏を分離させることを決定。神社とお寺は別々のものとして明確化されました。その結果、日光東照宮は論争の火種となります。

日光東照宮の神仏分離

明治政府が目指したのは「王政復古」と「祭政一致」。神道の国教化を決定しました。神仏習合は禁止されたため日光も神社とお寺に分けられました。神社は東照宮と二荒山神社。輪王寺は寺社として独立しました。その結果、日光は二社一寺となりました。

神仏が分離されたことで敷地内にあるものの帰属をめぐって衝突します。東照宮のなかにある七堂塔は仏式。しかしながら当初から東照宮の敷地内にあるため、東照宮の所有であるという訴えが起こされました。それだけ建造されたときは神社とお寺の区別がなく神仏が入り混じっていたことが分かります。

神仏分離はどのように行われたのか

明治政府が日光東照宮に求めたのは神社とお寺の敷地の区別を明確にすること。そこで神社の敷地のなかにある仏堂などを移動することを命じました。建物のほかにも彫刻、祭礼のための道具もすべてチェック。神社とお寺のどちらのものなのか明確にしていきました。

その結果、三仏堂、相輪塔、鐘楼、本地堂、五重塔、護摩堂、経蔵などを輪王寺に移すことが決定。とはいえ、これまでは徳川家の財源に支えられてきたこともあり、どの寺社も財政難。施設を移す作業はなかなか進みませんでした。

明治政府にとって日光東照宮は天敵の創始者を神として祀っている場所。それなのに日光東照宮を残したことは不思議ですよね。実は当初、明確に神仏を分離をすることは無理だと日光の寺社は訴えていました。しかし神仏分離を実行しないと東照宮を廃止すると明治政府は決定します。衝突することもありましたが、家康の霊廟を守るために寺社が一致団結した一面もあるのかもしれませんね。

徳川家を財政的に苦しめた日光東照宮

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実は日光東照宮は、家康の遺言によると質素なものを希望していました。あまり豪華にするとその後に徳川家の首を絞めることを懸念してもことでした。そのため当初の日光東照宮はきわめて質素。それが三代将軍以降、豪華絢爛になったことで財政的に苦しめられてきました。

\次のページで「家光は大改修の影響により参拝が困難に」を解説!/

家光は大改修の影響により参拝が困難に

寛永の大造替を行ったのが三代目の将軍の家光。家康の意に反して多額のお金を改修につぎ込みました。その結果、徳川家の財政が苦しくなってしまい、肝心の日光参拝ができなくなるほどでした。その後の歴代将軍もなんとか参拝をするものの回数は激減するというありさまでした。

そこで思い切って大規模な日光参拝を断行したのが徳川吉宗です。享保の改革やテレビドラマなどの影響もあり、質素な倹約家というイメージが強い吉宗ですが、幕府の財政状況が絶望的な状況であるにも関わらず、日光参拝を大々的に行うことを決定しました。

徳川吉宗が日光参拝に力を入れた理由

徳川家の財政が困窮していた理由は寛美さを追求することによる出費。吉宗は日光参拝を実現するために倹約政策を徹底しました。吉宗は徳川体制は贅沢や腐敗などにより下り坂であることを認識し、さまざまな改革を行いました。

初心に帰ることを重んじていた吉宗にとって、初代将軍の家康の霊廟に参拝することは特別な意味があったのでしょう。質素倹約により作った資金をすべて日光参拝につぎ込み、13万人の大移動を実現しました。しかしながら無理やり人員を動員したことにより、賃金や物価が高騰。日光参拝は当時の経済にも少なからず負の影響を与えました

徳川吉宗は江戸幕府の再興に貢献した人物として知られています。しかし日光参拝の様子を見ていると疑問が残ることも事実。譜代大名と旗本だけでも約13万3000人。人足は約22万8000人。武士たちも自腹で日光に参拝しました。もちろん農民たちも駆り出され、行列が来る前に道路の整備などをすることに。かなりの労力とお金がつぎ込まれました。

日光東照宮は本当に家康が思い描いたものなのか

日光東照宮は初代将軍の徳川家康の霊廟として建てられました。家康が重視していたのは徳川家が永遠に武士集団のトップに君臨すること。自分が亡くなったあとも神になって徳川家を守ろうとしました。しかしながら歴代の将軍は日光東照宮を年々豪華にしていき、日光参拝による財政的ダメージを蓄積してきました。明治維新は江戸幕府の弱体化が一因。そのひとつに日光東照宮の存在があったのかもしれません。

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日本史江戸時代

主祭神は徳川家康「日光東照宮」の建造の経緯や見どころなどを元大学教員が簡単に分かりやすく解説

日光東照宮は栃木県日光市にある神社のこと。観光名所としてその名前を聞いたことがある人も多いでしょう。日本全国に東照宮がありますが、その総本山であるのが日光東照宮です。

ユネスコ世界文化遺産の「日光の社寺」のひとつでもある日光東照宮。その歴史や見どころなどを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。文化遺産にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は日本を代表する世界遺産としても知られている日光東照宮について詳しくまとめてみた。

徳川家康を祀る日光東照宮

日光東照宮に祀られているのは徳川家康。言わずと知れた江戸幕府の初代将軍です。ここで家康は東照大権現として神格化されました。徳川家康の霊廟でもあることから、そののちは歴代将軍が定期的に日光に参拝するようになりました。現在はユネスコ世界文化遺産にも「日光の社寺」のひとつとして登録されています。

日光東照宮を建造したのは徳川秀忠

徳川家康が亡くなったのは1616年のこと。当初、家康の遺骨は現在の静岡県にある久能山東照宮に祀られました。ところが二代目の将軍である秀忠は、遺骨を日光に移すことを決定。現在の日光にて改葬されることになりました。そこで家康は朝廷より「東照大権現」という神号を得て神格化されました。

実はこの当時、家康をどのように位置づけるのかで論争が起こっています。秀忠に改葬を命じられた天海僧正は、家康を山王神道で祀るつもりでした。それに対して吉田神道が反対。最終的に山王神道が採用されました。そのため日光東照宮にて家康は神仏習合によって祀られました

日光東照宮を特徴づける神仏習合とは?

日光東照宮では薬師如来を本地仏と位置づけました。仏は実は神の正体であるという神仏習合の考え方です。日本に仏教がもたらされた平安時代、仏教がメインの信仰で神道はサブ的な位置づけとされていました。そこで、菩薩は神の仮の姿であるという考え方が浸透しました。

とはいえ庶民のあいだでは神と仏の区別はありません。そのため理論的な矛盾を解決するために神仏習合という考え方が生まれました。とはいえ神道が仏教に完全に吸収されることはなく、それぞれが役割を分担していました。そのため家康の神格化は神道を崇拝していた朝廷が行っています

日光東照宮で出会える動物たち

日光東照宮は江戸幕府の初代将軍である徳川家康を祀っている神社。家康を東照大権現として神格化していることが特徴です。日光東照宮はさまざまな彫刻が施された荘厳な建築物が特徴。とくに目を引くのは動物の彫刻です。動物たちはそれぞれ意味が付与されました。

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