富太郎の研究
22歳の頃、地元高知で富太郎は新種の植物を発見しました。この植物について富太郎は27歳になった1889年、大久保三郎とともに「植物学雑誌」で発表します。
日本人が初めて日本の雑誌で植物の学名を発表したのがこの『ヤマトグサ』です。この前年、伊藤篤太郎がトガクシソウという学名を付けた植物をイギリスで発表しています。そのため、日本人の学名を付けたのはこれが2例目。そして28歳の時に日本で初めてムジナモを発見し、これをきっかけに世界に富太郎の名が広まったのです。
しかしそんな中、矢田部教授と仲たがいし、研究室への出入りを禁止されてしまいます。矢田部教授はたくさんの時間とお金をかけて一生懸命収集した研究室の標本をもとに本を出版しようとしていました。しかしそれよりも先に研究室に出入りしていた富太郎が、標本をもとに本を出版してしまったのです。それが『日本植物志図篇』でした。
道楽息子と言われた富太郎
研究ができなくなった富太郎。そんな富太郎を、実家の破産というさらなる災難が襲います。祖母浪子が亡き後も実家からの支援で研究をしてきた富太郎でしたが、ついに財産が底をついたのです。
そのため地元に戻った富太郎でしたが、そこでも植物の研究を続けます。そんな中、富太郎の才能を買っていた研究者の計らいで駒場農学校(現在の東京大学農学部)にて研究ができる事となりました。
助手としての給料で家族を養う富太郎ですが、貧乏生活が続きます。研究のためとなると富太郎はどんどんお金を使ってしまうからです。そんな富太郎を妻の壽衛は「まるで道楽息子をひとり抱えたようだ」と言いながら支えてくれました。後に富太郎は新種の笹にそんな妻の名からスエコザサと名付けます。
日本植物図鑑の完成
植物の研究を続け功績はあるものの、学歴がない事でなかなか認められなかった富太郎ですが1927年、ついに論文が認められついに理学博士となります。博士となっても富太郎は77歳で東京大学を去るまで講師を続けたのでした。そして退官後の1940年、富太郎は今でも読み継がれている『牧野日本植物図鑑』を出版します。
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晩年の富太郎
image by Study-Z編集部
1951年、富太郎は第1回文化功労者に選ばれました。文化功労者と言えば科学者や芸術家など文化の向上発達に貢献した人物に贈られるものです。記念すべき第1回には富太郎の他に作家の志賀直哉、物理学者の湯川秀樹などが受賞しています。
この頃、富太郎の自宅には未整理の植物標本が約50万点ありました。この標本を整理するために牧野博士標本保存委員会が組織されます。
退官後も植物への愛を持ち続けた富太郎。牧野日本植物図鑑を読んで植物に興味を持ったという手紙を送ってきた小学生と交流し指導したりしていました。その小学生は後に牧野植物園の園長となった植物学者、小山鐡夫です。体が動かなくなっても自宅の庭で植物を愛でながら過ごしていた富太郎は1957年、子供や孫に見守られながら永眠しました。
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