今回はそんな牧野富太郎について解説する。担当は司書資格をもつ科学館職員のたかはしふみかです。
ライター/たかはし ふみか
伝記を読むのが好きな科学館職員。司書資格も持っている。おばあちゃんの影響で朝ドラは幼いことから見ていた。
牧野富太郎の生涯
今回のテーマは植物学者の牧野富太郎(まきのとみたろう)。日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎は94年の人生で1500以上の植物に名前を付け、そして14万枚の標本を残しました。まずは富太郎の生涯について解説していきます。
後の植物学の父、牧野少年
牧野富太郎が誕生したのは今から160年以上前の1862年、第14代徳川家茂が将軍を務めていた江戸時代末期です。土佐(現在の高知県)の佐川村で造り酒屋と商家を営む裕福な家庭の一人息子として生まれました。
3歳で父、5歳で母、さらに祖父とも死別した富太郎は祖母の浪子に育てられます。富太郎の生まれた頃の名前は成太郎でしたが、この不運を断ち切るために富太郎と改名したそうです。
10歳から寺小屋に通い文字を、さらに名教館という塾で漢学、物理学、天文学などを学びました。しかし教育の制度が変わり12歳でまた小学校からやり直すことになった富太郎は14歳で小学校を自主退学。そして幼い頃から植物が好きだった富太郎は自分で本を読んだり観察しながら植物について勉強します。また、この頃から草木はもちろん、化石や昆虫などの絵を描き、観察する目を養っていたのです。
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富太郎の出会いと夢
富太郎は17歳で高知市内の学校で再び学ぶようになります。その頃に会ったのが永沼小一郎という中学校の教師です。永沼は西洋の植物学の本を翻訳しており、そこで動植物を分類する分類学と出会います。
海外の植物学や江戸時代の本草学(医薬に関する学問)に触れた富太郎。より植物学を学んで日本の植物についてまとめたい、新しい植物に名前を付けたいと思うようになりました。そして当時は高知から何日もかかる東京に出向き、本を買ったり展覧会に出かけて見分を広げていきます。
跡取り息子でありながら家のことはまったく気にしない富太郎。そんな富太郎のために祖母浪子は金を用意してやり、そして夢を応援して研究の道に進むことを認めてやります。
牧野青年、本格的に学び出す
22歳の富太郎は矢田部良吉(1851~1899)教授の東京大学理学部植物学教室を出入りするようになります。矢田部教授はアメリカで植物学を学び、帰国後は東京大学で植物の分類などを研究し標本の収集に勤しんでいました。
土佐で描き溜めた土佐植物目録と標本が認められた富太郎は、そこで助手や講師をしながら植物学を学びました。そして25歳で「植物学雑誌」、26歳で「日本植物志図篇」と植物に関する雑誌を刊行しました。
研究者として実績を作る富太郎。その一方で研究のために実家のお金を使い、家業はどんどん傾いていきます。そしてついに破産することになったのです。裕福な家庭から一変、貧乏になった富太郎。そんな富太郎でしたが26歳でひとめぼれした壽衛(すえ)と結婚し、子供にも恵まれます。富太郎にはなんと13人もの子供がいるのです。
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