みんなは朝ドラ好きか?科学館職員のたかはしふみかはよく見ているらしいぞ。朝ドラは実際の人物をモチーフにしたものが多い。2023年期上半期の朝ドラのモデルは牧野富太郎(まきのとみたろう)、日本の植物学の父と言われる人物です。

今回はそんな牧野富太郎について解説する。担当は司書資格をもつ科学館職員のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

伝記を読むのが好きな科学館職員。司書資格も持っている。おばあちゃんの影響で朝ドラは幼いことから見ていた。

牧野富太郎の生涯

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

今回のテーマは植物学者の牧野富太郎(まきのとみたろう)。日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎は94年の人生で1500以上の植物に名前を付け、そして14万枚の標本を残しました。まずは富太郎の生涯について解説していきます。

後の植物学の父、牧野少年

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牧野富太郎が誕生したのは今から160年以上前の1862年、第14代徳川家茂が将軍を務めていた江戸時代末期です。土佐(現在の高知県)の佐川村で造り酒屋と商家を営む裕福な家庭の一人息子として生まれました。

3歳で父、5歳で母、さらに祖父とも死別した富太郎は祖母の浪子に育てられます。富太郎の生まれた頃の名前は成太郎でしたが、この不運を断ち切るために富太郎と改名したそうです。

10歳から寺小屋に通い文字を、さらに名教館という塾で漢学、物理学、天文学などを学びました。しかし教育の制度が変わり12歳でまた小学校からやり直すことになった富太郎は14歳で小学校を自主退学。そして幼い頃から植物が好きだった富太郎は自分で本を読んだり観察しながら植物について勉強します。また、この頃から草木はもちろん、化石や昆虫などの絵を描き、観察する目を養っていたのです。

富太郎の出会いと夢

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富太郎は17歳で高知市内の学校で再び学ぶようになります。その頃に会ったのが永沼小一郎という中学校の教師です。永沼は西洋の植物学の本を翻訳しており、そこで動植物を分類する分類学と出会います。

海外の植物学や江戸時代の本草学(医薬に関する学問)に触れた富太郎。より植物学を学んで日本の植物についてまとめたい、新しい植物に名前を付けたいと思うようになりました。そして当時は高知から何日もかかる東京に出向き、本を買ったり展覧会に出かけて見分を広げていきます。

跡取り息子でありながら家のことはまったく気にしない富太郎。そんな富太郎のために祖母浪子は金を用意してやり、そして夢を応援して研究の道に進むことを認めてやります。

牧野青年、本格的に学び出す

22歳の富太郎は矢田部良吉(1851~1899)教授の東京大学理学部植物学教室を出入りするようになります。矢田部教授はアメリカで植物学を学び、帰国後は東京大学で植物の分類などを研究し標本の収集に勤しんでいました。

土佐で描き溜めた土佐植物目録と標本が認められた富太郎は、そこで助手や講師をしながら植物学を学びました。そして25歳で「植物学雑誌」、26歳で「日本植物志図篇」と植物に関する雑誌を刊行しました。

研究者として実績を作る富太郎。その一方で研究のために実家のお金を使い、家業はどんどん傾いていきます。そしてついに破産することになったのです。裕福な家庭から一変、貧乏になった富太郎。そんな富太郎でしたが26歳でひとめぼれした壽衛(すえ)と結婚し、子供にも恵まれます。富太郎にはなんと13人もの子供がいるのです。

\次のページで「富太郎の研究」を解説!/

富太郎の研究

22歳の頃、地元高知で富太郎は新種の植物を発見しました。この植物について富太郎は27歳になった1889年、大久保三郎とともに「植物学雑誌」で発表します。

日本人が初めて日本の雑誌で植物の学名を発表したのがこの『ヤマトグサ』です。この前年、伊藤篤太郎がトガクシソウという学名を付けた植物をイギリスで発表しています。そのため、日本人の学名を付けたのはこれが2例目。そして28歳の時に日本で初めてムジナモを発見し、これをきっかけに世界に富太郎の名が広まったのです。

しかしそんな中、矢田部教授と仲たがいし、研究室への出入りを禁止されてしまいます。矢田部教授はたくさんの時間とお金をかけて一生懸命収集した研究室の標本をもとに本を出版しようとしていました。しかしそれよりも先に研究室に出入りしていた富太郎が、標本をもとに本を出版してしまったのです。それが『日本植物志図篇』でした。

道楽息子と言われた富太郎

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研究ができなくなった富太郎。そんな富太郎を、実家の破産というさらなる災難が襲います。祖母浪子が亡き後も実家からの支援で研究をしてきた富太郎でしたが、ついに財産が底をついたのです。

そのため地元に戻った富太郎でしたが、そこでも植物の研究を続けます。そんな中、富太郎の才能を買っていた研究者の計らいで駒場農学校(現在の東京大学農学部)にて研究ができる事となりました。

助手としての給料で家族を養う富太郎ですが、貧乏生活が続きます。研究のためとなると富太郎はどんどんお金を使ってしまうからです。そんな富太郎を妻の壽衛は「まるで道楽息子をひとり抱えたようだ」と言いながら支えてくれました。後に富太郎は新種の笹にそんな妻の名からスエコザサと名付けます。

日本植物図鑑の完成

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植物の研究を続け功績はあるものの、学歴がない事でなかなか認められなかった富太郎ですが1927年、ついに論文が認められついに理学博士となります。博士となっても富太郎は77歳で東京大学を去るまで講師を続けたのでした。そして退官後の1940年、富太郎は今でも読み継がれている『牧野日本植物図鑑』を出版します。

晩年の富太郎

晩年の富太郎

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1951年、富太郎は第1回文化功労者に選ばれました。文化功労者と言えば科学者や芸術家など文化の向上発達に貢献した人物に贈られるものです。記念すべき第1回には富太郎の他に作家の志賀直哉、物理学者の湯川秀樹などが受賞しています。

この頃、富太郎の自宅には未整理の植物標本が約50万点ありました。この標本を整理するために牧野博士標本保存委員会が組織されます。

退官後も植物への愛を持ち続けた富太郎。牧野日本植物図鑑を読んで植物に興味を持ったという手紙を送ってきた小学生と交流し指導したりしていました。その小学生は後に牧野植物園の園長となった植物学者、小山鐡夫です。体が動かなくなっても自宅の庭で植物を愛でながら過ごしていた富太郎は1957年、子供や孫に見守られながら永眠しました。

牧野富太郎と縁の深い植物

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牧野富太郎と縁の深い植物を紹介します。

\次のページで「1.バイカオウレンソウ(Coptis quinquefolia)」を解説!/

1.バイカオウレンソウ(Coptis quinquefolia)

バイカオウレンソウは富太郎が少年時代から愛した花として知られています。

キンポウゲ科オウレン属
多年草
分布 本州福島県以南及び四国

2.ヤマトグサ(Theligonum japonica Okubo et Makino)

ヤマトグサは日本人が初めて日本の雑誌で学名を発表した植物です。

アカネ科ヤマトグサ属
多年草
分布 日本のみに分布、北は秋田県・南は熊本県まで分布

3.ムジナ(Aldrovanda vesiculosa)

水中の虫を食べることで栄養を補給する水草。東アジアで初めて発見したのが牧野富太郎で、これによって富太郎の名が世界で知られるようになります。

\次のページで「牧野富太郎の名がついた施設」を解説!/

モウセンゴケ科ムジナモ属
多年草の水生植物・食虫植物
分布 南北アメリカを除くヨーロッパ、アジア、アフリカに点在

牧野富太郎の名がついた施設

続いて富太郎と縁のある施設を紹介します。

1.牧野富太郎記念庭園

東京での富太郎の自宅跡に作られた牧野記念庭園。春には桜にツツジ、夏はアジサイ、秋はヒガンバナ、冬はヒイラギと四季折々の植物を見る事ができます。

2.高知県立牧野植物園

富太郎が育った高知県にある牧野植物園は、富太郎が亡くなった翌年に開園しました。この植物園は植物の調査や収集、保全に携わる施設です。様々な植物を育てる庭園がある他、蔵書や直筆の原稿、写生画などが展示される牧野富太郎記念館もこの園内にあります。また、この施設のミュージアムショップには富太郎の植物図をあしらったグッズが数多くあるそうです。

植物を愛した牧野富太郎の生涯

植物に生涯をささげた富太郎。その名が付いた植物もたくさんあります。また今も読み継がれる植物図鑑や植物冊子を多数出版しました。裕福な家庭に生まれながら研究に没頭するあまり貧乏生活だった富太郎。しかし愛する植物と家族に看取られるという幸せな晩年を送りました。愛する妻の名を付けたところにも家族愛を感じます。

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理科生物

簡単にわかる牧野富太郎の生涯!スエコザサの由来も司書資格を持つ科学館職員がわかりやすく解説

みんなは朝ドラ好きか?科学館職員のたかはしふみかはよく見ているらしいぞ。朝ドラは実際の人物をモチーフにしたものが多い。2023年期上半期の朝ドラのモデルは牧野富太郎(まきのとみたろう)、日本の植物学の父と言われる人物です。

今回はそんな牧野富太郎について解説する。担当は司書資格をもつ科学館職員のたかはしふみかです。

ライター/たかはし ふみか

伝記を読むのが好きな科学館職員。司書資格も持っている。おばあちゃんの影響で朝ドラは幼いことから見ていた。

牧野富太郎の生涯

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

今回のテーマは植物学者の牧野富太郎(まきのとみたろう)。日本の植物学の父と呼ばれる牧野富太郎は94年の人生で1500以上の植物に名前を付け、そして14万枚の標本を残しました。まずは富太郎の生涯について解説していきます。

後の植物学の父、牧野少年

image by PIXTA / 77106964

牧野富太郎が誕生したのは今から160年以上前の1862年、第14代徳川家茂が将軍を務めていた江戸時代末期です。土佐(現在の高知県)の佐川村で造り酒屋と商家を営む裕福な家庭の一人息子として生まれました。

3歳で父、5歳で母、さらに祖父とも死別した富太郎は祖母の浪子に育てられます。富太郎の生まれた頃の名前は成太郎でしたが、この不運を断ち切るために富太郎と改名したそうです。

10歳から寺小屋に通い文字を、さらに名教館という塾で漢学、物理学、天文学などを学びました。しかし教育の制度が変わり12歳でまた小学校からやり直すことになった富太郎は14歳で小学校を自主退学。そして幼い頃から植物が好きだった富太郎は自分で本を読んだり観察しながら植物について勉強します。また、この頃から草木はもちろん、化石や昆虫などの絵を描き、観察する目を養っていたのです。

富太郎の出会いと夢

image by PIXTA / 94450157

富太郎は17歳で高知市内の学校で再び学ぶようになります。その頃に会ったのが永沼小一郎という中学校の教師です。永沼は西洋の植物学の本を翻訳しており、そこで動植物を分類する分類学と出会います。

海外の植物学や江戸時代の本草学(医薬に関する学問)に触れた富太郎。より植物学を学んで日本の植物についてまとめたい、新しい植物に名前を付けたいと思うようになりました。そして当時は高知から何日もかかる東京に出向き、本を買ったり展覧会に出かけて見分を広げていきます。

跡取り息子でありながら家のことはまったく気にしない富太郎。そんな富太郎のために祖母浪子は金を用意してやり、そして夢を応援して研究の道に進むことを認めてやります。

牧野青年、本格的に学び出す

22歳の富太郎は矢田部良吉(1851~1899)教授の東京大学理学部植物学教室を出入りするようになります。矢田部教授はアメリカで植物学を学び、帰国後は東京大学で植物の分類などを研究し標本の収集に勤しんでいました。

土佐で描き溜めた土佐植物目録と標本が認められた富太郎は、そこで助手や講師をしながら植物学を学びました。そして25歳で「植物学雑誌」、26歳で「日本植物志図篇」と植物に関する雑誌を刊行しました。

研究者として実績を作る富太郎。その一方で研究のために実家のお金を使い、家業はどんどん傾いていきます。そしてついに破産することになったのです。裕福な家庭から一変、貧乏になった富太郎。そんな富太郎でしたが26歳でひとめぼれした壽衛(すえ)と結婚し、子供にも恵まれます。富太郎にはなんと13人もの子供がいるのです。

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