ソビエト連邦ロシアロマノフ朝世界史

ロシア帝国最後の皇帝「ニコライ2世」とはどんな人物?国際的に果たした役割や壮絶な最期を元大学教員が簡単に分かりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。ロシア帝国の最後の皇帝がニコライ2世。日本が日露戦争で勝利したときの皇帝がニコライ2世だった。第一次世界大戦では指導的な役割を果たすものの、ロシア革命に勝利することはできず。最終的に監禁された末に一家全員が銃殺された。

悲劇的な最期を迎えたことでも知られているニコライ2世。どんな人物だったのか、激動の時代でどのような役割を果たしたのか、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。ロシアやソ連の歴史にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は帝政ロシアの最後の皇帝であったニコライ2世についてまとめてみた。

ニコライ2世はロシア帝国最後の皇帝

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ニコライ2世はロシアのロマノフ朝の第14代。ロシア革命が起こったことにより最後のロシア皇帝となりました。皇帝として在位していたのは1894年から 1917年までのあいだ。ロマノフ王朝と対立する革命派を繰り返し弾圧していたため革命後は銃殺という最期となりました。

1868年に誕生したニコライ2世

ニコライ2世は1868年にロシア帝国の首都であるサンクトペテルブルクにて長男として生まれました。小さなころのニコライ2世は女の子っぽいところがあり、父親は将来の皇帝候補としてそれを心配していました。家庭教師のもとで勉強に励み、とくに得意だったのが語学。母語のロシア語のほか、フランス語、ドイツ語、英語の会話もできるようになりました。

ニコライ2世は専制的な政治を行った人物。専制君主体制の強化を志したきっかけが革新派だった祖父の惨殺です。顔が分からないほどひどい状態で亡くなった祖父の姿を見て、皇帝の力を最大限に高めることを心に決めました。17歳から帝王学の勉強をスタート。自らの皇帝としての姿を確立していきます。

ニコライ2世の訪日

実はニコライ2世は日本へやってきたことがあります。1890年から1891年にかけて世界の知見を広がるために世界周遊を行ったニコライ2世。1891年には軍艦に乗って日本に立ち寄っています。日本には1か月弱滞在。このときニコライ2世はまだ皇太子でしたが、日本政府により国賓待遇で迎えられました。

ニコライ2世は長崎に滞在。鹿児島、神戸、京都などをまわりました。ニコライ2世をもてなしたのは海軍の大佐であった有栖川宮威仁親王。イギリスに留学した経験があり、海外についての知識が豊富。また、英語である程度のコミュニケーションががとれたことも大きかったでしょう。

ニコライ2世が滋賀県の大津にて人力車に乗っていたとき、日本人巡査によりサーベルで切りつけられる事件が勃発。このときニコライ2世の頭蓋骨にひびが入り、その後遺症による頭痛に苦しめられることなったそうです。犯人を取り押さえるときに活躍したのが人力車の車夫。のちにニコライ2世は2人の車夫に勲章を贈りました。

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ロシア帝国ではピエール・ロティによる戯曲『お菊さん』が舞台で上演されており、ちょっとした日本ブームになっていた。そこでニコライ2世は日本人女性を妻として迎えたいと思っていた時期もあったそうだ。実現はしなかったが、もし日本人妻を迎えていたら壮絶な最期を迎えることになっただろう。

\次のページで「日露戦争とニコライ2世」を解説!/

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