シベリア出兵が行われたのは1918年から1922年までのあいです。日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、中国が共同で出兵したものです。革命が起こったロシアに対する干渉の一種です。しかし第一次世界大戦が終わったあとは日本軍だけの単独行動となる。

どうして日本はシベリア出兵に参加し、その地にとどまることにこだわったのでしょうか。その真意や出兵後の状況について世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。ロシアやソ連にも興味があり気になることがあると調べている。今回はたくさんの日本兵の犠牲者を出したシベリア出兵についてまとめてみた。

チェコ軍団の救出を目的とするのシベリア出兵

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1917年にロシアで革命が勃発。その際にとらわれたチェコ軍団を救うことがシベリア出兵の目的でした。革命により共産化の道を歩むロシアを封じ込めることも意図しています。ただ、それだけではありません。複数の思惑が重なり合ってシベリア出兵が行われました。

シベリア出兵のきっかけとなったロシア革命

ロシアは第一次世界大戦ではイギリスやフランスと同盟を結んドイツと戦っていました。1917年に2月革命、10月革命が相次いで起こり、レーニンが指導するボリシェヴィキの勢いが激化。最終的にロシア帝国は1918年に崩壊しました。そしてロシアは世界最初の社会主義国家となり、連合国とは一定の距離を保つようになります。

ボリシェヴィキ政権はドイツと講和条約を締結。第一次世界大戦から離れていきます。その結果ドイツは東部を気に掛ける必要がなくなり、西部戦線に集中できるようになりました。そこで連合国は、ドイツの目を西部戦線からそらすため、そしてボリシェヴィキ政権を打倒するために出兵することにしたのです。

第一次世界大戦後は日本軍の単独行動

イギリスとフランスが中心となり計画されたシベリア出兵。共産主義の封じ込めのほか、ロシア帝国時代の外積を守ることも狙いとしてありました。とはいえイギリスやフランスは西部戦線に戦力を集中しておりシベリアに出兵する余力はなし。そこで軍を派遣していないアメリカとロシアに地理的に近い日本に出兵が打診されました。

日本とアメリカはそれぞれ8000人ほどを派遣することで合意。日本が先陣を切ってウラジオストクに上陸しました。日本はアメリカとの協定を破って8000人を超える兵力を動員。第一次世界大戦により出兵の意義がなくなったあとも日本軍は駐留し続けました。もともとはウラジオストクまでという取り決め。しかし日本はそれを超えてバイカル湖の西部まで勢力を広げます。

シベリア出兵中の日本の実態

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軍隊の派遣規模を拡大させていった日本。しかしながら実際は現地の労働者や農民によるゲリラ戦により苦戦しました。日本の進軍に対してロシアのパルチザンが蜂起。大規模な戦闘が巻き起こることもありました。シベリア出兵の当初の目的は「チェコ軍団の救出」。日本軍にとってそれはまったく関係のないものでした。

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シベリアにて苦戦する日本軍

日本軍が苦戦した理由のひとつがシベリアの気候。零下42℃となることもあるシベリアは日本軍にとって過酷なものでした。日本軍は進軍と撤退を繰り返し、軍隊が全滅する戦闘にもみまわれました。日本軍は兵力を増強させるために反ロシア革命分子と手を組むことも。しかしながら反革命派が敗北したことでますます不利をなっていきます。

日本軍はロシア国民の支持を得るために、ロシアの領土を守ることと内政不干渉を約束していましたが、反日感情は強まるばかり。そこで日本は宗教団体の助けを借りることを決断。日本正教会の神父と西本願寺の僧侶がシベリアに派遣されます。そこでロシア住民が協力的な態度をとるように支援を展開しますが効果はありませんでした。

出兵の名目が曖昧なことで士気が低下

日本軍のシベリア出兵が上手くいかなかったもうひとつの理由が士気の問題です。日本にとってシベリアに出兵する目的は曖昧。連合国に頼まれて軍隊を派遣しただけで、第一次世界大戦が終わると他の国は撤退。当然、兵士たちはシベリアで苦しい思いをする理由を理解できませんでした。戦地では将校たちが囲碁将棋や宴会に興じていたという報告も残っています。

日本軍は村の民家に立ち入り家畜や食料を盗むことも多々ありました。日本国内でもシベリア出兵を続けることに批判が続出。戦費がかさんだこともあり撤退が決定されます。シベリアに唯一残っていた日本軍は1922年に撤兵することを閣議で決定。日本にとってプラスになる成果はひとつもありませんでした。

シベリア出兵が日本に与えた影響

シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)
Tokyo : Shobido & Co - The US LOC image collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

日本がシベリアに出兵することが発表されると日本国内ではさまざまな議論が展開されました。さらには庶民の生活に深く関わるものの物価も変動します。そのひとつが米。シべリア出兵が発表されると米の価格が急激にあがり、食べるものがなくなった庶民は1918年に大規模な米騒動を起こしました

1918年の米騒動とは?

第一次世界大戦の影響により日本の景気は順調によくなっていきました。その結果、米を消費する量も増加。そのため米の価格は徐々にあがっていました。そのときに起こったのがシベリア出兵。兵士がシベリアに派遣されると、政府は大量の米を買い付ける必要があります。そのときに米が高く売れると予想した商人たちは米を買い占めることに。その結果、米の価格が急上昇しました。

米騒動が最初に起こったのが富山。漁村の女性たちが米を安くするように米屋におしかけます。それをきっかけに米騒動が全国に広がり、騒動へと発展していきました。米を買い占めているという捏造記事なども後押し。焼き打ちに遭う業者も出てきました。そこで政府は米価対策のための資金として国費を支出することを決定しました。

シベリア出兵による損害

シベリア出兵は日本に対しても大きな損害を与えました。シベリアに日本軍が派遣されたのは約7年間。なんの準備もなく極寒の地に進軍したこともありたくさんの死者を出しました。戦闘による戦死者は3000人から4000人と推定されています。そのほか寒さによる死傷者は1万人。凍傷が原因による犠牲者と言われています。

シベリア出兵により投じた戦費は10億円以上。政府は第一次世界大戦のための臨時軍事費を予算として組んでいましたが80%はシベリア出兵に充てられたようです。さらに日本がアメリカとの取り決めを破って進軍したこともあり日米関係も悪化。日ソ関係も長らく悪化した状態が続きました。国内外を混乱させたのがシベリア出兵と言えるでしょう。

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シベリア出兵により寺内内閣は終了

The Conference on Limitation of Armaments, Washington, D.C..jpg
By Harris & Ewing, photographer - https://www.loc.gov/pictures/item/hec2013002122/, Public Domain, Link

シベリア出兵を決定したのは寺内内閣。寺内正毅が内閣総理大臣でした。シベリア出兵により国内は米騒動で大混乱。さらには日本軍のワンマンプレーにより外交的にも欧米との関係性が微妙になりました。挙句の果てに出兵による成果はゼロ。寺内内閣に対する国民の不満は大きくなっていきました。

寺内正毅とシベリア出兵

米騒動を収集できなかった責任を問われて、寺内正毅が内閣総理大臣を辞任したのが1918年9月のことです。寺内正毅はもともと軍人としてのキャリアが長く、倒幕軍として戊辰戦争にも参加した人物。朝鮮総督としての功績が評価されたことで内閣総理大臣に推薦されました。しかしながら寺内首相は健康不安を抱えており米騒動をきっかけに辞職。翌年に亡くなりました。

実は寺内首相本人はシベリアに軍隊を派遣することについては慎重な立場をとっていました。外相だった本野一郎がシベリア出兵を強く進言。賛成派の意見を覆すことができず出兵を決断しました。本野一郎は10年近くロシアに駐在していた経験があり、ロシアの一部を日本の領土にすることにこだわりがあったのかもしれません。

加藤友三郎がワシントン会議に出席

加藤友三郎は、寺内内閣のあと、原内閣、高橋内閣、そして自らの加藤内閣にて海軍大臣をつとめた人物。第一次世界大戦のあとの戦後処理を話し合うワシントン会議にも参加しました。シベリア出兵では単独行動が目立った日本。ルール違反のペナルティーもあり、日本にとっては不利な取り決めが進められました。

そのひとつが日英同盟の解消。ロシア帝国とドイツ帝国がなくなったことで不要と見なされました。ワシントン海軍軍縮条約もまた日本にとって不利な内容でした。主力艦を保有する率はアメリカとイギリスに対して6割と決定。日本は明らかに軍縮を求められました。またシベリアのみならず中国からの撤退も受諾。とくに日本海軍の縮小が決定づけられました。

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日本にとってシベリアの何が魅力だったのか

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シベリアは極寒の地。領土を拡大するにはメリットはなさそうに思われます。それにも関わらず日本はどうしてシベリア出兵に固執し、ワンマンプレーをしてまで軍隊を派遣したのでしょうか。

日本人がたくさん住んでいたシベリア

シベリア地方には日本企業が積極的に進出していました。そのひとつが島田商会。ロシア人と島田元太郎が共同で設立した商社です。ロシア革命が起こるまえから島田商会は一定の地位を築き、島田元太郎の肖像画が印刷された商品券を流通させるほどでした。

島田商会が主に取り扱ったのは海産物。シベリアの海域で獲れた鮭を日本に送っていました。島田商会のほかにも米、小間物、木材、菓子パンなどを扱う商会が進出。日本人も数多く住んでいました。そのためシベリアを領土にしたいと思ったことは自然な流れだったと言えるでしょう。

シベリアの豊かな漁場と産油地

1920年、ロシアの極東エリアにあるニコライエフスク港にて、共産党系のパルチザンが日本軍および日本人の住民を虐殺する事件が起こっています。これが尼港事件。このとき犠牲になった日本人は約700名、地元の住民を合わせると6000人近くの人が犠牲になりました。

この地は産油エリアだったこともあり日本にとっては魅力的な場所。シベリア出兵後は、この事件の流れに乗って北樺太の占領を続けました。占領は1925年に日ソの国交が回復するまで継続。シベリアは極寒の地ではありますが周辺には豊かな漁場と産油地があったからこそ、出兵にこだわったのでしょう。

シベリア出兵が日本に残したもの

シベリア出兵により日本はたくさんの犠牲者を出しました。しかしながら兵士たちは何のために出兵するのか分からないまま命を落としていきました。現在のロシア・ウクライナ戦争と比較されることも多いシベリア出兵。明確な理由のない戦争の悲劇を振り返るときシベリア出兵が教えてくれるものは多いはずです。

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アジアの歴史ソビエト連邦ロシアロシア革命世界史

「シベリア出兵」はなぜ起こった?ロシアの極東を望んだ日本の行く末を元大学教員が簡単に分かりやすく解説

シベリア出兵が行われたのは1918年から1922年までのあいです。日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ、中国が共同で出兵したものです。革命が起こったロシアに対する干渉の一種です。しかし第一次世界大戦が終わったあとは日本軍だけの単独行動となる。

どうして日本はシベリア出兵に参加し、その地にとどまることにこだわったのでしょうか。その真意や出兵後の状況について世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。ロシアやソ連にも興味があり気になることがあると調べている。今回はたくさんの日本兵の犠牲者を出したシベリア出兵についてまとめてみた。

チェコ軍団の救出を目的とするのシベリア出兵

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1917年にロシアで革命が勃発。その際にとらわれたチェコ軍団を救うことがシベリア出兵の目的でした。革命により共産化の道を歩むロシアを封じ込めることも意図しています。ただ、それだけではありません。複数の思惑が重なり合ってシベリア出兵が行われました。

シベリア出兵のきっかけとなったロシア革命

ロシアは第一次世界大戦ではイギリスやフランスと同盟を結んドイツと戦っていました。1917年に2月革命、10月革命が相次いで起こり、レーニンが指導するボリシェヴィキの勢いが激化。最終的にロシア帝国は1918年に崩壊しました。そしてロシアは世界最初の社会主義国家となり、連合国とは一定の距離を保つようになります。

ボリシェヴィキ政権はドイツと講和条約を締結。第一次世界大戦から離れていきます。その結果ドイツは東部を気に掛ける必要がなくなり、西部戦線に集中できるようになりました。そこで連合国は、ドイツの目を西部戦線からそらすため、そしてボリシェヴィキ政権を打倒するために出兵することにしたのです。

第一次世界大戦後は日本軍の単独行動

イギリスとフランスが中心となり計画されたシベリア出兵。共産主義の封じ込めのほか、ロシア帝国時代の外積を守ることも狙いとしてありました。とはいえイギリスやフランスは西部戦線に戦力を集中しておりシベリアに出兵する余力はなし。そこで軍を派遣していないアメリカとロシアに地理的に近い日本に出兵が打診されました。

日本とアメリカはそれぞれ8000人ほどを派遣することで合意。日本が先陣を切ってウラジオストクに上陸しました。日本はアメリカとの協定を破って8000人を超える兵力を動員。第一次世界大戦により出兵の意義がなくなったあとも日本軍は駐留し続けました。もともとはウラジオストクまでという取り決め。しかし日本はそれを超えてバイカル湖の西部まで勢力を広げます。

シベリア出兵中の日本の実態

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軍隊の派遣規模を拡大させていった日本。しかしながら実際は現地の労働者や農民によるゲリラ戦により苦戦しました。日本の進軍に対してロシアのパルチザンが蜂起。大規模な戦闘が巻き起こることもありました。シベリア出兵の当初の目的は「チェコ軍団の救出」。日本軍にとってそれはまったく関係のないものでした。

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